096.『あの温度で無限の呼吸がしたかった(5)』


 小桃はその、はっとするほど眩い美しさに、思わず息を飲む。人形のようにくるりとカールを描くぎっしりと詰まった漆黒の睫毛が、彼女の大きな瞳の光できらきらと反射していた。まるで月の光に咲き出た夜の花のように可憐で神秘的であり、どこか儚げでもあった。

「白百合さん……」

 造り物みたいに愛らしい顔立ちを食い入るように見つめ、畏怖にも感嘆にも似た掠れた囁きで彼女の名を口ずさむ。
 絶句する小桃に美海は不思議そうに小首を傾げ、澄んだ瞳をぱちくりとしばたたかせたが、この状況で相変わらずの危機感の足りなさを小桃が訝しがっているものと勘違いしたらしく、すぐに涼やかに微笑して唇を開いた。

「外の空気がとても気持ちいいのよ。さっきまでは、風が強かったけど」
「あ、――あたし」
 小桃はほとんど無意識に美海の声を遮っていた。心の奥から揺さぶられるような、どうしようもない切なさと、恋しさにも似た感情が込み上げる。小桃は居ても立ってもいられず美海の、雪のように真っ白な冷たい指に手の平を重ねた。
「夢を見たの。……弥重の夢」

 彼女に思いの丈を全て知ってほしいと思った。全てを理解して、その濁りのない澄み切った清らかな心で全てを受け止めてほしかった。そして、消えてしまいそうなほど儚く美しい美海を、この手に繋ぎ止めたかった。何故こんな気持ちになるのか自分自身もよく理解出来なかったけど、とにかくそうしたいと思った。



「やっとわかったの。あたし、弥重が憎かったんだわ。あたしなんかよりずっとずっと純粋で素直で、優しい彼女に適うはずがなかったから、だからあたし、きっとわざとあの子が傷付くように振る舞ったの。千恵梨や紘那と親しく振る舞うことで、あの子がどんな気持ちになるか本当はわかっていたのに、見ようともしなかった。見えないふりをしてた。嫌な人間だわ、あたし。弥重を乃木坂くんに近付けたくなかった。汚い手口であの子の自信を奪ってしまって、彼から遠ざけたの。彼のそばにはあなたがいたのに、そんなこともわからないくらい、弥重に嫉妬してた。なんてバカな、ひどい、最低最悪の生き物。なのに、夢の中であの子は、あの子は――。

……白百合さん、あなた、弥重に似てるわ、すこし」



 姿形や立ち振る舞いは異なっていても、弥重の純真無垢な心の清らかさは、美海と類する部分があった。そして、乃木坂朔也が、そんな純潔さに心惹かれることもわかっていた。いつだって朔也にもっとも近い場所にいて彼の気持ちを魅了してやまない美海が、羨ましかった。だからこそ、弥重のことが、小桃は怖くて許せなかったのだ。美海には遠く及ばなくとも、弥重にだけは負けたくなかった。誰よりも親しい存在だった彼女にだけは――。
 小桃は唇を撓むほどにきゅっと噛み、吸収されそうなほど自分を凝視する黒目勝ちの瞳を見つめた。その大きな瞳に本当に吸い込まれてしまえたら、この罪悪感や空虚感も報われるのかしらと思った。

 柔らかな動作で、美海が重ねられた小桃の手の平を、更にそっと、包み込んだ。

「ね、ここに来て、小桃ちゃん」

 そう言って優しく手を引き、まるで幼い子供をあやすように、小桃を苛む全てからその身を守るように、細い腕で肩を抱いてくれる。小桃は促されるまま、狭いバルコニーに足を投げ出した。
 美海が小桃の肩を抱いたまま、もう一方の腕でブランケットを手繰り寄せると、ふわりと冷気から庇うように小桃の膝に掛けてくれる。そして、不安げに小桃の揺れる瞳を見詰め、やはりにこりと微笑んだ。色白の細長い指が滑らかな動作で線を引くように宙へ向かい、艶やかな女爪が月明かりに輝く。

「オリオン座を見ていたの。島の夜空は空気が澄んでいて、とても綺麗だわ。ね、そう思わない?」

 小首を傾げながら可愛らしく問う様は神秘的でさえあった。美海の真意を図りかねた小桃は曖昧に頷き、美海に習って改めて星空を仰ぎ、目を見開いた。色々な光彩で散りばめられた無数の星屑は、一つ一つ数えられるほど冴えていた。オリオン座を拠点に、双子座、それにシリウス、あれは大犬座だったはずだ。あっちに見えるあれはプレアデス星団だったか、牡牛座だ。幼い頃はその不思議な煌めきが好きだったのに、いつしか興味が薄れてしまった。夜空なんて、久々に見上げた気がする。

