009.『ゲームスタート(3)』


 九月には体育祭があった。普段はのほほんと伸びやかでマイペースな印象のある香草塔子は意外にも足が速く、最後のリレー競技では選手に選ばれていた。アンカーの竜崎圭吾りゅうざきけいご(男子二十二番)にバトンが手渡され、圭吾がぶっちぎりでゴールを決めた時、クラスメイトは手を取り合って喜んだ。塔子の愛嬌のある顔が感極まって涙で濡れると、微笑ましげに友人たちが取り囲って彼女の華奢な肩を叩いて行った。
 その愛嬌のあった丸顔は今や血の気はなく、つぶらだった瞳は一点を見つめたまま、永遠に動くことはなかった。

 香草塔子の最期を看取った如月仁は、その開いたままになっている瞼を優しく指の腹でなぞってやる。せめて、先にあの世へ送られてしまった友人の七瀬和華に、無事に再会できるようにと――そう願うのは、まだ命ある人間の傲慢になるだろうか。瞳を閉じた塔子の死に顔は壮絶な最期だった割に、途端に安らかなものになった気がした。仁にはそう見えた。そう思いたかった。
 仁は観念したように彼女から一歩身を退くと、支給されたデイパックへ取り出したばかりのペットボトルを押し込む。塔子の傍らに投げ出していたコルト・ガバメントを手探りで掴むと、グレーの制服ズボンの後ろに深々と射し込んだ。

 重い腰を起こし荷物を肩に担ぎ上げ――た、その時だった。



「塔、子……?」



 怯えた小動物のような掠れ声にぎょっとし、仁は消え入りそうな小さな気配が現れた方向へと、恐る恐る首を回した。
 佐倉小桃さくらこもも(女子六番)だった。あまり目立つタイプではないがそれなりに茶目っ気があって、そこそこ明るい印象の、柔らかく感じの良い女の子。仁はクラスメイトの交友関係をきちんと把握しているわけではなかったが――確か塔子と同じグループで、仲が良かったはずだ。
 その小桃が、事切れた塔子と返り血で汚れた仁を愕然とした表情で、見据えていた。

「佐倉……」
 仁は弛緩な動作で上半身を捻った。そして、根の張った草のように重い足を前方へ踏み出すと、小桃はほぼ引き摺るように一歩、後ずさる素振りを見せる。胸がちくりと痛んだ。仁は震える声で、確かめるように言葉を絞り出した。
「佐倉、これは、違うぞ……?」

「あっ……」

 恐怖と動揺を必死に押し留めるかのように小刻みに震える小桃に近寄ろうとして、仁はそれ以上進むことができなかった。
 どうしよう――なんて説明すれば良い? 血塗れになってしまった制服ブレザー。足下には、香草塔子の物言わぬ亡骸。立ち竦む小桃と、弁解をしようとして上手く言葉が見つからない仁の距離は縮まらない。
 どのくらい、そうしていただろう。突然、うねるような暗闇の奥から、高く清らかな声が木霊した。

「佐倉さん! 如月くん!」

 小桃の背後から、白百合美海しらゆりみみ(女子七番)が駆けてくる。二人の姿を確認した美海は驚いたように大きな瞳を見開き、愕然と立ち竦む小桃の腕を躊躇なく取った。

「佐倉さん、しっかりして!」
「あっ!」

 走り寄って来る美海を、仁もまた、愕然と眺めていた。――まさか、よりにもよって彼女に、こんな現場を目撃されるなんて。
 小桃の腕を引いた美海は正門へ一目散に駆けていく。仁のことを、一度も振り返ることなく。

「違う、違うんだ、白百合……」

 力なく呟き、仁はその場に膝を落とした。二人の姿はもう見えなかった。





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