099.『太陽を壊した魔女(2)』
「……よし」
小声で一人頷き、ほうと息を吐いた晶は仄かに滲む手汗に気付き、インストール完了のメッセージが表示されたデスクトップの前に、怖ず怖ずと掲げる。ああ、やばい、少しだけど震えてる。こんな緊張感は初めての経験ではあったが、自分は、自分が思う以上に臆病な性格だったようだ。情けねえな、と自嘲気味に右端の唇を釣り上げ、もう一度、ほうと息を吐く。
おもむろにズボンのポケットを弄り、愛煙のクール・キング・メンソールを咥えると瞼を伏せる。一緒に取り出したジッポーライターを両手で囲むようにしながら点火すると、やたら重く感じる頭部の重力に引きずられるみたいにして、天井へ煙を吹きかけた。身体の芯にニコチンが染み渡っていく感覚があって、なんとなく落ち着く。これだから煙草はやめられない。
晶はダイニングテーブルに置かれた電池式ランプの、柔らかいオレンジ色の光に白く漂う煙を、ぼんやりと眺める。ランプの灯りに、手の平を翳す。――無意識の内に胸の深くからじわじわと滲み出る、悪寒のような身震いと言うのは経験がある。あれも、割と最近のことだ。まるで氷を炎で炙ったみたいに寒いのか熱いのかもわからない、あべこべであやふやな、ふと意識が遠退くような朦朧とした感覚。そしてその中に、自我が喪失してしまうような、末恐ろしさが同時に芽吹く。ああ、この感覚は嫌いだ、とても嫌いだ。考えてはいけないと思うのに、何故か逃がしてしまわぬように、噛み締めるように思い出すのだ。あの日のことを。――綺麗なままでいて、と囁いたあの日の彼女を。
情けねえな、ともう一度自嘲し、感傷的な気持ちを誤魔化すように煙を吸い込む。
窓際から三人の控えめだけど陽気な、終わりのないキャッチボールみたいな会話が聞こえる。晶はまだ長い煙草を惜しげもなく揉み消し、普段の飄々とした態度を取り繕って、努めて明るく声を上げた。
「なーに話してんの?」
そう言って、ちょうど晶に背中を向けていた夏季の肩に手を添える。
「おお、道明寺」
唐突で驚いた、と言うようにやや上擦った声で夏季に名前を呼ばれる。
ランプの灯りがあまり届かない窓際は、三人のシルエットがぼんやりと浮かんでいると言う程度だった。壁を背にして相変わらず、頭の上で腕組みをする圭吾。俯せに床に寝そべって、上目遣いにこちらを見る冬司。胡座をかいて背中を見せていた夏季は、手を添えられた方向へ首を反転させた。
「大した話じゃねえよ? 沖縄行ってたら、今頃こんな感じだったのかなーとか、そんなんだよ」
それはそれは――確かに大した話じゃなさそうだけど、興味深いじゃないか、と晶は夏季と冬司の間にどかりと腰を落とした。
「お前ら部屋違くね?」
「道明寺こそ違うだろ、お前、大部屋だったよな?」
「そうだねえ、御園たちと一緒だったわ、そう言えば」
おおよそ二週間前の自習時間に修学旅行の部屋割りをしたのだった。晶と朔也、直斗の三人組は、御園英吉率いる不良グループの面々と同じ十人部屋であった。あと、如月仁と。
夏季は普段から特に仲の良い空太や菫谷昴など、所謂男子中間派の六人と一緒だったはずだ。圭吾と冬司は、同じく運動部所属の筒井惣子朗や目黒結翔、それからオタクコンビと、計六人。――こうして思い返すとつい昨日のことのようだ。なのに、こんな殺人ゲームに強制参加させられて、この中の半数があの世へ逝ってしまった。
「そう言えばアキラさ、なんで御園くんたちと同じ部屋に行きたがったの?」
冬司が俯せに寝そべっていた身体を反転させ、大の字になって寛ぎながらそう問い掛けて来る。
「あー、それ俺も思った」
同調したのは圭吾だった。圭吾は組んでいた腕をようやく崩し、やや身体を捻って体勢を変える。
「てっきり俺らと大部屋になるんだと思ってたんだぜ? てか、惣子朗がそうなると思うって言ってた」
「あー、それはほら、煙草吸いたいじゃん?」
事も無げに言うと、「おっと、どう言うことだ」と、圭吾が笑う。
「俺って不真面目じゃん? 御園たちも不真面目じゃん? 都合いいじゃん?」
「そーゆーことかい」
すかさずツッコミを入れてくれたのは夏季だった。学校では割と果帆がこの役を買ってくれるのだが(朔也や直斗は温厚すぎてイマイチだ)、夏季のノリも中々好きだ。空太がのほほんとしたタイプなので、ちょうどバランスが取れているのかも知れない。いや、彼もあれで割と毒舌だったりするが。
「あいつら結構破天荒だから話も合うじゃん? あ、エッチな話ね」
やはり中学三年生の男子としては、そっちの話題への興味は尽きないと言うもので――例えばそう、千景勝平。場数を踏んでるのは自分の方が圧倒的に上だろうが、彼はあれで中々女を泣かせて来た口である。自分のようにコテコテな肉食系丸出しではない彼が、女に興味などなさそうな面をして、どうやって食い散らかして来たのか、少し興味があったのだ。あとは、エロ河童丸出しの譲原鷹之や高津政秀辺りが、エロ画像やエロ動画を大量に見せびらかして来そうだ、そう言うのは楽しい。自分は普段から天才ぶってるし実際天才なのだが、馬鹿騒ぎも馬鹿話も大好きなのだ。
「それになんか、あんまり下品な話は筒井くんの前じゃ出来ねえもん、引かれそうで」
「いや、あれで惣子朗も結構イケる口なのよ、むっつりなだけで」
「怒られるよ」
圭吾と冬司のやりとりを最後に、夏季が耐えきれず吹き出した。筒井惣子朗に下ネタを振ろうものなら、顔を真っ赤にして俯いてしまいそうだ。さすがは男子学級委員長兼野球部の主将を務めていただけあって、誠実と言うか純情と言うか。でもそうか、むっつりなのか、立派に男の子だ。――出発前、兵士たちによって射殺された彼の姿が蘇った。まるでまだ生きている人を語るような圭吾と冬司のやりとりに心が痛くなる。切り傷を風で撫でられるような、やるせない痛みだった。
「こうしてると平和だなー」
と、夏季が目を細めて言う。
「修学旅行、楽しみにしてたんだけどな」
彼の言葉を最後に、しんと空気が静まり返る。ややして、控えめに笑みながら冬司が「そうだね」と肯定すると、寝転がっていた姿勢を起こし改めて晶を見た。
「アキラ、なにか話があったんじゃない?」
彼は慎み深くてのどかな、大福のように丸い神経の持つ主だが――さすが、小田切冬司と言ったところか。彼はかなり洞察力が鋭いところがある。女子の人間関係もよく観察しているようだ。彼のような賢い人間がそばにいると、話が早くて助かる。
「ああ、例の話だ」
晶はそう言って、にやりと不適に唇の端を上げる。どことなく緊張感の漂う三人の顔を見渡し、あんまり身構えるなよ、と目頭を緩く解いた。
「こっち来いよ、一から説明してやる」