084.『オリオンと道化師(7)』
日本刀も、デイパックも、全て置いて行くことにした。なにかを運ぼうと言う気力はもはや残っていなかった。ただ、喉がどうしてもからからに乾いていたので、飲料水だけはズボンのポケットに差し込んだ。本当は今すぐ飲みたかったがひどい火傷を負った場合、命取りになることがあると、聞いたことがあった。今の自分の火傷のレベルはどうなのか、自己判断が出来ないこともあって、お預けにしたのだ。由絵のそばへ辿り着いたら、思う存分飲み干そうと心に決めて。
白い靄が瞳の奥を覆っていて、よく見えない。小刻みに震える腕で辺りを探りながら、少しずつ、一階へ降り立った。
意識は朦朧としているのに、全身を纏う激痛のせいで、気絶することも適わない。いや、今は、失神しても困る。ところで、身体と言うものは、こんなにも重いものだったろうか。手探りに玄関を開け放つと、冷たい北風が剥き出しの、火傷をした素肌をなぞって行った。燦々と熱を帯びていたが、心地良いわけもない、痛いだけだった。それでも、勝平は一歩一歩、歩みを進めた。ほとんど、第六感が頼りだった。記憶の中の初めの風景を呼び起こして、じっと目を凝らして、自分の感が正しいことを知った。
確か、自分は今、Cの3にいるはずだった。白百合美海たちと別れてから、一旦住宅地へ寄ったのだが、そのときは人気を感じなかったので、診療所の方へ回って、再び戻ってきたのだ。由絵がいるのは、Eの7だった。遠いが、仕方ない、構わない。昨夜を過ごしたコンビニエンスストアの付近は、今日の午後五時で禁止エリアに指定されたはずだ。ならば、昼前に彼女らと一休みしたEの4まで下るのが妥当に思えた。必死に目を凝らしながら、勝平はゆっくりと、確実に、歩き進む。
喉が乾いた。水が飲みたい。
朦朧とする意識の断片が勝平に訴えかける。だが勝平は、この時、夢現な気分をさ迷っているのだった。走馬灯のようにこれまでの人生が、現実と夢の狭間でリプレイしている。
たかだか十五年のことだか、ろくな人生じゃなかったな、と思う。――小学校高学年のことだが、古い間取りの勝平の自宅に、厳格な面持ちの中年男性が、何人も押し寄せて居間に侵入した。幼い勝平でも、彼らが何者かはすぐに検討が付いた。お役人だ。当時、反政府運動に精力的に貢献していた両親は、幼い勝平の前で、むざむざと撃ち殺されたのだった。
そして勝平は、父親の姉夫婦の世話を受けることとなった。両親の貯蓄金がそれなりに潤っていたこともあって、勝平の希望通り、私立中学に通わせて貰っているが、叔父と叔母とは、どうも、馬が合わなかった。反政府運動などと言う反社会組織に両親が携わっていたことで、姉夫婦もとばっちりを多少受けたらしいのだ。勝平は常に、厄介者として扱われた。
夫婦には、子供が二人いた。一人は勝平より二つ年上の少女で、勤勉な優等生だった。やはり勝平とは不仲で、顔を合わせれば小難しい語彙の乱立で皮肉を吐き、勝平を困惑させた。もう一人は勝平よりも四つも年下の少年だったが、あまり懐いて来なかったし、勝平も近寄らなかった。
家庭に、勝平の居場所はなかった。いや、家族ですらないのだから、それも当然かも知れない。それでも、こんなときになって、少しだけ思う。一言でも、彼らに対して感謝を口にしたことが、あっただろうか。気に入らない叔父と叔母でも、それだけは、少し悔やまれた。
喉が乾いた。水が飲みたい。
家の外の世界は、刺激に満ちていた。学校は特に楽しかった。気の合う友人がいて、くだらないことで戯れる日々が愛おしかった。特に気が合ったのは
