犬かご
2021.08.11 Wednesday
─ 爛瓜 ─
歯形のついた実を板敷きの上で転がした。それはかごめの尻に弾んで、鞠のように土間にまろび落ちた。
木目に染み込んだ、甘ったるい汁の匂いをたどっていく。
「まだ固かった?」
拾い上げ、かごめが中を覗き込んだ。彼はその肩越しに、青い実から汁と種がしたたるのを見つめていた。
ハク千
2021.08.05 Thursday
─ 叢雨 ─
山あいの天気は変わりやすい。朝、念のためにと鞄に入れた折り畳み傘がなければ、今頃きっと濡れ鼠になっていただろう。けれど千尋は雨が嫌いなわけではない。むしろ、どちらかといえば好きなほうかもしれなかった。
アスファルトの窪みに小さな水溜まりができているのを上から覗き込む。──すると不思議なことに、千尋を見つめ返してくる"誰か"の瞳が、水の中に浮かび上がるのだった。まるで彼女に微笑みかけているようでもあり、目があうたびに心をくすぐられる。
それはきっと、千尋が知っている瞳で、けれどどうしてもその"誰か"を思い出すことはできないのだった。
「あの、こんにちは。……また、会ったね」
千尋は水溜まりのそばにしゃがんで、はにかみまじりにそっと声をかけてみる。
折り畳み傘を傾けたはずみにしたたり落ちた雨水が、水面を揺らし、相手が笑いながら「そうだね」と、うなずいたように見えた。
犬夜叉
2021.08.05 Thursday
─ 幻の巷 ─
ねぐらに帰ると彼が言いだした途端、何人かの子ども達が顔を見合わせた。
ある大人びた少年は、ほとほと呆れ果てたという様子で肩を竦め、別の腕白少年は、もっと遊びたいと彼の衣手にしがみついてせがみ、またある双子の少女は、訳知り顔で憐れみの眼差しを向けてくる。
「あんな枯れ井戸が、ほんとに犬夜叉の"ねぐら"なの?」
背中によじ登ってきた少年に聞かれ、犬夜叉の口角が持ち上がる。
「てめえらがき共はいつも同じようなことを言いやがる。──そうだよ、悪いか?」
「屋根のある家に住めばいいのに。雨や雪の日はどうするの?」
「おれは頑丈なんでい。雨や雪くらい、どうってことねえよ」
ほとんどの子ども達は彼のほんの一面しか知らないから、その言葉を鵜呑みにする。
大人とて同じである。彼には生き別れた恋人がいて、その恋人の帰還を忠犬さながらに待ち続けているらしいという話が、あたかもうるわしい美談のように語られている。けれど誰よりも強くて義侠心あふれるこの頼もしい英雄は、それしきのことでへこたれはしないのだと、多くの村人達が盲目的に信じてやまない。それほどこの半妖は村の人間達から尊崇され、守り神のように重宝されていた。
あの少年少女が大人になり、子を成してその子らが父母となり、その子らが遠つ祖となる頃、やはりまだ犬夜叉は子ども達に囲まれている。
犬かご
2021.08.05 Thursday
─ 依巫 (よりまし) ─
池の水面は、うっすらと霜のかかった薄氷に覆われていた。
かごめはその表面を、人差し指の爪の先で、軽くたたいてみる。
一、二、……三。
冷たい氷の下で、何か白いものがゆったりと身を翻したのが見えた。
「私たちは、本当に仲の良い夫婦でございましてね──」
背後からまた、男の穏やかな声が聞こえてきた。
池を眺めるかごめの隣で、犬夜叉がはたと後ろを振り返る。
かすかに雪をまとった柳樹の傍に、それはひっそりと佇んでいた。
「──ここの池は、見事でございましょう?」
声が、またかごめに語り掛けてくる。まるで話し相手を待ちわびていたかのように。
「私たちはよく、池を歩いて回るのです。妻は鯉に餌をやるのが好きで、ちょうど巫女さまのように──しゃがんで池を見つめているのです」
犬夜叉は、かごめの手をそっと握りしめた。
氷に触れていた指先は、凍てつくようだ。
かごめが池の向こう側に視線を渡した。
薄氷の割れたところに、一羽の鴨がじっと身を丸めて浮かんでいた。
「この柳の下で、よしなしごとを語り合うのが私の愉しみです。城を空けている間のことや、子供らのこと──。今日も話がしたくて、ここで待っているのです。我が妻は、どこに隠れているのやら──」
池の氷の上に、雪がしんしんと降り積もっていく。
それを見守っていたかごめの白い頬を、ふとひとすじの涙が伝い落ちた。
驚いた犬夜叉が、その顔を覗き込む。
「かごめ?」
「……」
「泣いて──いるのか?」
声はもう、返ってくることはなかった。
かごめは涙を拭いて、ゆっくりと背後を振り返る。
柳樹の傍に、雪に埋もれた小さな首塚があった。
池に視線を戻すと、あの鴨がまだぽつんと水面にとどまっている。寒空の下で凍り付いたように、その場を動こうとしない。
「おい……大丈夫か?」
かごめはようやく、犬夜叉の手を握り返した。その力のなさに、犬夜叉は眉をひそめる。
「かごめ」
呼びかけに応じるように、もう一度握り返してから、彼の手を離した。
首塚に積もった雪をはらいのけ、片膝をついて正面から向き合う。ざんばら髪に青い顔をした男の生首が、目を見開いてじっと彼女を見下ろしていた。
(──おれには聞こえない声が、かごめには聞こえていて、見えないものが見えているんだろうか?)
