003.『天井の金魚』


 ――不思議だろ? お前と話してると、ささくれ立ったところがぽろぽろ剥がれるみたいにさ、安らかな気持ちになるよ。



 そんな風に言って貰えたのは、いつのことだったか。
 胸に手を当てる。とくんとくんと音がする。

 この世の果てに存在してるみたいに、空間自体が隔離されしまったかのように清閑な放課後の教室。窓際の、後ろから二番目の席。和やかな表情でうなだれる横顔。彼曰くたまたま残ることもある、と言う程度で、この時間にいるのはむしろ珍しい方なのだと笑うのだが――それでも偶然の巡り合わせか、彼女にとっては、いつも彼はそこにいるのだ。

 シーリングライトの光が反射する放課後の教室へ、七瀬和華(女子十一番)はそっと足を踏み入れた。時刻は午後七時を廻っている。部活動で授業後も校内に残っていた生徒たちもとっくに帰宅していると言うのに、踏み込んだ室内には一人、先客がいる。短めに切り揃えられた黒髪とそこから続く長いうなじ、野球で鍛えられた逞しい肩が脱力したように、机の上にその身を預けていた。



 授業が終わり、いつものように下校途中に立ち寄ったスーパーで買い物を済ませ、帰宅して夕飯の支度をし、妹たちに食べさせる。家庭内での和華の夕食の仕事は料理までだった。その後は妹たちに食器洗いを任せ、自分は妹たちが取り込んでいた洗濯物を一枚一枚畳み、整理していく。小学生の時に母が病気で亡くなってから、今ではすっかり慣れてしまった和華の日常。
 家事を一通り終えると、自室で本を読むのが和華の日課だった。これまでに沢山の本を愛読した。恋愛物、推理物、純文学、哲学。本のなにが楽しいのかとあまり読書をしない人には聞かれることもあるが、和華にとっては明白な答えがいつもそこにあった。本とは和華にとって、人々の想いの集合体だった。物語に登場する人物、そして彼らを作り出した著者、それぞれがなにを考えなにを経て、なにに至るのか。彼らの人生の重要場面に出くわした和華は、彼らと同調し、深く深く理解を示そうとする。架空人物だからなんだと言うのだろう。だって、彼らは紙上に描かれた活字の中で、間違いなく生きているのだ。だから和華は、本が好きだった。

 その日は体育の授業があった。夏の残暑も過ぎ去り、すっかり肌寒くなった十月の中旬、和華はうっかり体操着を教室に忘れてしまったのだった。家庭事情の影響か、しっかりしていると言われる和華だが、普段気を引き締めている反動からたまにこうして物忘れをしてしまうことがあった。もっともそれで人の迷惑になったことは、少なくとも和華の認識の範囲内にはこれまでなかったのだけれども。気付いたのは夕食を済ませ、真新しい洗濯物を脱衣所に出しに行こうとした時である。時刻は午後六時半を廻っていた。和華は少し考えてから、父親が帰宅するまでにまだ時間があることを確認して、家を出た。
 職員室で先生に事情を説明し断りを入れる。和華は闇の深い階段を前に薄気味悪さを覚え、急ぎ足で駆け上がり、三年B組の教室を目指す。そして、仄かな灯りの漏れる扉を前に息を飲んだ。緩慢な手付きで、物音を立てぬように戸を引く。まさかとは思ったが、それでも、心のどこかでは期待もあったのだ――けれど、記憶と同じ場所にその人がいることが、不思議で仕方がなかった。
 静まり返った教室、窓際の後ろから二番目の席で、筒井惣子朗(男子十番)が幼気な素顔を見せて眠っている。普段から穏やかで温厚な人柄の惣子朗であっても、こんなにも子供のようなあどけなさは感じたことがない。和華はゆっくりと歩み寄り、すやすやと眠る惣子朗を暫し見詰める。こんな時間まで、なにをしていたのだろう?
 机に突っ伏した惣子朗の手元を見やる。三泊四日・沖縄の旅――その文字を認めて、和華は胸の奥からなにか温かいものがこみ上げて来るのを感じた。――こんな時間まで、たった一人で、これを仕上げていたと言うの?
 和華は惣子朗の肩に添えるように手を置き、呼び掛ける。疲れて眠る惣子朗の目覚めを、少しでも気持ち良いものにしたくて、できるだけ優しく、優しく。

