035.『だからなに?(3)』
ギャア、と突然のことにおぞましい悲鳴を上げる鷹之に少し面食らいつつ、由絵は運転席から滑り落ちるように外へ降り立った。これがそんなに痛かったのだろうかと少しは罪悪感も込み上がったが、死ぬわけがないと建前がある分、大騒ぎしている鷹之が馬鹿らしく、由絵は足下を注意しながら駆け出す。
何故スプレーを放射したか?、脚を見られているとわかって、あの会話を聞いた時のような悪漢が身体に纏わりついて、心底気分が悪かったのだ。更に鷹之が持っていた、あのコンバットナイフ。あんなものを見せびらかしてどうするつもりだったのだろうか、脅迫でもするつもりだった?
右手に掲げられたあれが自分に向く前に吹きかけてやった。先手必勝だ、あとは逃げるだけ――けど、畑道の足場の悪さったら、軽トラックに乗り込む前はあまり気にならなかったのに、どうしてこんなに、走り難いのだろう!
そして由絵の右足が、いっそう柔らかい土に取られてバランスを崩した。立て直そうとするも、一度失った平衡感覚は思い通りにコントロールが聞かず重力に引きずられるまま、由絵はその場に転倒した。
「八木沼ぁあああああ!」
少し後ろの方向で怒った絶叫が聞こえる。由絵は少しだけそちらを確認して、自分がまだほとんど軽トラックから離れていないことを知って愕然とする。すぐに鷹之が降り立つのを目撃し、由絵はその身を急いで立て直そうとした。
ずきりと、身体に走った痛みに顔を顰める。ああ、なんと言うことだ、転んだ時に嫌な感じはしたのだが、足首を捻ってしまった。
それでもなんとか立ち上がった瞬間、勢い良く先ほどと同じ二の腕を引かれて、痛む左足首では支えきれなかった重心で再びバランスを崩し、その場に尻餅を付いてから改めて、由絵は仁王立ちする鷹之の存在を認識したのだった。
「ふざけんな! めちゃくちゃ痛いじゃねえか、この野郎!」
未だ滲み出る涙を拭うこともなく、鷹之が由絵の柔らかい天然パーマを鷲掴む。すぐに転倒した由絵を引き上げるようにじりじりと腕に力を込めて、頭皮をひね上げるような痛みに少しずつ由絵は足を着いた。しかしすぐに物凄い勢いでセミロングの髪が振り回され、乱暴に揺れた身体に逆らえきれず、また、転倒した。
再び髪を掴まれて頭が持ち上がる。呻く由絵の首筋、首輪の上辺りに堅いものが押し当てられて、由絵はついに一切の抵抗をやめたのだった。
「このクソ野郎、大人しくしてれば調子に乗りやがって、俺はな、調子に乗ってるやつが一番嫌いなんだよ! 死にてえのかよ、ああ!?」
「……殺したきゃ殺せば」