097.『あの温度で無限の呼吸がしたかった(6)』


 すっかりと冷えてしまった身体を撫でながら、小桃と美海はバルコニーから足を引っ込めた。月明かりに照らされた色彩豊かな間取りが、美海がカーテンを引くことによって徐々に暗幕して行く。春の日向のようなパステルイエローのベッドにひしめき合うぬいぐるみが、少しずつ暗闇に飲まれて行った。多分、ここの部屋の主は若い女性だったのだろう。ベッド脇に置かれた特大のクマのぬいぐるみが、さわさわと足首に温い感触を伝える。

「白百合さんも少し寝て?」

 小桃は言いながら、パソコンデスクに置かれていた使用済みのアロマキャンドルに火を灯した。ささやかすぎる光だったが外に漏れても困るので十分だった。
 仄かなラズベリーの香りが空気に溶けて鼻の先を擽ると、美海が「いい香りね」と言って、くすりと笑む。バルコニーから顔を覗かせた時は消えてしまいそうなほどに儚く見えたのに、散々泣き明かしたはずの彼女はとても朗らかだ。幻想的な月光がそう錯覚させただけなのかも知れない。

「あたしはまだ平気よ。小桃ちゃんこそ、今の内に寝ておいた方がいいわ」
「そんな、無理しないで」

 気力を持ち直したからこそなのか、こんなところは変わらない。学校では知らなかった一面だが、割と意地っ張りなようだ。彼女はその性質上、人に頼られやすい環境にいただろう。意外にも彼女は、甘え下手だったようだ。

「あたしじゃ、頼りにならないかしら」

 伏し目勝ちにぽつりと雫のように呟くと、美海は焦燥に似た妙な瞬きをし、あたふたと狼狽する。

「違うよ、そうじゃなくて」
 気持ちを制御するように一瞬押し黙ると、気配を伺うような上目遣いで小桃を見つめる。
「あたし、普段からあまり寝ないの。幼い頃からの習慣って言うか、ずっとそうだったから……えっとね、寝るのが勿体なくて夜更かしばかりしてたの」

 そしてちろりと赤い舌を覗かせ、変でしょ、とはにかんで笑んだ。そうは言っても、全く寝ないと言うことはないだろう。昨夜は徹夜だったし、本日の昼間は千景勝平や目黒結翔に強引に休まされていたが、それにしたって眠っているのか怪しいものだった。
 小桃は困ったように口元に微笑を滲ませ、すっと目を細めると哀願的な眼差しを向ける。美海もまた困ったように肩を竦めたが、いよいよ根気負けし、こだわりを断ち切るように脱力した。

「気を遣わせてごめんなさい。ありがとう、小桃ちゃん」

 小桃はとんでもないと言うように、大袈裟に首を振ってみせる。

「白百合さん、ベッド、使って」

 パステルカラーの掛け布団へ手の平で促し、罰が悪そうに、人の布団だけど、と苦笑した。

「ね、白百合さん、聞いてもいい?」

 礼を言ってベッドに横たわった美海が掛け布団から頭をひょっこり出して、なに、と問うた。小桃は美海の桜色の差し込む程良い顔色を確認すると、吐息のように遠慮がちに零した。

「何故、乃木坂くんや道明寺くんじゃなくて、如月くんなの?」

 空気が揺れる音が聞こえて来るみたいだった。僅かに動揺を見せた美海は、それでも漆黒の睫毛の先を動かさず、茶化したりもしなかった。

「わからないって言ったら変かな」
 美海は恥じらうように布団に唇を押し当てくぐもった声で、しかし落ち着きを払った言い方で言葉を紡いだ。

「あたし、恋愛ってよくわからなかったわ。男性として好きとかどうとか、意識したこともなかったの。けど、わからないけど、如月くんと初めて話した時、胸がどきどきして、苦しかったの。こんなこと初めてだった。単純だけど、恥ずかしいけど、好きになるってきっとそう言うものなのかしらって。

みんなは違うのかな、好きになるのに、理由っているのかしら。その人が好きって、それだけじゃダメかしら」



 好意を抱くも嫌悪を抱くも、余計な感情の多すぎる不完全な自分たちは結局は個々の感性が全てなのだ。美海の言葉はまるで呪文のように、小桃の中に染みて行った。――されど、好きと言う感情に理由はいらずとも、嫌いと言う感情には原因を問うべきだろう。負の感情と言うのは無条件に尊重してはいけないはずだった。
 小桃の胸は、どくん、どくん、と波打つ早さを大きくして行った。アロマキャンドルの灯火の先に、蠢くような闇が立ち籠めていた。胸の奥からせり上がって来る、咽せ返るように熱くて粘着質なこの想いはいったい何者なんだろう。嫉妬なのか怒気なのか恐怖なのか諦念なのか悲嘆なのか。命が宿っているみたいにずっしりと重みがあって、時折嘔吐感が込み上げるくらいの存在感があるから、多分物体なのだろう。おかしな物体なのだ。

 小桃はそっと、目を伏せた。

「全ての人に、それは許されるのかしら」

 睫毛は憂うように震えていた。



「ねえ、白百合さん」
「なあに?」
「例えば、そう、言葉が思い付かないけど、例えば、悪い人でも同じことが言えるのかしら。だって、その人は、愛情を悪用するかも知れないでしょ? それで誰かを傷付けるなら、ただ好きだからって理由だけで、済ませていいのかしら」

 そこまで疑問を投げ掛けて、小桃は自分でも言っている意味がよくわからなくなった。難しい話がしたいわけじゃないのだ。ただ、この混沌と蠢く渦のような物体に、名前がほしかった。
 小桃は振り切るように何度も首を振ると、答えを模索している美海に思わず、決まり悪げに謝罪の言葉を口にした。自分から休めとベッドに押し込んだのに、とんだ無駄な時間を過ごさせてしまった。そこはかとなく羞恥を覚え、なにか言いたげな美海を、なんでもないのだ、とやんわり拒んだ。
 納得してはいない様子の美海は後ろ髪を引かれるような面持ちで、改めてベッドに潜り込み真っ黒な天井の、更にその先を見据えるみたいに遠くの、朧気ななにかを眺めた。

「悪い人は、人を好きになったりしないわ。だから、悪い人なんていない」
 美海はカナリアの囀りみたいにまろやかな可愛い声音で、切々と思いの丈を語る。
「綺麗事でもなんでもいいの。あたしは、そう信じてるの」

 それっきり、美海は小桃に背を向け、壁に身を寄せた。



 ただ、一人を省いては。

 美海は心の中で、ひっそりと呟く。貝のように噤まれた唇と桜ん坊のような頬は、張り詰めた糸を弾くように引き吊っていた。





【残り:27名】

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