095.『あの温度で無限の呼吸がしたかった(4)』


 ――もう、忘れて下さい。



 それは曖昧な輪郭の朧気な映像。睡蓮の花のように純情な少女が、微笑みとも泣き顔とも判別の付かないあやふやな瞳で私を見つめる。見つめる。

 不意に、胸を掠めた。私があのまま自我を押し殺してさえいれば、学校と言う名の閉塞なテリトリーを繰り返し生きる彼女は、私は、彼らはもっとずっと、穏やかであったかも知れないと。
 いや、それは己の力を過信しただけのただの杞憂に過ぎない。何故なら所詮は私≠ニ言う器すらも、為政者とも呼ぶべき女王にとってはどう見積もったって、駒の一つでしかないからだ。それ以上でも、それ以下でも、あるはずがないのだ。それが全てなのに私は――

 なんと言って、あなたに謝ればいい? ただただ純粋だったあなたを、誰よりも優しかったあなたを傷付けたこと、どうして償えばいい?

 あの温度で無限の呼吸がしたかった。出来るようになりたかったけれど、熟れすぎたものばかり見ていたからその罪深さにも気付けなかった。だから彼の体温がいらないとも言えない、骨があれば良いとも言えない。けれど、あなたの想いの結晶を空気のように無視することも、もはや私には出来ないのです。





   * * *



 かつての友人の夢を見た。夕方の放送で千景勝平と目黒結翔の死を知り、散々泣きはらして疲れ、いつの間にか眠ってしまったらしい。現在の時刻は何時だろうと思い、身体を緩慢な動作でもがくように支え起こすと、柔らかな肌触りのブランケットに包まれていたことに気付く。この部屋の住民の持ち物だろうけれど、寒さから自分を守ろうと気遣ってくれた人物は一人しか思い当たらない――白百合美海、彼女はどこだろう?
 焦点が合うように何度かまばたきを繰り返し、暗闇の狭間を探るようにして佐倉小桃は瞼をすっと細める。ぼんやりと浮かび上がる家具のシルエットを吸い付けるようにして隈無く順に目で追い掛け、ついには彼女の姿を確認出来ず途端に心細くなった。いくら彼女が綺麗好きと言えど、昨晩のようにキッチンで身体を洗っているとは思えない、彼女にももはやそんな余裕はないだろう。心の空いた部分を埋めるように手を取り合って、ほろほろと血を吐くように泣く彼女に、気の利いた台詞もなにも言ってあげられなかった。例えば自分が、詩人のような言葉の紡ぎ方をする都丸弥重(女子十番)だったなら、まるで美しく響くビック・ベンの鐘の音色のような激励が出来たかも知れないのに。
 小桃はそっとブランケットから抜け出すと、カーペットとの摩擦で乱れた制服を撫でるようにして軽く整え、中腰になって恐る恐る確かめるように家具へ触れていった。

「白百合さん? どこにいるの?」

 墨を塗り込んだように黒い闇が部屋一帯に立ちこめる中、不意になにか固いものに爪先を掬われ、平衡感覚が乱れた小桃は風に煽られたブランコのように肩を揺らした。鈍い音を鳴らし、前屈みになって膝を打ち付ける。
 鈍痛に顔を顰めていると、軽やかに戸を引く音がころころと鳴る。そよ風に乗って雪崩れ込んだ冷気がふわりとカーテンを浚い、僅かに覗いた夜空が濃厚だった暗闇を少しだけ明るく塗り替えた。続いてカーテンレールが労るような仕草でそっと引かれ、月明かりが部屋中を煌々と照らす。麗らかな夜だった。物音に気付いた美海が、小さなバルコニーから頭をにょきっと出した。

「起きちゃった?」

 彼女は春の日差しめいた柔らかい微笑みで、微睡むように頬を綻ばせた。





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