無言のその背を見つめながら、そうすることしかできないもどかしさに、犬夜叉は拳を強く握り締める。
生まれた時から封じられていたものが、解き放たれたはずみだろうか。戦国の地に戻ってから、かごめの霊力は日を追うごとにその強さを増していくようだった。祝言を挙げてから、三年の月日が流れ、彼女のもとへは日々訪れる人の足が絶えない。
千尋
2021.02.13 Saturday
─ よいや、よいや ─
鈴の音が聞こえていた。
神社の賽銭箱に吊るされている鈴を鳴らすほど大きくはなく、かといって猫の首につけられる鈴ほど小さな音色でもない。風鈴のように涼しげで、今にも消え入るような、それでいて途切れることなく空気に乗って流れてくるその響きが、千尋の耳に心地よかった。
どの道を歩いてみても、歴史ある温泉街の情緒が感じられる。古びた旅館の建築、橋にそびえるガス灯、浴衣姿で散歩する湯治客。全てがもうもうと立ち昇る湯煙にかすみ、千尋を夢見心地にさせる。何とはなしにそぞろ歩いていた千尋はふと、つきあたりに見える、人気のない路地を折れてみようという気になった。
どうやら、あの鈴の音に近づいているようだった。人が一人通るばかりの細い路地に、千尋の下駄の音がからんころんと鳴り響く。誰かが振る鈴の音色も、それに共鳴するように、しゃりんしゃらんと節を合わせてくる。千尋は踊るような足取りで、長い道を先へ先へと進んでいく。やがて行く手に白い光が見えてきた。後ろからの追い風に背中を押されながら、千尋はその光の中へ飛び込んでいく。
路地を抜けた先には、似たような古い町並みが続いていた。ただそこに人の姿はなく、大小様々の影のようなものがひしめくばかり。その中心から、あの涼しげな鈴の音色が聞こえてくる。影の垣根の向こうに、ひらひらと白いものが漂うのが見える。千尋は寄り集まった影と押し競まんじゅうしながら、少しずつ音の出所に近づいていった。
ようやく、影の最前列に躍り出る。そこには、色の剥げかけた欄干をめぐらせた、小さな舞台のようなものが設けられていた。ここに至って初めて、千尋は影ではない、実体を持つ者の姿を見た。その人は白い衣をまとっている。水色の袴の裾からは、白い裸足が見える。顔は白紙の面に覆い隠されて見えないが、その片手には銀色の鈴が握られている。
その若者は、千尋から見て右手を向いていた。舞台上に立ってはいるものの、踊ったり、歌ったりする様子はない。ただ直立のまま、手にした鈴を絶え間なく鳴らすばかりだ。そしてその人は、時折、空に向かって白く細長い布を投げる。それはさながら、一匹の白蛇が天に昇る姿のようだった。
ある時、その白い布が、風に吹かれてひらひらと千尋の頭の上に落ちてきた。千尋がそれに触れると、確かにその手でつかんだはずが、瞬時にして白い花びらのように散っていった。千尋がふと顔を上げてみれば、あの紙の面が微動だにせず彼女を見つめている。鈴の音色はいつの間にかやんでいた。
呼ばれたような心地がした千尋は、ゆっくりと舞台に近づいていく。精巧に作られた人形のように不動だった若者は、草花が太陽の光を求めるように、千尋に合わせて身体の向きを変えていく。そして裸足で舞台の縁まで歩み寄ると、緑の欄干の上からそっと両手を差し伸べてきた。前屈みになったその人の顔の上で、紙の面がはらりとめくれ、一瞬、白い顎の輪郭が見えた。
千尋は爪先立ちになって、差し出されたその手に触れた。二人の指が絡んだ瞬間、その人は小さく何かを言いながら、千尋の身体を軽々と舞台へ引き上げた。あっという間に千尋は欄干の柱に立っていた。若者は千尋の腰を支えたまま、まるで立像を仰ぐような感嘆に満ちた様子で、彼女を見上げている。
彼はまた何かを言ったようだったが、千尋の耳には聞き取ることができない。その人の話す言葉は、千尋の知らない言語のように聞こえるのだった。前屈みになり、その紙の面の口と思われる場所に耳を近づけてみても、水の泡が弾けるような音が聞こえるばかり。