「筒井くん、起きて」

 くすぐったそうに少しだけ身体が揺れる。そして惣子朗はすぐに瞼を開けた。

「……七瀬か?」

 和華の姿を認めた惣子朗が、少しだけ目線を逸らして壁に取り付けられた時計を見やる。現在の時刻を確認すると、身体を起こして和華を不思議そうに眺めた。

「お前、こんな時間になんでいるんだ?」
「それは私のセリフよ? 筒井くんこそ、こんなに遅くまで」
 和華は惣子朗の手元を見やる。
「……ずっとそれを作っていたの?」

 惣子朗が手元のそれに視線を落として、少し微笑む。

「ああ、あと一週間しかないからな。最後にきちんと修正しておきたかったんだ」
 言いながら、やや散らばった資料をその手に纏めていく。
「でももう終わりだ。みんな喜ぶかな?」

 資料を片手に微笑む姿はどこか清々しく、和華も自然と穏やかな気持ちが強くなっていく。本当にこの人は――例えるなら、青空のような人だ。大きくて、広くて、高くて、綺麗で。和華は青空が好きだ。晴れやかな気持ちになって心が洗われるから。

「七瀬はどうしたんだ?」

 惣子朗はそう言って和華を見つめる。まだ少しだけ、ぼんやりとした瞳で。

「体操着を忘れたの。洗濯物、まだ回していなかったから、その前にと思って」
「そうか」

 和華の家庭の事情のことは多分、惣子朗はクラスの中では誰よりも知っていた。以前和華の口から、直接話したことがあったからだ。変な気を使わせてしまったかしら――と、和華は少しだけ顔色を窺ってしまう。そんな和華に気付いたのか、惣子朗は旅行の資料と鞄を手に持つと、優しく微笑んで言った。

「帰ろうか、送っていくよ」



 帰り際に職員室に立ち寄って、帰宅することを告げる。
 すっかり暮れてしまった夜道を和華と惣子朗は、普段はそうすることがないのに、とてもとても自然に、自然に肩を並べて歩く。とくん、とくんと、少しだけ響く鼓動がなんだか少しくすぐったい。隣を意識する。平均よりもやや高い和華の頭が惣子朗の首筋辺りにあることを知って、ああ、男の子なんだなと、妙に関心してしまう。

「天井の金魚の話、覚えてるか?」

 他愛もない会話の途中で、唐突に惣子朗がそう問い掛けてくる。安らかな気持ちになるよ――と、あの日の時間を思い出す。彼との話を、忘れるわけもない。

「覚えているわ。江戸時代の大阪で、繁栄を極めていた豪商が、天井を水槽にして下から金魚を眺めていたって話ね」
「ああ、それ。俺さ、あれから少し考えたんだよ」

 歩みを進めながら、惣子郎は少し腰を屈めるようにして和華の顔を覗き込んだ。一瞬だけ胸が大きく高鳴ってしまったのは、内緒だ。

「七瀬はどう思う?」
「どう思う、って?」
「金持ちだかなんだか知らないが、なんだって天井に金魚を飼ってみようだなんて思ったんだろうな。七瀬はさ、その豪商は、天井で泳ぐ金魚を見て、なにを考えたと思う?」

 難しい質問だった。惣子朗の話を聞いて、興味を持った和華は天井の金魚≠ノ関する本を探してみた。けれど見つけられなかった。惣子朗の疑問はそのまんま和華の疑問でもある。ゆらゆら、ひらひら。下から見上げたその先の水槽で各々と揺らめく金魚の群れ。きらきら、きらきら。けれど、もっとよく確かめたいと、よく見て触れて感じたいと願ってもきっと叶わないのだ。だって天井だから。

「わからないわ。でも、私もそれが知りたい。筒井くんは? 筒井くんは、どう思うの?」
「俺もわかんねー。でも」
 星が瞬いていた。惣子朗は星空を仰いで手を伸ばす。

「これと一緒だ。どれだけ手を伸ばしても、届かない、頭の上だから、多分、すげえ遠くに感じるんだよな」

 きっと――と、惣子朗は立ち止まった。釣られて和華も足を止める。
 空を仰ぐ惣子朗の表情は自分に向いていない。だから彼がどんな顔をしているのか、和華にはわからない。心臓をキュッと抓られたような、痺れるような切なさで胸が震えた。わからないことが切なかった。

「卒業まで半年もないだろ? 七瀬、俺にはさ」

 和華も空を見上げる。ああ、夜空なんて久々にまじまじと見たけれど、オリオン座がこんなにも瞬いている。

「天井を泳ぐ金魚が、クラスのみんなに思えてならないんだ」

 当たり前みたいに巡り会って当たり前みたいに時を過ごして、当たり前に笑い合って当たり前にそばにいた。同じ目線にあるのが当たり前だったはずの水槽と金魚の群れが、天を泳ぐと。

「泳ぐ場所が変わっただけなのに、途端に手の届かない物のように感じる」
 そう言うものだろ、でもそれって、悲しいことなんかじゃなくて、きっと凄いことなんだよな、だからきっと宝物なんだ、今の時間がとても大切なんだ――。



「送ってくれてありがとう」
 玄関の前で振り返って、涼やかに笑い掛ける。

「どういたしまして」
 惣子朗も笑って、少し照れたように頭を引っ掻いた。

「七瀬、あのさ」

 おもむろに通学用バックを探って惣子朗が一冊の本を取り出すと、和華に差し出した。不思議に思いつつ和華はそれを受け取ると、表紙を眺めてみる。ブックカバーで保護されていて、本のタイトルはわからない。

「これって?」
「本、好きなんだろ? 今、読みかけてる途中なんだ。続きは楽しみにしてるから、……卒業したら、返してほしい」

 はにかむように、惣子朗は笑った。

「高等部でも、同じクラスになれたらいいな」

 また明日――そう言い残して、惣子朗は和華から遠ざかっていく。どんどんどんどん、視界の彼方に過ぎて行く。
 和華は溶けるように熱く、締め付けられる胸をそっと押さえた。息苦しくて、もやもやする。天井をガラス張りにして金魚を飼ったと言う豪商、天井には手が届かないと言った彼。――今だってそうだ、小さくなる惣子朗の背中に、手が届かない。届かない。

 わからない、彼に対するこの感情が、なにかなんて。





   * * *



 パン、パン、と鉄板を張り巡らせた教室に乾いた音が響き渡る。
 次の瞬間に奏でられるのはソプラノのコーラス。そして、真っ赤な絵の具が天井に向かって鮮やかな色彩を描く。天井の金魚の話を思い出した。絵の具が勢い良く飛び散って行く光景は、和華にはまるで金魚が泳いでいるみたい見えた。ゆらゆら、ひらひら、きらきら、と泳いで、そして、地上に落ちて行った。水槽が割れて金魚が床に投げ出されたのだと思った。
 金魚の群れが空中を泳いで、泳いで、床に寝転んだ惣子朗の上へ落下して行く。ああ、そうだ――天井に金魚を描いたのは、あなただったんだ。水槽は、あなただ。
 和華は割れた水槽に手を伸ばす。いつも届きそうで届かなかった天井の金魚に、触れたいと思った。ああ、でも、何故――同じ目線にいるのに、こんなにも遠いのだろう。

 私にとってあなたは、天井を泳ぐ金魚だった。本当はずっと恋い焦がれていたの。触りたかった、確かめたかった。あなたにとってはどうだったのだろう。ああ、こんなことなら好きだと言ってしまえば良かった。今ならまだ間に合うだろうか。そして私は手を握って、あなたを地上に、連れて降りるの。





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