077.『魅せられて』


「間宮、ここ座って」

 如月仁の介入により榎本留姫の襲撃から逃れた間宮果帆と本堂空太の二人は、鬱蒼とした森林地帯をコンパスを照らし合わせてさまよい、幾分空間の広がった箇所で、ようやく足を止めた。エリアにするとJの3から4にちょうど差し掛かる付近――もう暫く進むと関根春生の殺害された洞窟の近くへ抜けるはずだが、それは空太たちの知る由ではない。
 自分のものと果帆のものと、二人分のデイパックを抱えていた空太は、薙ぎ倒された立木に果帆を座らせ、どこか罰が悪そうにしながら腰を落とす果帆を見届けてから、改めて膝を折る。担いでいたデイパックを付近に横たえ、自分のデイパックから水の入ったペットボトルを――まだ口の開いていないものを取り出した。
 改めて果帆の様子を確認する。負傷した部位は左側を中心に、頬と二の腕とふくらはぎのおよそ三ヵ所。頬とふくらはぎは思ったより軽傷だったが、問題は二の腕であった。カーディガンの左裾が、そこだけ絵の具に浸けたように赤黒く変色している。裂けたニットの隙間から、ざっくりと中身の露わになる患部が覗いていた。すでに赤黒く膜を覆っていたが、それでもどくどくと出血しているのが見える。痛いだろう、痛いに違いない。空太は自身の蒼色のネクタイを解きながら、果帆を覗き込むように見上げた。

「痛くない?」
「いや、全然。余裕でしょ」
「……とりあえず上脱ごうか」

 どう言うわけか果帆の右拳が空太の頭部を小突いた。何故?、と言うように不思議そうに見詰めると、呆れた口調で「言い方が悪い!」と一喝される。全然意味がわからない。
 それでもいそいそと、患部に気を配りながらカーディガンを脱ぎ捨てる果帆の様子を黙って見守る。強がってるのか本当に平気なのか、空太には判断がつかなかったが、とりあえず苦痛を感じているようには見えなかった。
 白いブラウス一枚の姿になった果帆は、そこで空太の顔色を見た。べっとりと血を帯びた布が、肌に張り付いている。白の布地に栄える鮮血はよりいっそうグロテスクに思え、なんだか目の前が一瞬ぐらついた。仕方がない、自分はホラー映画などは苦手だったし、血を見るのは大嫌いなのだ。そもそも、月一で自分の鮮血を見慣れている女子と違い、男子は余程のことがない限り血を見る機会なんてないと思うのだ。
 それでも、空太は気を引き締めて、迷わず赤塗れたブラウスの裾に触れた。さすがに脱がせるわけにも、患部の辺りまで捲るわけにもいかなそうだったので、肩の縫い目に合わせて力強く引っ張った。しっかりと縫い止められた糸は初めは一筋縄ではいかず、ずいぶんと苦戦されられたものだったが、びりっと一部に穴が開くと、あとは耳障りな音を上げて呆気なく裂けた。
 果帆が意外そうに目を細めて言う。

「へえ、結構力あるじゃん」
「そう? まあ、間宮よりはね」

 患部を擦らないように、出来る限り素速く、腕から取り除く。空太は痛々しい傷口の上を、先ほど解いたネクタイできつく結わえると、「行くよ」と声を掛け、晒された赤い素肌の上にペットボトルの水をゆっくりと流した。一瞬、果帆の顔が苦痛に歪むのが、視界の端に映る。やはり、痛いのだろう。何故、平気ぶるのだろうか。十分心配しているのだから、痛いと言えば良いのに。

「ごめん、やっぱ痛いよな」
「なんで謝るんだよ。一瞬だけだよ、ほんの一瞬」
「……間宮、なんでそんなに強がるの? いいよ、気を遣わなくて」
「……別に。本当、大して痛くない」
「それって麻痺してんじゃねえの」

 一通り患部と、赤塗れた腕を綺麗に流し終える。ペットボトルの水は半分以上減ってしまったが、水分は民家で調達していたので惜しくはなかった。空太は持参していたハンドタオルを取り出して、濡れた腕の上を優しく拭き取ってやる。改めて、傷口を見た。綺麗に洗われた透き通るように白く細い素肌に、不似合いほど赤黒い口が開いている。ぱっくりと言うより、ざっくりと。その中に、黒い点のようなものが二つ、浮き彫りになっていた。

「ちょ……これ、血管じゃねえ?」
「うそ、マジ?」
「やばいよ、間宮、黒いのがどくどくってなってる」
「お前……ビビらせんな、バカ」
「あ、ごめん」

 血管が切れてるのかも知れない、と思ったら、ぞくりと背中が寒くなった。この出血量なのだから、それも当然かも知れない。

「な、なあ、腕、動くの? 感覚ある?」
「まあ、神経はやられてなさそうだけど」

 見るからに狼狽える空太を尻目に、果帆は右手でデイパックを探っていた。不思議に思ってそれを眺めていると、小包のようなものが出てくる。それから、縦長の小瓶――青と白のデザインの上にvodka≠ニ書かれていたが空太は読めなかった。

「準備いいだろ? さっきの家から持ち出して来ちゃった」
「なに、それ?」
「ウォッカだよ、ロシアのウィスキー、消毒に使えると思ってさ。あと、針と糸と、包帯とか、色々」

 にやりと得意気(ドヤ顔?)に笑う果帆を、空太は何度もまばたきを繰り返して見つめた。いつの間に準備したんだろう――先ほど、榎本留姫の襲撃から身を粉にして守ってくれた姿勢と言い、榎本留姫に毅然と立ち向かう威勢と言い、今回の機転の良さといい、女の子なのに男前すぎる。いや、本当は女の子らしい娘なのだが。
 目をぱちくりとする空太を面白そうに見ながら、果帆はウォッカを差し出して来る。空太はそれを受け取ると、口を開け、確認をするように顔色を伺った。

「消毒したら、どうすんの?」
「んー、縫うのはさすがに怖いから、テープでくっつけようかな。あとは包帯で、適当に」
「……わかった。じゃ、かけるよ」
「おう」

 ゆっくりと、恐る恐る患部に度数の高いウィスキーを流す。ぴく、と果帆の腕が震えた。慌てて顔を見上げると、苦痛に眉を寄せていた。相当染みるのだろう。こんなに辛そうな表情は見ていられなくて、空太はウィスキーの口を閉じた。果帆が、ほっと安堵したような表情を浮かべ、小さく空太に礼を言う。
 小包の中から、果帆が脱脂綿を取り出した。患部に気を遣いつつアルコールを拭き取り、おもむろに靴下を脱ぐと、その脱脂綿でふくらはぎの傷を消毒する。そんなんでいいのか、と言うくらい適当な動作だったが、よくわからないのでなにも言えなかった。続いて小包から細いテーピングのようなものを取り出すと、空太に傷口を塞ぐよう指示し、長めに切り揃えたそれで、二ヵ所、肌と肌を繋ぎ合わせた。本当にこんなんでいいのだろうか。よくわからない。
 更にその上に大きめの絆創膏を繋ぎ合わせたものを張り付け、その上から、空太は包帯を巻くことにした。止血の為に結わえたネクタイはそのままに、その下側一帯を包み込むように、きつく巻いていく。脱脂綿にアルコールを浸したもので、果帆は左頬の傷を拭っていた。――女の子なのに、顔に傷を付けられるなんて。一番軽傷だが、痕は残るだろう。研ぎ澄まされたような品格のある整った果帆の顔立ちに、一生消せない傷が付いてしまったのだ。本人はあまり気にしてる風ではないが、空太はそれが悲しかった。

「榎本と如月――くんさ、どうしたかな?」

 空太は兼ねてから気になっていた疑問を口にする。あまり馴染みがないもので、如月仁のことはなんとなくくん&tけになってしまった。別に他意はない。

「銃声も、爆破音も聞こえなかった。つまり、そう言うことだろ」
 空太は小首を傾げて問う。
「そう言うことって?」
「……生きてるよ、二人とも。多分な」

 空太と果帆は、揃って俯く。複雑な気分だった。曲がりなりにもクラスメイト。接点が薄いとは言え、ああして助けて貰った手前、如月仁にはなにがあっても死んでほしくないと思う。だが、榎本留姫は別だった。――殺されそうになったのだ、それも、果帆は怪我まで負わされた。民家では高津政秀と野上雛子が彼女によって殺された。金見雄大も香草塔子も、森下太一も、関根春生も、榎本留姫が殺したのだ。生かしておいては危険な人物、早々に退場して貰うのがみんなのためだ。だが、死んだら死んだで、ざまあみろと済ませることは出来ないと思う。何故か、クラスメイトだからだ、二年半、同じ教室で過ごしたクラスメイトだからだ。

「俺、信じられないや。あの榎本に襲われたことも、如月──くんに助けられたことも」
「……如月は、結構善良だよ、多分。不器用だけど」

 不器用――それは果帆も同じではないか。思ったが口にはしなかった。なんとなく止まってしまっていた手作業を慌てて再開する。

「美海と朔也がさ、仲、良かったんだ」
「如月くん?」
「うん。だからまあ、根拠は、それだけだけど」

 しっかりと巻き付けた包帯をクリップで止める。礼を言って後片付けをしつつデイパックを探る果帆を見つめながら、空太は少し笑んで言った。

「あの二人は誰とでも仲いいイメージだけどね」
「よくわかってんじゃん。でも、八方美人なわけじゃない」

 果帆が急に、優しげな目つきで空太を見つめ、微笑んだ。基本的につっけんどんな間宮果帆なので、空太は少し驚いて目を張る。あまり、こう言う表情は見たことがないのだ。急にどうしたのだろう――空太は少し、どぎまぎとしてしまう。

「誰とでも仲いいのは、あんたも一緒じゃん。あたしなんか、男子も女子も怖がって、あんまり近寄って来ないのに」
「……まあ、間宮は、……怖いよねえ、なんか」
「……あんたもそう思ってんのか」
「いや、違う、不器用なんだなって俺は思ってるよ。そう、間宮はさ、本当は、すごく優しい女の子だと思うし」

 今度は果帆が目を張る番だった。果帆はあまり親しくない相手には、失礼にならない程度に受け答えはするが、あまり表情を変えないでぶっきらぼうに振る舞ってしまうタイプだった。どんな顔をして良いのか、わからないと前にさらっと言ってくれたことがある。如月仁と水鳥紗枝子が転入して来るまで、空太と果帆は同じ出席番号だったこともあり、日直当番はいつも一緒だった、二年間も。日直の仕事の一つ、放課後の清掃でよく二人きりで話す機会があったのだが、その時だったと思う。

 ――あたし、ダメなんだよ、人に話し掛けるのとか苦手、どんな顔すりゃいいのかわかんない。

 それで空太は、ああ、不器用な娘なんだなと思うと同時に、自分とは割と打ち解けていることを嬉しく感じたものだ。そうやって、胸の内を自分に話してくれたことも。

「俺思うんだけどさ、間宮って愛想ないじゃん?」
「……おい、喧嘩売ってんのか」
「違くて。ほら、間宮ってさ、……綺麗じゃん? 愛想ないけどさ、そう言うところ、逆にかっこ良く見えると思うし。わかる?」
「わ、わかんない! なに言ってんだよ!」
「いや、だから、近寄りがたいのかなって……」
「バカじゃん!」

 空太の言葉の最後の方は完全に聞いていないようだった。
 照れ隠しのように狼狽える果帆を空太は穏やかな、なんとなく温かい気持ちで見つめる。果帆が探っていたデイパックから、黒地に白のラインがお洒落な、薄手のミリタリージャケットを取り出した。神社を出発する際に、制服の茶色いブレザーはあまり好きじゃないとの理由で、置いてきていたのだ。果帆は誤魔化すように、袖の切れたブラウスの上に慌ててジャケットを羽織る。その果帆の様子に――からかいたい衝動に駆られました。

「それにほら、口悪いし」
「……余計な一言」

 一気にシラケたと言うように、口を尖らせる果帆がおかしい。どんな顔をして良いかわからないだなんて――こうしていれば良いのにと思う。空太や、普段親しい白百合美海や八木沼由絵の前では、ころころと目まぐるしく表情を変えるだから。

「でも、あたしさ」
 意地でも目は合わせない、と言うように視線を斜め横に逸らしながら、果帆は続けた。

「あんたの、そう言う……素直で、遠慮ないところ? わりと、いいなって、思ってるよ」

 そう言われて、さすがに今日イチ(果帆関連で)空太は驚いたのだった。――先ほど、榎本留姫に襲われて、必死で逃げてここに辿り着くまでは、あんなにも鬱蒼とした気持ちでいたのに、少し心が軽くなっていた。気にすべきことは、たくさんある。榎本留姫のこと、如月仁のこと。自分たちの命運。今後の行動。友人たちや、想い人の安否。果帆の容態。それでも、今この瞬間だけは、穏やかな気持ちに浸りたかった。強がりで、不器っちょで、やたらとシャイな果帆を、今だけはなにも考えないで見ていたかった。現実逃避の一種だと、頭では理解していたとしても。
 それでも、そんな時間は長くは続かなかった。ふくらはぎの傷に絆創膏を貼り、新しいソックスに足を通した果帆が不意に立ち上がった。整理整頓したデイパックを肩に下げ、釣られて立ち上がった空太と互いに、目配せする。時刻は――午後五時を切った。一気に薄暗くなり始めた森を抜けるため、二人は歩き進む。
 空太は前を行く果帆の背中を見た。――果帆に、まだ、言っていない。自分が、佐倉小桃を好いていること。彼女を、探したいと思っていること。
 元々、恥ずかしいと言う理由で打ち明けにくい事柄だったのだが、何故か――果帆にだけは、伝えてはいけないと言う気持ちになった。何故はわからないけど、打ち明けた瞬間に、なにかが壊れる気がした。そのなにか≠ェわからないのに、なにか≠守りたい、と、心の奥底に芽生える温かいような、切ないような、恐ろしいような、混沌とした気持ちに、複雑な想いを馳せるのだった。





【残り:29名】

PREV * NEXT



「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -