094.『あの温度で無限の呼吸がしたかった(3)』


 お互いに弱くて脆くてほんの幼いちっぽけな子供だったけれど、苦しいほどに愛しすぎた。好きだと口にすることもついには出来なかったけれど、決別しなければいけない自分自身はきっと、世界が破滅しても彼女が自分のそばにいてくれればそれで良いと思ってしまうのだ。

 ――あなたと一緒に墜ちてみたい。這い上がれないくらい深くて暗いところから、あなたに手を伸ばして縋ってしまいたい。

 切なくて小憎たらしくて貪るように噛み付いた唇を、そのまま食い尽くしてしまえば良かった。骨の髄まで侵食してしまって二度と自分なしでは鼓動も止まるほど依存させたかったのに、そうなってしまって執念と失意の中で死んで行くのはいつも自分の方だった。どこで歯車が狂いだしてどこで匙加減を間違えたのか。
 ルージュを丁重に乗せたかのように斑がない、艶やかなきらきらとした桜色の唇は、いつだって俺を喜ばせたと思ったら悲しい言葉を口にするんだ。

 ――でも、綺麗なままでいてね。私に汚されてしまわないで、綺麗でいて。





   * * *



 縫合手術を終えたら、再び晶たちとは別行動を取ることになっていた。当然の如く夜が明けるまでロッジハウスでやり過ごすつもりだった晶たちとは対照的に、果帆はかなり意欲的であった。もちろん、何故好き好んで最も危険な夜更けに――と、果帆は怪我人だったこともあって結構な反対は受けたが、むしろ、夜の内に行動したかったのだ。そう、だって、危険なのだ。だから白百合美海にしろ、乃木坂朔也にしろ、他の仲間も、なにか行動を起こすとしたら昼間だろう。それでは無駄に体力を消耗するだけで、行き違ってしまう可能性が高いと果帆は考えた。森林地帯は無理でも、建物を片っ端から当たりたい、なんとしても会いたい。――幼なじみの八木沼由絵(女子十九番)の名前を、あの気狂いじみた女の口から聞かされた時のような喪失感は二度と御免だ。そのためには、ああは言ったものの、昨晩から共にした彼と離れてしまっても、仕方がないと思った。
 彼のことは、どうしても放っておけなかった。こんなわけのわからない殺人ゲームに放り投げられて、自分の見えないところで一人、混乱し、怯え、挙げ句誰かに襲われることを想像したら心臓を鷲掴みされたような息苦しさと、どうしようもない悪寒に身体が震えた。そばにいて、見守って、出来ることなら彼の全ての不安を取り除いて癒してあげたかった。そんな器量が自分にあるとは思えなかったが、それでも、彼のためになにかがしたかった。
 だから、この怪我は、勲章だ。もしも彼を庇ってあの時死んだなら、他でもない彼のためだったなら、案外それで満足だったのだ。見返りなんていらない、ただ、生きていてくれれば、それで良い。ただ、一つだけ望むとしたら、木漏れ日のような彼のままでいてほしい。これからなにを見ても経験しても、彼には綺麗な純粋な真っ白な心のままで、一点の曇りも影もなく、そのままでいてほしかった。
 だが、彼は自分も着いて行くと、迷わず言ってくれた。
 一人きりになどさせたくなかった。だから親しい友人たちと再会して戯れる彼を見て、ああ、もう自分が着いていなくても大丈夫なのだと、少し寂しかったけれどそれで良いのだと思った。ちくりと注射針を刺されたような僅かな痛みも胸にはあったが、でも、その痛みを認めては離れられなくなるのは多分自分自身だった。目を逸らした。納得した。けれど、彼は一緒に着いて来てくれると、そう言ったのだ。

 ――いったいなにを、落ち込む必要があるのか。じゅうぶんだ。

 果帆はそっと、瞼を開けた。薄い唇の隙間から零れる白い煙が真っ直ぐに立ち昇り、渦を巻きながらやがて空中に溶け込んで行った。同じように自分も酸素に溶けてしまいたいと、ふと思った。



 なあ、と、唐突に、生きていないような声が聞こえた。

「果帆に頼みがあるんだ」

 蚊の鳴くように小さな声だった。果帆は小首を捻り、驚嘆と呆気に取られる。
 テーブルに少し寄りかかる形で腰掛ける晶は、彫刻のように均整の取れた細い身体をうんと前屈みに丸め、男らしく大股を広げていた。その堂々たる佇まいは、いつもなら時折取っ付きにくいとも感じる精悍な雰囲気さえ醸し出しているのだが、今日に限っては果帆には小さく見えた。とてもとても小さく見えた。