「本当だわ、綺麗」
 小桃は感心したように呟いた。こんな状況なのに、がちがちに凝り固まった気持ちがほぐれていくような安らかな輝きだった。

「この綺麗な空を、都丸さんも秋尾くんと一緒に見ていたかしら」
 ひっそりと咲く小花を連想させるような声だった。

「勝平くんも見たのかな」
 陽だまりのように、その声は小桃の胸の中へ自然と照り込むのだ。

「朔也も、今、見ているのかしら」
 ぽつぽつと、星屑と同じような優しい口調で、美海は語り続けた。
「多分、オリオン座は全部知ってるのね。だからね、夜空はみんなと繋がってるんだわ。同じように、心も通じ合えたらいいのに……難しいね」

 小桃は零れそうな星々を瞳に閉じ込め、ゆっくりと頷く。瞼の裏に、親しいみんなの顔が次々と蘇って流れて行った。

「でも、わかることもあるよ」
 美海はそう言って、再び小桃の手を取る。この暖かな気安さは間違いなく彼女の魅力だろう。心の扉のドアノブを、なんの音も立てず軽やかに開け放ってしまうのだ。

「ね、小桃ちゃん、都丸さんが傷付いたのは事実かも知れない。けどあたしからしたら、あなただって十分に優しい人だわ。あまり自分を責めないで……お願いよ」

 胸に沁みるように沸き立った熱いものが、目頭につんと響いた。

「優しくなんか、ないわ」
 まだまだ日の射し込みを拒む影の部分がアンニュイな面持ちで、物憂げに首を横に振らせる。
「乃木坂くんに好かれたいだなんて、なんて浅ましい、出過ぎた真似を、あたしは……あたしは、醜い嫉妬に溺れた自分が許せない、嫌いだわ」

「けれどあたしは、小桃ちゃんが好きよ」

 小桃は息を飲んだ。く、と空気が喉で圧迫される。思わず美海を見つめると、同性の小桃でもはっとなる、月光が映し出された水面のように慎ましい色香な眼差しで、やはり柔らかく微笑んでいた。

「それに都丸さんは、あなたがそうなることを望まない人よ」
 そうでしょう?、と言って美海は笑んだまま小首を傾げた。

 ほうと短く息を吐き、小桃は噛み締めるように何度も小刻みに頷いてみせる。間違いなく弥重は清らかで純真な心を芯から携えた、人格者であった。お人好しなんて一歩身を引いた言葉すら似合わない彼女は、あの夢と同じように、小桃を憎んでなどいないのかも知れない。

「そうね、弥重はそうかも知れない」
「小桃ちゃんも都丸さんも謙虚すぎるのよ。それが、あなたたちのいいところでもあるけど」

 鮮やかにちりりと光る幻想的な星海原で、微妙な傾斜で三つ並ぶビロードの点を指し、美海はぱっと明るく白い歯を覗かせた。

「ね、オリオンの伝説は知ってる?」

 唐突な質問に疑問符を浮かべつつ、小桃は先ほどとは違うニュアンスで左右に首を振る。
 オリオン座の由来は、確かギリシャ神話の狩人が元になっていたはずだ。ギリシャ共和国は敵国の米帝に寄っているEUの加盟国と言うこともあり、大東亜共和国ではギリシャ神話の書物はあまり普及していなかったが、古代地中海世界で広く知られ世界的に様々な影響を与えた伝承として図書館では翻訳された物が一般に公開されているし、理科の教科書でもすごく簡潔にだが紹介されている。とは言え、教科書以外の知識は小桃は持ち合わせていなかった。

「古代ギリシャの? えっと、サソリが天敵、と言うことくらいしか」
「そう、毒のサソリを送り込まれて、彼は海に飛び込んだの。そして、最愛の人の矢に当たって死んでしまったわ」
「え? サソリに刺されて死んでしまったのではなくて?」

