074.『透明な罪にしなだれて(9)』


 そして、榎本留姫は、如月仁がこれまで出会って来たどんな彼女よりも、よりいっそう美しく、可憐に感傷的な微笑を零す。芽をついたばかり蕾が、時間と共に大きく成長して行って、そして一気に花開いたような感じの。例えばそう、プリムラと言う花がある。花の絵を描くと言う指令があったとして、たいていの者もしくは単純な者は、真ん中に小さな円を描いて、その周りに線を波打ち、花びらを描くだろう。単純に、花としてイメージし、脳裏に浮かんだそれが、プリムラだ。花の辞典を参照すると、花言葉はそう、愛情とか、神秘な心だとか、運命を開く力だとか、なんのことはない、留姫にぴったりと似合いの花であった。
 僅か数分の沈黙時間を、永遠にも等しいと感じるほど、仁は豊かな感受性の持ち主ではないはずだった。けれど、永遠に似ていた。呼吸をするのも呆けるほどに、留姫の話に聞き入り、あんぐりと顎を落とし、そして、僅かに慄然としてさえいた。

 この、榎本留姫、と言う、少女は。
 驕り、とも言えるほどに余裕の眼差しで、同い年の少年少女をむざむざと殺戮して行った彼女は。極々ありふれた、陳腐な思念で以てして、ゲームを行使していたわけではなかったのだ。
 それはもちろん、危険な思想と言っても、差し支えはないはずだった。仁が人としてこの世に産まれ落ち、殺人を最大の禁忌としている限り、留姫を憐憫してはいけないはずなのだ。ああ、けれど、よもやこのゲーム盤の上では、それは禁忌ではなかったのだ。仁はこの時、思考が静かに混沌としていた。なにが正しいのか、間違いなのか、善きことと悪いことの整合性が取れない。
 けれど、一つ、確かに言えることがあった。留姫は思いの外、聡い少女であった。その利発的な少女が、通じるはずのない言い訳で型通り誤魔化しているのではなかった。留姫は端っから仲間を集めて脱出だなんて模索は、脳裏を掠めもしなかったに違いない。けれど留姫は多分、純然たる少女でもあった。だから、仁を、或いは間宮果帆や本堂空太を、偽善と切り捨てることはしない。偽善と言う言葉自体が、他者への暴力であると同時に、自身を諌める言霊だと知っているからだ。それならば、あの好戦的で挑発的な態度も、きっと、なにか意味があるに違いない。
 それでも確かに言えることは、留姫はまだまだ未成熟な、うぶな、ほんの中学三年生の少女であり、留姫もまた、紛れもなくこのプログラムの犠牲者だったのだ。



 不意に、スコープから留姫の姿が消えた。仁と留姫の、足下の平行線が途切れていた。留姫が無言で背を向け、さっき多分、本堂空太たちが消えた方角とは別の木々の間を、颯爽と越えようとしていた。
 ここで、撃たなければ――ここで留姫を殺さなければ、行く行くは本堂空太たち然り、もしくは仁の、兼ねてより胸の中に埋まるしこりのような彼女たち――佐倉小桃や白百合美海さえも、その手に墜ちるかも知れないことは、わかっていた。けれど、仁はどうしても、引き金を引くことが出来なかった。
 留姫が一度、仁の動向を確かめるように振り返ったが、その時はすでに、プリムラのような笑みは抜け落ち、変わりに、普段のような無表情に戻っていた。留姫の周りだけ、空気が凍っているように感じた。それはひどく、感傷的な気分に陥ってしまった仁だけにそう見えるのか、それとも、彼女自身の虚無感の為せるそれだったのか。知らないし、そんなことは重要ではないし、どうでもいい。

 留姫は消えた。それでようやく、仁は肺一杯に空気を吸い込んだ。

 昔、そう、もう十三年も前の話になる。香川県の公立中学の生徒、男女二名が、プログラムの会場から忽然と姿を消したことがあった。この忌々しい首輪を外し、担当教論と専守防衛兵士を立て続けに射殺し、どこかへ逃亡したと言うのだ。大東亜共和国の民衆の間では、通称沖木島脱走事件≠ニ呼ばれるもので、およそ共和国民でこの事件を知らない者はいない。
 七原秋也、そして、中川典子。とっくに海外への逃亡を済ませているだろうこの二人は、未だ行方知れずであり、目撃情報もない。けれど、共和国において、この二人は罪人であった。それも、かなりの大罪であった。
 両二名の残された家族(七原秋也は孤児でそれも報道されたのだが、仁の知るところではなかった。当時彼は二才だったのだ)に対して、国がどんな仕打ちを返したか、そんなことはどこの局も報道などしない。けれど、この国が、反社会的思想の持ち主を、そしてその疑いがある者を、寛容に対応するわけもないのだ。不味い飯を食わされて、泥水を浴びて、どこかでひっそりと暮らしているのではないだろうか。お天道様の麓で生活出来るわけもない。
 けれど、七原秋也と中川典子の功績は、仁たちのようなプログラムを正に体験している身には、希望の星となり得た。少なくとも仁にとってはそうだ。そして、同じように、脱出を胸に殺し合いを拒絶し、懸念し、断絶している生徒がいるはずだと、信じている。

 だが、留姫は違う。彼女は死ななければ良い、と言うことではないのだろう。このゲームで、最終生存者となり得て、もっとも母親に優しい形で帰宅する。それこそがきっと、彼女の望みなのだ。留姫は決して、猟奇的な殺人を好んでいるわけではないのだ。少なくとも仁には、そう思えた。
 決して相容れる存在ではないし、そうなりたいとは思わない。けれど、頭ごなしに否定することは哀れで惨めだ。自分を基準に他者を貶めることは楽で、無意識の大義名分にたる脆弱なプライドを守る秘訣でも、あると思う。けれど、仁は、ただ目を逸らせるほど愚鈍にはなれない。だから――

 榎本、見逃すのは、今回だけだ。

 次に彼女に出会ったときは。出会うことがあったならば。もう、容赦はしない。してはいけないのだ。





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