千尋の手に、若者はあの銀色の鈴を握らせた。それはとても軽かった。二人の手で小さく振るってみる。清らかなその音色に、千尋は不思議な懐かしさを感じ、心震わせた。
やがて、雨が降ってきた。霧のように細かい雨。町並みはけぶり、ひしめく影の姿も見えなくなる。まるで雨の中に二人きりになったかのようだった。
紙の面に雨が降りかかる。白紙の上に染みが点々と広がっていく。千尋はその人の素顔を見たいと思った。薄墨の滲んだような面に手を伸ばすと、しかし彼は、それを取り払われることを恐れたのか、後ずさり、白い袖で顔を隠してしまう。
思わぬ拒絶を受け、千尋は落胆した。目と目を合わせれば、相手とより深く心通わせることができるという気がしていただけに、瞬時にして夢からさめたような心地さえした。そして、ふと自分の置かれた状況について考えた。──彼女は家族旅行で温泉街を訪れている。旅館では両親が、散策に出た娘の帰りを待っている。いつまでも油を売っているわけにはいかないのだ。
帰り道を求め、千尋が後ろを振り向きかけた時だった。袖で顔を隠したまま、その人は千尋の手首をつかんだ。驚いた千尋は、手にしていた鈴を落としてしまう。彼はわなわなと首を横へ振った。聞き取れない声が何かを訴えている。
雨脚はますます強まっていた。ビチャリと音がして、千尋が視線を落としてみれば、濡れてちぎれた紙の面がその人の足元に落ちている。
──面が外れて思い切りがついたのか、その人は、顔を覆い隠していた袖を、静かに下ろした。
千尋は、役目を終えたその面から、ゆっくりと目線を上げていく。
目と目が合う──ことはなかった。その顔には、目というものがなかった。眉も、鼻も、口もない。
白面の、のっぺらぼうがそこにいる。
犬かご
2020.01.04 Saturday
─ あらたま ─
三が日を過ぎてもまだ日暮神社は参拝客が絶えなかった。しびれをきらして井戸を通ってきた犬夜叉だったが、かごめはいつになく忙しかった。
「……いい? 絶対に、外に出てこないでよ!」
目の下にクマをつくって凄まれては、さすがの犬夜叉も頷かざるを得ない。言いつけを守り、居間で草太や猫と大人しく戯れていることにする。
うたた寝から覚めると、猫をはさんだ隣にかごめが巫女服のままぐったりと寝そべっていた。先程の鬼気迫る様子が別人のようなふぬけぶりに犬夜叉は思わずにやけた。片手で顔を支えつつ、空いた方の手で猫の丸い背を撫でていると、かごめが薄く目を開ける。
「すっかりへたってるじゃねえか、かごめ」
「しょうがないじゃない。お正月の神社って、すっごく忙しいんだから……」
「言うこと聞いて、おれと帰ってればよかったんだ」
それもそうね、そうもいかないけど──。猫を撫でている指に、かごめがじゃれて手をかぶせてきた。
猫につられて欠伸する顔が、いつになくあどけない。
犬かご
2020.01.04 Saturday
─ きのふの夢はけふの花 ─
「少しだけ待ってて」
そう言って身を離したかと思うと、かごめは外へ出ていってしまった。少しだけ、その言葉を信じて忠犬のように戸口を見守り続ける犬夜叉だが、彼女はなかなか戻る気配がない。
ひとり残された彼は、性急すぎたかもしれない己の行動を後悔せずにはいられなくなる。──祝言を挙げぬうちに触れようとしたことがいけなかったのか。ただ一刻も早くそうして心を分かち合いたいと願っただけだが、それは身勝手な欲望に過ぎないのかもしれない。
帰ってきたかごめは、全身をしっとりと濡らしていた。
犬夜叉は息が詰まりそうになる。
「この寒いのに……水浴びか?」
「だって、きれいにしたいじゃない」
──初めてなの。
かすかに震える体をみずから寄せてきたとき、彼の杞憂はあとかたもなくその胸から消え去っていた。