081.『オリオンと道化師(4)』


 鷹之にとっての最大の不幸はこの時、本物の石には当然なれなかったからかも知れないし、最大の転機は、石のように沈黙化し、意気消沈としていたことかも知れない。
 鼻の先に、赤塗れた冷たい刀の感覚が触れるが、もはや鷹之が声を上げることはなかった。

「命乞いは終わりか?」
 攻撃の手を休めた勝平が、皮肉気に呟いて、左手をズボンのポケットに突っ込んだ。
「最後に言いたいことがあれば、聞いてやる」

 ちらりと、勝平が左手の障子を一瞥する。確か、あの先はベランダになっていたはずだ。雨戸は閉まっていなかったから、障子と窓を開ければ外に出られるはずだった。
 ズボンをまさぐっていた勝平が、鷹之に注意を払ったまま、器用な動作で煙草を一本取り出す。ポケットから一本だけ抜き取るなんて本当に器用だ。だが勝平は、それを口には加えたが、火を点けることはなかった。愛用のジッポーはどうしたのだろう? それで、鷹之は、はっとなった。はっとなったが、元々情けない面で呆然としていたので、勝平は鷹之の変化には気付かなかった。

「ないなら、死ぬか」

「まま、待、って、くれよ……」

 不愉快そうに、勝平の片眉がつり上がる。鷹之はなるべく刺激しない言葉を選びながら、天に祈るような気持ちだった。こんなに神に祈るのは初めてかも知れない。もっとも、ああ神様、と繰り返すばかりで具体的な言葉は浮かばなかったが。

「ほ、本当に……申し訳、ありませんでした……」

 鷹之は深く深く、頭を下げた。



 以前浮気がバレた父親が、母親に向かって深々と土下座をするのを、鷹之は見たことがある。鷹之が小学六年生の頃だった。あの頃は毎日、父と母の激しい言い争いを悲痛な思いで聞いていた。そんなに喧嘩がしたいなら、自分のいないところでやってほしいと思っていたのに、よりにもよって土下座の現場まで同席させられた。母親は、情けない父親の姿を鷹之に見せたかったのだと思う。これだけの恥をかかせれば、父親は二度と浮気をしないと踏んだのかも知れない。
 ただ鷹之は、浮気をして母を悲しませる父親は元々見限っていたが、そんな現場を目撃させて、子供の自分がどんな思いを抱くか考えもしない母親に対して、深く失望したのだ。――俺が傷付くのは良いのか。なんのために、このババアは怒っているのだろう。家族を傷付けた父親に怒っているのではないのか。でも、他でもない、ババアが俺を傷付けているじゃないか。
 結局、同じ家に住んでいながら、家族は三人、バラバラになった。冷え切った仮面家族だ。いや、見栄を張る相手も特にいなかったから、仮面を被ってすらないかも知れない。

 土下座、カッコワルイ。

 いつしか漠然と、鷹之はそう考えるようになっていた。土下座と言う言葉を聞いただけで、あの日の父親の姿が脳裏に浮かんで来て不快だった。あんな無様な姿は、自分は晒さない。縮こまって、額を擦り付けて、女に頭を下げるなんて、そこまで情けないこともないだろう。あんなババアに。



 だが、鷹之はあの日の父親と同じことを、勝平に向かってしていた。縮こまって、額を擦り付ける様は、余程無様なことに違いない。だが、――本心から、八木沼由絵を殺害したことは、悔いていたのだ。だから、誠心誠意を以てして、鷹之は頭を下げた。自分は馬鹿正直な人間ではないし、平気で嘘も吐くし胡散臭い人間だ。だが、その一点に置いてだけは、今は穢れがなかった。その一点に、置いてだけは。
 千景勝平と言う男は、薄情な人間ではなかった。むしろ、グループ内では多分、一番人情深い男だ。だからこそ、失礼なことを平気で言うくせに、人に好かれる。そんなところは、凄いなと思っていた。交友関係の幅広さは鷹之も負けてはいなかったが、胡散臭い鷹之よりはずっと信頼されていただろうと思う。鷹之にも、例外なく、勝平は親身になってくれたのだから。
 だが、勝平に弱点があるとしたら、多分、そんなところでもあった。

 深い溜息が、鷹之の頭上を降り注いだ。ぴくぴくと痛みと緊張で痙攣する腕に、自然と力が込もる。

「顔を上げろ」
 その言葉で、鷹之はゆっくりと面を上げた。大量に血液を垂れ流している身体は、それだけで貧血みたいにくらくらした。
「何故、由絵なんだ?」

 きーん、と頭の奥深くで耳鳴りが鳴響く。

「由絵でさえなかったら、お前をここまで憎いと思うことも、きっとなかったのに」



「俺、昔、八木沼のこと、ちょっと好きだった」

 勝平の息を飲む音が、耳鳴りをかき分けて、鷹之の脳に響き渡った。知らなかったろうさ、鷹之自身、誰にも打ち明けていなかったのだから。勝平にしたって昔はそれなりにすけこまし野郎だったが、色恋沙汰に鋭いわけではない。そもそも、本当に、恋慕とも言えないくらい、ささやかなものだったのだ。ただ当時、二人が気に入らなかった。それだけが事実だ。

「本当に……、ごめん」

「どっちにしろ、お前を許すつもりはない、だが」
 なにを思ったか、勝平は一度、刀を下げた。
「気付かなかったことは謝る。悪かった」
 腰の脇に拳を押し当て、鷹之に向かって、今度は頭を下げた。





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