 オリオン座はさそり座が東の空から昇ると、逃げ去るように西の空に沈むのだと教えられた気がする。

「そうね、オリオンの死に関しては様々な諸説があるけど、あたしは、この話が一番好き」

 そして美海は歌うように語り始めた。

「オリオンはとても好色だったと言われてるの。彼には恋人がたくさんいたわ。あの、プレアデス星団もその一つ。――でも、月の女神、アルテミスは彼にとって特別だった」



 オリオンは海王神ポセイドンと、クレタ島の王の娘との間に生まれた半神であった。アルテミスは月と狩猟の女神で、純潔を愛する処女神であった。
 ある時、ギリシャ随一の狩人であったオリオンは、アルテミスと出会い、二人は互いの狩りの腕前を認め合い、やがては恋に落ちる。神々の間でも二人はやがて結婚するだろうと噂されるほどの仲になるが、アルテミスの双子の兄、太陽と芸術の神アポロンはこれを快く思わなかった。彼女が純潔を司る処女神であるにも拘わらず、半分人間のオリオンと恋仲になることが許せなかったのだ。アポロンはアルテミスに再三の説得を試みるが、彼女は兄の思惑を気にしなかった。そこでアポロンは奸計を以てアルテミスを騙す挙に出る。
 こうしてオリオンの元に、毒のサソリが現れる。驚いたオリオンは海へと逃げた。ちょうどその頃、アポロンはアルテミスを海に呼びだし、海の中を頭だけ出して逃げるオリオンを指差して、馬鹿にするようにこう言った。――「アルテミスよ、狩りの女神である君でも、海の彼方に光るあの金色に射ち当てることは出来るまい」
 あまりにも遠くオリオンと認識できなかったアルテミスはこの挑発を受け、「わたくしは確実に狙いを定める弓矢の達人。容易いことですわ」と、持っていた弓矢を定め、見事一発で的を射抜いたのだった。オリオンは愛するアルテミスの放った矢によって死んだ。
 アルテミスがオリオンの死を知ったのは、翌日に遺骸が海岸に打ち上げられてからだった。女神は嘆き悲しみ、冥府の王ハデスにオリオンの復活を依頼するが拒否されてしまう。
 次にアルテミスは父である神々の王ゼウスの元へ赴き、父の爪先に泣きながら跪いた。――「お願いします、お父様、可哀想なオリオンを天に上げて下さい。さすればわたくしは、銀色の月の馬車に乗り、愛するオリオンに会うため夜空を駆け巡ることが出来るのです」――ゼウスはアルテミスを憐れみ、空の月の通り道にオリオンを上げ、星座とした。



「アポロンとアルテミスはとても仲の良い双子だと言われてるの。妹の純潔が散るのが許せなかったのね、きっと、嫉妬したんだわ」
 美海は夢見るような瞳をそっと伏せ、星に向かって願を掛けるように指を交差させる。
「けれどアルテミスは、オリオンを愛したまま、アポロンを許した」

 そして、ね、と小首を可憐に傾げて小桃を見た。

「神様だって嫉妬はするのよ、恥じることじゃないでしょ?」

 心が仄かに温まり、小桃はくすりと唇を解し笑みを浮かべる。静かな湖にさざ波が広がって行くように、とくんとくんと、胸が脈打っていた。御伽噺の世界に入り込んでしまったみたいに、伸びやかな不思議な気分だった。

「白百合さんは?」
「あたしだってするよ」
「本当? 如月くんのこと」

 ふふ、と美海は唇に指を添え、はにかむように笑声を上げた。

「あたしの場合はね、果帆かな」
 彼女は再び空を仰いだ。その瞳には、やはりビロードのような星屑が輝いている。
「果帆に恋人が出来たら、きっと寂しいわ、すごく、すごく」

 アポロンがオリオンに嫉妬したように、誰よりも親しい果帆を取られてしまいたくないと、美海もまた嫉妬心を抱くのだろう。だって自分たちは、皆が様々な個性を携えた複雑な生き物だからだ。それを受け止められれば、ジレンマと葛藤して心が苛むことも減り、もっとずっと、人に優しくなれるのだろうか。
 ならば今まで小桃が抱いて来た罪悪感は、どう整理すれば良いのだろう。弥重の本音を知り、それに見合った償いがしたくても、もう弥重はこの世を去ってしまった。どうして死んでしまったのか。今になってもう一度語り合いたいと願っても手遅れだなんて、あんまりだ。せめて、謝りたかった。けれど、謝罪をして楽になることは同時に逃げでもあると、わかっていた。
 この地に生きる者が空で繋がっているなら、空の果てへ逝ってしまった者はどうなのだろう。届くだろうか。オリオン座に願えば運んでくれるだろうか。流れ星に乗って導いてくれるだろうか。

 弥重、あなたの心に触れたい。二度と忘れないように、あなたを探し続けたい。それを、あたしの償いにしていいだろうか。





【残り:27名】

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