何故、こんなことになってしまったのだろう。そんな鷹之に相手に、憎しみに支配された勝平は、躊躇なく刃を振るった。もちろん、鷹之が由絵に行った暴力の数々は、どう転んでも許せそうにはなかったし、許してはいけなかった。それでも、何故、お前だったんだと思う。そして、相手が何故、由絵だったんだと、考えても仕方のないことで、心が苛む。
喉が乾いた。水が飲みたい。
どれほど、歩き進んだのだろう。地図は置いて来てしまったし、思考が混沌としていて、記憶がはっきりと思い起こせない。ここは、どこだ? 辛うじてまだ目は見えているのに、ここがどこか、思い出せない。
勝平は散乱する思考を集中させて、記憶を辿った。すると、つい、数時間前まで一緒にいたのに、ひどく懐かしく感じる少女たちの姿が浮かんで来た。――気を付けろよ、勝平。――千景くん、色々ありがとう。――死んじゃ、嫌だから。また会おうね、だから、またね――
そう言えば、彼女たちと別れてからややして、後方で激しい銃撃戦を聞いたのだった。間違いなく美海たちが進んだ方角から響いていたが、優先事項を考えて、引き返さなかった。引き返したところで、日本刀じゃ太刀打ち出来ないとも思ったし、なにより、彼女たちは銃を二丁持っていたし、
自分が死んだら、彼女たちは悲しむだろうか。多分、美海は泣くだろう。美海とはかなり親しかったし、勝平と由絵のことに、一番親身になってくれたのは彼女だったのだから。
白百合美海は、不思議な少女だった。秋尾俶伸と
喉が乾いた。水が飲みたい。
国の思惑通りにプログラムが最後まで進行するのであれば、彼女みたいな人に、生き残ってほしいと思う。
喉が乾いた。水が飲みたい。
ずるり、と足がもつれた。ああ、ここは、住宅地に差し掛かるところだ。この急な坂は登るのが大変だったから、すぐに思い出せた。身体が重い。痛くて仕方がない。力が入らない。ひゅーと繰り出される細い呼吸が、荒々しく肩を上下させていた。散漫とした意識の中で、もう限界かも知れないと言う落胆と、いや、ここで諦めるわけにはいかないと言う決意が葛藤していた。
喉が、乾いた。水が、飲みたい。
いつ意識が途絶えても不思議ではなかった。頭に、栄養を送ろう。栄養と言うか気力と言うか、よくわからないけど、とにかくもう、そろそろ、一旦、落ち着いて、よくわからないけど、とにかく、水を、水を、飲もう。
勝平は忙しない動作でペットボトルの蓋を開けた。勢いのあまり蓋が弾け飛んだことには気付きもしなかったが、とにかく、水を煽った。喉仏がぐびくびと音を鳴らして、実に美味そうに喉を潤して行ったが、残念ながら、唇の端から半分以上の水分が、溢れていた。
由絵の笑顔が、瞼に浮かんだ。
勝平の身体が、ぐにゃりと崩れ落ちた。急斜面の坂に投げ出された身体が、激しく音を鳴らして転がり落ちて行った。すっかりと暮れた夜空に、満点の星が輝いている。
最後に、鈍い音が一度、闇の中で木霊する。大の字になって満天を仰いだ勝平のくすんだ瞳に、オリオン座の光が反射していた。ただ、勝平にはもはや、星は見えていなかった。瞼の裏に浮かんだ、愛しい恋人の映像を最後に、気力を使い果たした勝平の意識は、完全に途絶えていたのだ。
びくり、びくりと激しく痙攣を起こす勝平の、火傷に侵された身体はまだ、もう少しは、保ったはずであった。だが、――最後にいっそう強く打ち付けた頭部の裏には、鋭利な石が深々とめり込んでいた。新たに流れた鮮血が、ちりちりに焦げてしまった髪を濡らし始めた。
それが、千景勝平の最期であった。
男子九番 千景勝平──死亡