093.『あの温度で無限の呼吸がしたかった(2)』


 きっかけなんてもうよく思い出せないけれど、君は私の太陽だ。決して燦々と照らすわけでも強い日差しでもないけれど、心の凍てついた固い氷の部分を、そっと緩く溶いていくような、暖かい木漏れ日のような人だ。
 子犬のような笑顔ではしゃぐ君をいつまでも眺めていたい。いつだって無邪気に微笑んで貰ってそばに寄り添って微睡んでいたい。

 けれど、君と私の気持ちは、決して折り重なったりしないのだろう。

 切ないけど、悔しいけれど、贅沢なくらい満ち足りた気持ちを運んでくれる君がこんなにも大切なのだ。





   * * *



 先までの賑やかさはどこへやら、すっかりと静まり返るダイニングキッチンではランプの頼りない灯りだけに照らされ、晶が黙々と縫合手術の準備を行っていた。果帆はその妙にこなれた動作に感心しては、それはなにか、と一々問い掛けていたのだが、つつがなく返答されてしまって益々目を丸くするばかりだった。
 将来は、看護師になりたいと果帆は最近になって夢を抱いていた。それまでは幼い頃にサスペンスドラマで見た女刑事に憧れ、警察官になりたいと思っていたのだが(銃器の知識はその影響で身に付けた、予備知識程度だが)、まだまだ未熟な思考回路で中学生なりに現実を直視したとき、表面上だけの憧憬と夢を混合してはいけないことに気付いた。もちろん、夢とはそれでも良いはずだった、だって夢≠ネのだから。それが間違ったことだとは思わないけれど、それでも多分、大人になると言うのはこう言うことなのだ。
 もっとも、その夢すら、よもや空想することも叶わぬものとなりつつあるのだが……。

 気休め程度にしかならないが、と申し訳なさそうに呟いて、晶がざっくりと切り裂かれた果帆の二の腕にジェル状の薬を乗せるように塗り込んだ。それまでにも患部を清潔に保つため隅々まで丁重に洗い流され消毒され、ずきずきと沁みて痛かったのだが、これにはなんとも形容し難い気色の悪い感覚があった。皮膚表面麻酔と呼ばれるもので、主に歯科で歯茎に注射を打つ際に用いられることが多いらしい。縫合手術でも一針や二針程度で済む浅い傷であれば一般的に使われるが、果帆の場合はまともに施術すれば十数針通す必要があるくらい重傷で、本来は浸潤麻酔と呼ばれる注射を使った局所麻酔を施すが、麻酔と言うものは意外と恐ろしいもので、合併症を引き起こすリスクがあるのだ。つまり晶は、浸潤麻酔を出来ないこともないけれど、合併症を起こした場合に対処が難しいからやらない、と言うことらしかった。
 まあ、良い。恐ろしいが、このまま手当を施さず感染症等を引き起こしてばったり倒れることに比べれば、少しの時間我慢すれば良いだけのことだ。晶は痛みで果帆が暴れてしまうことを懸念し、空太や夏季に手伝いを求めたのだが、それは果帆が頑固拒否した。みっともない姿を晒すだろう自分を見てほしくなかったし、なにより、心配を掛けたくなかったのだ、――彼に。
 表面麻酔が効いてくるまで時間を取ることになった。十五分ほどだが、果帆の苦痛を少しでも減らすために余分に置くのだそうだ。他の四人は冬司の簡易レーダーを手に見張りがてら外で待機している。この寒空の下へ閉め出すのは可哀想だったが、どうやらもう暫く我慢して貰わなければならないようだ。

「不安か、果帆」

 ぼんやりと物思いを馳せていた果帆の強張った表情を、緊張によるものと思ったのか、晶は優しげな口調でそう言った。

「そりゃ、不安だよ。けど心配はしてないぜ? アキラだしな」
「そりゃ、どうも」

 何事もソツなくこなしてしまう彼のこと。他人は言わずもがなだが、自分自身も天才を公言するだけあって、晶はとにかく凄い。なにをやらせても容量も吸収も早くて、途端にトップに躍り出てしまう。確か、IQも馬鹿みたいに高いのだ。持って生まれた才能とは正にこのことなのだろう。そして晶自身も、面白いくらいそのことを熟知していた。たまにそんな自信過剰な彼の性格が反感を呼ぶこともあったが、持ち前の人懐っこさとカリスマ性で緩和され、受け入れられて来たのだ。まあ、頭の良い晶のこと、それすらも計算内なのではと言うあざとさを誰もが感じるのだが、それにしたって天性的な才能には惹かれるものがあっただろう。不思議と晶の周りには人が絶えず、好かれ、信頼されて来た。この魅力は、白百合美海とも通じるものがあったかも知れない――時々思うのだ、自分の周りは何故こんなにも強者が揃っているのかと。誇らしさと同時に、時折漠然と胸に広がる劣等感。自分には、特別に秀でたところなどない。美海のような愛くるしさも、由絵のような芯の強さも、サキのような奥ゆかしさも、花菜のような朗らかさも、なにも。
 けれど、決して劣等感が強いと言うわけではないはずだし、自分は自分と自然と割り切って生きて来た。羨む気持ちは相手への尊敬であって、嫉妬するほど幼い子供ではない。けれど、――けれど、あの人は別だ。気付いた時にはすでに、呼吸と同じように目で追って胸の高鳴りを覚えて嬉しくて切なくてもはや手遅れだった。いつだってあの人の一言で天国にも地獄にもなる世界を知って、自分の脆弱な矜持のくだらなさを嘆いた日もあった。

「やっぱり元気ないな、果帆」

 え、と果帆は肩を竦める。またしても物思いに耽っていたようだ。自分は素直な人間ではないくせに、心情が露骨に態度に出てしまう嫌いがあった。分かり易いと度々指摘され、わかってはいるのだが中々変えることも出来ずにいる。背伸びしても所詮は子供なのだろう。

「元気だよ、気にすんな」
 ……ほら。露骨なくせに素直じゃない。

 晶は低い声でくく、と可笑しそうに笑うと制服ズボンのポケットから煙草を取り出した。先ほども散々吸っていたのに、馬鹿じゃないかと思い、恨めしそうにねめつけてみる。

「吸う? 果帆も」
「……自分のあるし」

 灰皿を差し出してくる晶の誘惑に負け、果帆は自身のスカートのポケットを弄りボックスを取り出した。――バージニア・エス・ライト・メンソール。割と女性らしい銘柄を愛煙しているのだが、まあ、煙草を吸うと言う時点で女性らしさからは程遠いかな、と果帆は思っていた。
 煙草を一本唇に咥えると自分のライターで点火するより先に、晶が炎の揺らめくジッポーをさり気なく差し出して来る。まったく、ホストみたいなことをする。皮肉気に笑み、大人しく炎に先端を近付けた。彼がいたから、彼の前では吸わないように我慢していた。別に隠しているわけではないが、見られるのには抵抗があった。約一日ぶりに肺に雪崩れ込んだ煙は、あまり美味しくはなかった。

「こんなこと初めて言うと思うけど」
 そう切り出した晶の声に、果帆は無言で耳を傾けた。
「俺の家ね、父親が外科医で母親が内科医なの。すげえだろ? だから安心しろって」

 本当にそんなこと、初めて聞いた。果帆は驚きに目を見開いたが、なるほど、と妙に納得してしまったのだった。晶の家には皆で何度か足を運んだことがあるが、立派な佇まいの一軒家であった。超豪邸、と言うわけではなかったが広い敷地に聳える三階立ての住宅は小綺麗で果帆の家より遥かに大きかった。晶の両親が忙しい身で、あまり家にいないと言うことは知っていた。住宅の小綺麗さとは一変してせっかくの庭園はすっかり枯れ果てていたし、人気をほとんど感じなかったのだ。晶は、その住宅ではなく、同じ敷地内のやや離れにある車庫の二階に住んでいた。晶からすれば、誰もいないのにただ広いだけの自宅よりもこちらの方が落ち着くとのことだったが(それでも果帆の部屋の三倍ほどの広さだったが)、それ以上の詮索はやめろとばかりに全力の拒絶を感じてしまって、以降は暗黙の了解のように誰も問うたりしなかった。
 こうして専門的な知識があるのも、両親が医者となるとなんとなく合点が行った。馬鹿みたいに頭が良いのも。だが、果帆の気分が落ちている原因には、察しの良い晶でも気付いていないらしい。

「そりゃ、確かに安心だな」

 果帆は柔らかく笑んで言った。煙を吸い込むと、久々の強い刺激に頭がくらくらする。煙草臭くなることを懸念したが、どっちにしろ晶が立て続けに吸っていたのでみんなも染み着いていることだろう。ほうと吐息と共に煙を吹いて、果帆は瞳を閉じた。





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