「……アキラ?」
 躊躇い勝ちに果帆は、伺い込むようにその整った顔を見上げた。
「なんだよ、頼みって」

「美海に会っても、俺のところには連れて来ないでほしい」

 は、と掠れた音が自分の口元から零れる。思いもしなかった言葉に、果帆は呆気に取られたまま眉を高く高く上げた。よろしくな、と言って果帆を見返した晶には、いつものニヒルな笑みは浮かんでいなかった。
 馬鹿だ――果帆はまん丸に見開いていた瞳を、現に泳がせながら、静かに眼を伏せた。アキラは馬鹿だ、気付いていないとでも思ったのか。互いにちょっかいを掛けて教室で戯れる光景だとか、親しげに顔を突き合わせ笑い合う光景だとかは一見変わりないようでも、果帆にはどこか、妙に余所余所しく映っていた。
 例えばそう、美海は親しい間柄の友人に対しては異性同性問わず遠慮なく肩や手に触れたり、時にはハグしたり、スキンシップがいささか過剰な部分があった。あざとさを感じさせず自然とやってのけてしまうのが美海の凄いところであり魅力だったが、実際になんの打算もないことは果帆もわかっていた。それが最近になって、晶に対しては、直接的な接触を避けていたのだ。美海に関してはそう言った振る舞いの方が明らかに不自然だった。晶も晶で、前は構いすぎなくらい美海、美海、と執拗だったのだが、ここのところは揚々といつまでも構ったりしなくなった。気を付けて見ていなければわからないくらいの、僅かな変化。僅かだけれど、二人の関係は変わっていた。

「前から思ってたけど、……最近、美海となんかあった?」

 思い切って訊ねると、晶はあからさまに顔を背け、自分は遠く関係のない場所にいるような淡泊な声で、あっけらかんと答えた。

「美海から聞いてない?」

 言われて果帆は、少し胸のしこりに触れられたような沈んだ表情で軽く首を揺らす。

「美海はそーゆー話、あたしにもしないよ。寂しいけど」

「そう」
 俯き、孤独な影に縁取られたみたいに浮かない顔付きで、晶は張り付けたような笑顔を浮かべた。
「俺も少し寂しいかも、話す価値もないかな、俺って」

 そこまで本心を吐露し、すぐにしまったと言うように眼を張った。そして罰が悪そうに頭部をむしゃくしゃと引っかき、「あー、そうじゃなくて」と弁解しようとした声には遣り場のない苛立ちが見えた。
 果帆は煙草を勢い良く灰皿に押し当てると、床を蹴るようにして立ち上がった。素早い動作で晶に詰め寄ると、だらしなく襟元で結わえられた青いネクタイを鷲掴み、ぐっと手前に引き寄せる。

「連れて来るよ、美海を、あたしは」



「……俺は、美海を殺すかも知れないよ?」

 極度に感情を押し殺した、喉につかえた泥を飲み込むような声だった。



「――はっ、お前ってほんとにっ、不謹慎すぎる!」

 引きちぎらんばかりの強さでネクタイを弾き、果帆は晶の尖った肩を思い切り後方へはねのけた。晶の身体は僅かに傾いただけで、ほとんど微動だにしないことが余計に腹立たしかった。
 果帆は元の定位置に腰を落とし、不機嫌さを隠しもせず腕と脚を交差させる。

「割と真面目だって言っても?」

 頭の位置を固定したままちらりと一瞥すると、晶は俯き勝ちにジッポーをカチャリと鳴らし、新しく咥えた煙草に火を点していた。点火と同時に吸った煙をやつれた様子で溜め息と共に吐き出し、今度はどこかに感情を置き去りにしたような無機質な声色で、続けた。

「これでも俺、それなりに余裕ないんだよね。美海がそばにいたら、苦しくてどうにかなっちまうかも」
「アキラ……」

 言い掛けた果帆の言葉は、喉の奥につかえてそれ以上は出て来なかった。どこを見てなにを考えてるかもわからないような、遠く、遠い場所に行ってしまったみたいに晶は希薄だった。――どう言えばいい? なにを聞けばいい? プレイボーイのくせに、何人もの女を泣かせて来たくせに、ただ一人の女のことでそんなにも苦しそうな顔をするなんて、馬鹿だ、馬鹿みたいだろ、本当は誰よりも想ってるだなんて、馬鹿だ、アホだ。

「なにをするかわからないから、怖いんだ」





【残り:27名】

PREV * NEXT



人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -