011.『殺らなきゃ殺られる(2)』


 暗がりに不自然に浮かび上がる明るいツインテールが風を斬るように突進してくるその状況を、乃木坂朔也は瞬時に理解することができなかった。無慈悲なほどに唐突だ。確かに、出発に備えて頭を整理していた間にこう言った可能性も考えなかったわけではないが、覚悟をする余裕も時間もない中で即座に行動を起こせるクラスメイトがどれほどいるだろうかと、その確率は低いと見積もっていたのだ。甘く見ていたのだろうか。ましてやそれが女子で、しかもつい二分前に教室で見送ったばかりの野上雛子であれば尚更だった。傍目にもわかるほど肩を震わして怯えていたのに、僅か二分の間に、今にも喉を噛み千切ってきそうな形相に変貌していた。明らかにその敵意は朔也に向けられていたし、黒光りした凶器の先端は朔也を捕らえていた。

「おい! 待てって、冗談だろ!?」

 私物鞄とデイパック、そして身を守るにはあまりに頼りない古びた木材の柱で急所を隠すようにしながら、朔也は辛うじて声を上げる。雛子はすでに昇降口の階段下にいた。相変わらずボウガンの先端は朔也を狙っていたが、弾かれたように動きが止まった。

「朔也、やれ!」

 よく知っている友人の、飛び越えそうな焦燥の声が聞こえる。肩で刻むように息を荒げる雛子がその声で我に返り、背中を押されるように雷にも似た雄叫びを上げた。それが合図だった。朔也は一気に間合いを詰めると、長くしなやかな足を雛子の横腹に叩き付けた。

「あ、っぶね……」

 蛙を踏んづけたような呻き声とともに雛子は崩れ落ちた。あまりにも軽快にふっ飛んでしまったものだから、画ビョウを突き刺されたような呵責がじわじわと胸に広がっていった。女の子を蹴り飛ばしてしまった。人に暴力を振るうことなんて一生ないと思ってたのに、よりにもよって女の子を!
 だが、もちろんそんなことを言ってられる状況ではなかった。雛子は盛大に転倒したにも拘わらず、ボウガンはしっかりと腕に抱え込んでいた。暴力を振るわれたことによって尚更いきり立ってしまったのだろう。興奮状態に陥った雛子は認識が困難な言葉を喚き散らしながら、凄まじい剣幕でボウガンを振り回した。まるでゾンビに囲まれて反乱狂に陥った映画の登場人物のようだった。

「野上! 落ち着けって、おい!」

「乃木坂!」

 雛子の攻撃を慎重に警戒しながら視線を向ける。男子にしては小柄な印象の新垣夏季だった。夏季の普段から心持ち釣り上がった目が更に険しく眉側に寄っていた。そしてその傍らにはつい先刻、緊迫した声色で朔也に存在を知らせた唯一無二の親友――道明寺晶が、同じように極度に引き締まった表情で野上雛子の背後に回り込んでいた。飄々としていて、皮肉気で、ニヒルな笑顔が似合う普段の晶からは想像もつかない厳かな顔だった。

「アキラ! 夏季!」
「な、んでよ……なんで三人もいるの!?」

 男子三人に取り囲まれたような形になった雛子は成すすべもなしと言った姿で立ち竦むと、反撃の余地を探すように忙しなく四方八方へ首を動かした。

「野上こそ、なんでだよ」

 朔也は憤慨なのか憐憫なのかよくわからない感情で、そう問い掛ける。

「だって! やらなきゃやられるんでしょ!?」

 当然、朔也は金見雄大と香草塔子がすでに殺害されていたことも、野上雛子がその遺体を目の当たりにしてしまったこともまだ知らなかったので、その言い訳(朔也にはそう感じた)を聞きこう思ったのだった。――流され易いにも程がある、いい加減にしろよ、と。

「アキラ!」
「ああ!」

 目配せするとすぐに力強い頷きが返ってくる。辟易する雛子は混乱のあまり判断がつかないと言った様子で立ち竦んでいるが、いつまた先程のように猛り狂うかわからない。
 慎重に雛子と、晶の動きを見ていると――そこで初めて気付いたのだが、晶の右手にはボウガンなんかよりも、もっとずっと凶悪な物が握り締められていたのだ。映画やドラマなんかでしか見たことのない、人間相手にはあまりに殺傷力の高いそれは――拳銃だった。朔也は知る由もないことだがブレン・テンと名付けられたその拳銃は、発射口を迷いなく雛子に向けていた。

「野上、これが見えるか?」

 軽口を叩くようなノリで言う晶は普段とあまり変わらないのに、右手に光る拳銃からは異質な重圧があった。銃口を向けられているのは雛子なのに、朔也自身もそれに捕らわれてしまったような悍ましさであった。

「大人しくしろよ、撃つぞ」

「ちょ、道明寺!」
 絶句する朔也に代わって夏季が震える声を上げた。
「なにやってんだよ、こんなやつ放っといて、早く逃げないのかよ!?」

「この子、このままにしておけねえじゃん?」

 まさか――本当に撃つつもりはないよな? ひやりと緊張の汗が背筋を伝う。
 ブレン・テンを目にした雛子も同じことを思っただろう。厚化粧によってわかりづらかった顔色が、白粉のように真っ白に血の気が引いていった。それは、暗闇の中で不気味に浮かんでいた。目の周辺はアイラインとマスカラがボロボロに剥がれて真っ黒で、まるでそこだけ穴が空いているようだ。分厚めの唇はひくひくと釣り上がり、赤い歯茎が剥き出しになっていた。お化けのような顔だ、と幼少期に怯えたイメージと重なって年甲斐もなくゾッとした。

「ふざけんなよ! なんでよもうやだあ、やだやだやだあ!」

 雛子はそう喚いて、頭を激しく振り乱した。

「お、おい、アキラも野上も! やめろ!」
「やだよおおお、あああやあだああああ!」
「うわあ!」

 風を裂くような音がしゅんと響いたのと、新垣夏季が悲鳴を上げたのはほぼ同時だった。うう、と言う呻き声と共に夏季は左耳を両手できつく押さえ付け、項垂れるような形で悶えていた。指の隙間から滲み出た赤黒い液体が、手首を伝って地面に滴り落ちていた。――ボウガンの矢が当たったんだ!
 拳銃を構えたままの晶は、呆気に取られた様子で夏季に気を取られている。
 朔也は私物鞄を放り投げるとデイパックのハンドルを強く握り、未だ踊るように暴れる雛子目掛けて横殴りに本体部分を叩き付けた。膝から崩れ落ちた雛子のボウガンに掴みがかり、綱引きの対戦のように互いに押し引きを繰り返したが二、三もすると呆気なく雛子の指が離れる。朔也はボウガンを背後に投げ捨てると同時に、捕らえていた雛子の右手首を親指の方向に捻り上げた。う、と痛みで硬直した体を俯せに押さえ付け、トドメと言わんばかりに腕を背中の上へ引き上げると、ようやく、雛子は大人しくなった。僅か数秒の出来事であった。

「ナイスだ、朔也」
「……ああ」

 興奮で乱れた呼吸を整えながら頷くと、晶は少し笑んでみせた。つっかえ棒が外れたような、彼にしては少し遠慮した笑顔だ。恐らく、なにも手助けできなかったことを詫びているのだろう。
 晶はブレン・テンを制服ズボンの後ろに差し込むと、尻餅をついて項垂れる夏季にそっと歩み寄り膝を折った。

「大丈夫か?」

 そう言って伸ばし掛けた手を、思い切り振り払われる。夏季は怒りと怯えが混合した表情で晶を睨み付けていた。

「冗談じゃねえよ、なにやってんだよ! なんで俺が、こんな! くそ、くそ、そいつ取っ捕まえてどうすんだよ、まさか殺さないだろ!? なんで早く逃げないんだよ、くそ! ――くそ!」

 覚束ない足取りで夏季は走り出した。一分一秒でもこんな場所にいたくない、彼がそう思うのも当然だろう。捩じ伏せられた雛子は身動きが取れないとは言え、こんな状況を作り出した張本人だ。今はうう、うう、と絞り出すように泣いているが、いつまた暴れるとも知れない。

「おい、どこに行くんだ、夏季!」
「アキラ、ここはいいから」
「あ、ああ……」

 有りっ丈の声で引き止めながら追うべきか迷う晶を、そう促してやる。珍しく困惑した表情を浮かべていた晶は、夏季が走り去った方向と朔也とを交互に見遣り、やがて諦めたように深く息を一つ吐き出した。

「くそ、朔也、目立たないところにいてくれ、すぐ戻る」
「……ああ」

 朔也が力強く頷いたのを確認すると、晶は私物鞄とデイパックを抱え直し名残押しそうに踵を返した。
 小さくなって暗闇に消えていく親友を眺めながら、教室を出発してどれほど経ったのだろうと不意に思い出した。凄まじく長い出来事のように感じたが、朔也の次に発つ予定の羽村唯央はむらいお(女子十三番)がまだ姿を表さないところを見ると、二分と経過していないのだろう。しかしもう時間はない。さすがにこんな現場を目撃されたら要らぬ誤解を招くだろう。

「野上――」
「ううう、痛いい」
「野上、場所を変えたいんだけど」
「うう、やだあ、ううう」

 朔也は大息を吐いた。この調子ではどこかに身を隠すなんて不可能だ。
 どうしたものかと途方に暮れていると、「きゃあああ!」とソプラノで刺すような悲鳴が上がる。背後にいるので姿は見えないが、羽村唯央だろう。朔也は舌打ちを禁じ得なかった。

「誰か! 誰かいるの!?」

 いち早く反応したのは雛子だった。余計なことをと思ったが、飛び起きようとする背中を押さえ付けるので精一杯だった。野上雛子をここで自由にするわけにはいかないのだ、まだ説得も済んでいないのだから。解放すれば、羽村唯央も危険に晒すことになるかも知れないのだ。
 もう一度、悲鳴が上がった。雛子はそれで声の主が誰かわかったようだ。

「羽村さん! 待ってよ助けて、助けて、殺されるううう!」
「お、おい!」

 最悪だ――かと言って、弁明の余地もない。下手に声を掛ければ余計に不審がられるのがオチだろう。朔也は頭を抱えたい衝動に駆られたが、胸のモヤを解消するように再び大息を吐き出した。

 逃げ去る音が遠くなり、ややして、絶望を体現したような高らかな金切り声が響いた。これも、羽村唯央のものだろう。思わず肩を震わして目を凝らすと、転げ回りながらもなんとか体勢を整えた唯央が闇に溶け込んでいった。
 野上雛子の呻き声を除けば、それでようやく、静寂が訪れたのだった。





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