073.『透明な罪にしなだれて(8)』


 いつだったか――もう遥か遠い昔のことだけれど、それは朧気な記憶の残像だけれど、燦然と瞬く夜空を家族三人で、仰ぐみたいにして、頬を寄せて、穏やかに談笑しながら、私を慈しむ父と母の、星にも負けないほどに、満天で輝かしい笑顔と声に包み込まれて、安心して、芝生の上で眠りに落ちた、あのときを、時折、ほとんど刹那、思い起こすことがある。

 それは多分、私の人生で最古の、最も清く純真な、記憶の幻影だった。

 心地よくて、美しすぎて、今はもう、目に痛い。





   * * *



 母がね、物心ついた頃から、いつも私に言って聞かせる魔法の言葉があるの。母にとっては多分、なによりも一途な、純正な、真っ白のヴェールみたいな、安らぎの呪文。

 ルキちゃん、あなただけは、ママといつまでも一緒にいてね。



 私が三つのとき、私の戸籍上の父と呼べる人は、愛人との間に子供を作って、母を捨てて、出て行った。母がまだ、二十歳の頃の話よ。

 学生時代に飲食店でアルバイトをしていたと言う母は、そこの常連だった三十代の男と恋に落ち、密会を重ね、そして、子を身体に宿した。男は最初、中絶を迫ったそうよ。当然よね。だって、男には守るべき家庭があったんだもの。
 当時その男には、男と同い年の妻と、幼い息子がいた。母は、男が既婚者だと知らなかったそうよ。だってね、男は、学生だった母に対して、卒業したら結婚しようね、だなんて、世迷い言を散々、甘く囁いていたの。
 まだまだ未熟な十代の、ほんの少女だった母には、悪い男を見抜く力なんてなかった。それに、恋は盲目、とも言うでしょう。恋なんて、幻想、まやかし、白昼夢。覚醒剤みたいなもの。でも、だからこそね、母は、この時からすでに正気を失っていたの。恋と言う麻薬に毒されていたの。

 だから、いつだってただ、男の言葉を信じていた。ただ純粋に、真っ直ぐに、男のことを愛しているだけだった。そして男が嘘を吐いていたと知っても、すでに男の毒に侵されていた母は、嘘を認めることが出来なかった。

 愛する男との間に子を宿した母には、堕ろすだなんて選択は、初めからないも同然だった。中絶を迫る男に、頑として食い下がった。

 それはそれは、素敵な修羅場を迎えたそうよ。
 まず母は、男の妻子に全てを打ち明けた。当然、妻子は母の実家に乗り込むわね。母と、男と、妻と、そしてそれぞれの両親を交えての、凄惨な話し合いが始まった。
 驚いたことに妻側は、男との離婚は考えていなかったそうよ。男は収入だけは大層なものだったそうで、母の両親が婚姻詐欺だとして逆に裁判に持ち込もうとしたときは、多額の示談金を積んで、勘弁してほしいと泣いて縋った。

 けれどね、周りがなにを言おうと、母は子供を堕ろす気はこれっぽっちもなかったのよ。
 母のお腹の中で、子供はすくすくと育っていった。いよいよ中絶が出来ない時期に差し掛かって、妻側と母の両親は、無理矢理母を病院へ連れて行こうとした。

 母は手首を切った。お腹の子と共に、命を絶とうとした。

 病院に搬送されたけど、母も子も、命に別状はなかった。男は、その時は、さすがに、責任を感じたのかしら? 再びあっさりと、妻子を裏切り、母に寝返ることとなった。

 当然、周りは誰も許さないわ。けれど二人は反対を押し切った。母は学校をやめ、男は妻子に多額の慰謝料を積み、互いの両親とは勘当した。けれど、調停裁判の最中に、妻子は、死んだ。心中だったそうよ。



 ああ、そんな顔しないで。退屈よね? ごめんなさい。知らない人間の凄惨な不倫話なんて、興味ないわよね。もう少し手短に話すわ。



 とにかく、私は、そうして生まれた。妻子の命と引き替えみたいにして。
 時間は掛かったけど、私が生まれて暫くして、二人は正式に籍を入れたわ。私ね、今でも少しだけ、ほんのちょっぴりだけれど、三人で穏やかに過ごした日々のこと、覚えていることもあるのよ。まだ、ハイハイしてた時期のことだけど。

 でもね、そんな時間は、ほんの一瞬のことだったわ。男はまた浮気を繰り返した。懲りずに、また子供を作って、以前の妻子がそうだったように、あっさりと、お金だけを残して、母と私を捨てた。


 ねえ、誰が悪いのかしら? 男? ママ? それとも、生まれて来た私?

 ママがね、私に言うの。私がね、ママのお腹に生きたことが、そもそも間違いだったんですって。


 それでも、ママは精一杯私を育ててくれたのよ。心の病に倒れるまで。

 私が小学校低学年の頃に、重度の鬱病を発症して、身の回りの生活がままならなくなった。当然、他に身よりもなく、頼れる人も私たちにはいなかった。必死だったわ、私たち。私は炊事洗濯を覚え、ひどいときはほとんど寝たきりのママに食事をさせ、身体を拭いてあげた。
 幸い、男が莫大な慰謝料と養育費を残してくれたから、お金には困らなかったわ。私が私立中学に入学できるくらいだものね。それだけは、感謝すべきことかも知れない。

 ママはね、ほとんどは寝たきりなのだけど、たまに調子が良いとき、私のために料理を振る舞ってくれるの。そしてね、そんな風に気力が回復すると、手首を、切るの。何度も何度も切るの。そして、泣くの。泣きながら、私に言うのよ。



 ルキちゃん、あなただけは、ママを裏切らないでね。ママとずっと、いつまでも一緒にいてね。ルキちゃんがいれば、ママは他にはなにもいらない。ルキちゃんがいればいい。ルキちゃん、私の可愛い娘。でもあなたには、あの男の血が流れているのね。どうしてママのお腹に宿ったの。あなたがいなければ私はもっと上手く人生を歩んでいけたのに。どうして、あなたと私の二人きりなの。どうしてママにはルキちゃんしかいないの。ああでもあなたがいればそれでいいルキちゃんルキちゃん、絶対にママを見捨てないで。ママを置いていかないで。ママが死ぬときはルキちゃんも一緒がいいルキちゃんが死んだらママもすぐに後を追ってあげるルキちゃんずっと一緒よ私のルキ私の私の私の可愛いルキちゃん――



 私が死んだら、ママが死ぬの。

 私、ママを、死なせたくないの。





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