037.『だからなに?(5)』


 よほど強力な台詞だったのだろうか。獲物を前にぎらぎらと欲望に燃えていた鷹之の顔面が一気に蒼白して行き、呆気に取られ開いていた唇が、わなわなと震え上がった。

「……なんだと? てめえ、もう一度言ってみろ」
「あんたなんか、勝平がいなきゃ、なんにも出来ない、ただの、パシリじゃない」

 火に油? だからなに? 一言一句丁寧に言い直してやると、蒼白していた顔面が一気に、茹で蛸のようにかあっと赤く豹変していく。由絵はそれを他人事のように、スクリーンの切り抜きの一つみたいに見ていた。おかしな感じ。最高潮に腹が立っていると言うのに、胸の中は妙に冷たく、凍えていた。恐らく僅かばかり残っていた鷹之に対しての良心が完全に消失したのだろうと思った。

「犯したきゃどうぞご自由に。煮るなり焼くなり、お好きにどうぞ。もっとも、あたしの恋人と友人を全て敵に回す勇気が、あんたにあるならね? あんたみたいなヘタレクズに出来るとも思いませんが、如何でしょうか? このチンカス野郎」

 まさか自分の口元から、こんなに汚い言葉の数々が零れ落ちるところなどこれまで想像したこともなかった。相当ショックだったのかも知れない、鷹之は茹で蛸のような顔を崩すこともなく、呆気に取られてわなわなとおののいている。
 由絵は捻挫していない右足で、馬乗りになったまま固まっている男の股間を蹴り上げた。う、とも、ぎゅ、とも当てはまらない奇妙な声を上げて鷹之が腹を抱えるように倒れ込む瞬間、今度はその顔面を肘で思い切り打撃する。エルボーとか言うやつだ、もちろん初めてやった。
 どこを庇っていいやら困惑してる様子の鷹之に、由絵は先ほど転倒した際に落としてしまったスプレーを探す――あった、ほんのすぐそこ、腕を伸ばせば掴める場所に。迷わず由絵は催涙スプレーを掴み掛かり、再び鷹之目掛け噴射させた。
 効果の確認もそこそこに由絵はよろけながら立ち上がると、捻挫した足の痛みも振り切るように駆け出した。しまった、鷹之のコンバットナイフは回収しとけば良かったと頭の片隅に過ぎったが、もう気にしていられなかった。

「くそったれこのアマぁあああ!」

 雄叫びのような絶叫が聞こえるが、とにかく、前へ、前へ。捕まったら今度こそただでは済まされない。畑道を抜ければ森がある。足場は悪いけど、それはきっとお互い様だし、遮るものがあるだけきっとマシだ、きっと。
 しかし、どこかで左足首を庇っていたのかも知れない、あっさりと由絵は飛びかかって来た鷹之の体重を、もろに受け止めた。
 がつんと顎から頭の天辺にかけて、電流にも似たような凄まじい痛みが跳ね上がる。地面は土なのに、鋭い固形物に当たったみたいな感覚――石だった、それも、何故この場所にあるのかの言うような、大きい石。前のめりに転倒した由絵はその石を、運悪くも顎で受け止め、ばっくりと裂けたそこから鮮血が滴り落ちた。
 石に顎を殴打した衝撃で跳ね上がった首は横にずれて、柔らかい土に落ちる。しかし乱暴に仰向けに反転させられ、襟首を掴まれて、わさわさと上下に揺らされた。

「テメエになにがわかんだよ、このアバズレ女! 許さねえ、許さねえ、許さねえ!」

 がつん、がつん、がつん、と上下に揺さぶられる動作に合わせて、頭部を、石に向かって何度も何度も、打ち付けられる。がつん、がつん、がつん、がつん、がつん、がつん、がつん、がつん、がつん、がつん、がつん、がつん、がつん、がつん――。

 鷹之が我に返った時、由絵の意識はすでに消失していた。由絵の後頭部から新たに溢れ出した血液が、土に吸い込まれて地図を描き出しているのだった。





【残り:35名】

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