千尋

2021.02.13 Saturday


─ よいや、よいや ─

 鈴の音が聞こえていた。
 神社の賽銭箱に吊るされている鈴を鳴らすほど大きくはなく、かといって猫の首につけられる鈴ほど小さな音色でもない。風鈴のように涼しげで、今にも消え入るような、それでいて途切れることなく空気に乗って流れてくるその響きが、千尋の耳に心地よかった。
 どの道を歩いてみても、歴史ある温泉街の情緒が感じられる。古びた旅館の建築、橋にそびえるガス灯、浴衣姿で散歩する湯治客。全てがもうもうと立ち昇る湯煙にかすみ、千尋を夢見心地にさせる。何とはなしにそぞろ歩いていた千尋はふと、つきあたりに見える、人気のない路地を折れてみようという気になった。
 どうやら、あの鈴の音に近づいているようだった。人が一人通るばかりの細い路地に、千尋の下駄の音がからんころんと鳴り響く。誰かが振る鈴の音色も、それに共鳴するように、しゃりんしゃらんと節を合わせてくる。千尋は踊るような足取りで、長い道を先へ先へと進んでいく。やがて行く手に白い光が見えてきた。後ろからの追い風に背中を押されながら、千尋はその光の中へ飛び込んでいく。
 路地を抜けた先には、似たような古い町並みが続いていた。ただそこに人の姿はなく、大小様々の影のようなものがひしめくばかり。その中心から、あの涼しげな鈴の音色が聞こえてくる。影の垣根の向こうに、ひらひらと白いものが漂うのが見える。千尋は寄り集まった影と押し競まんじゅうしながら、少しずつ音の出所に近づいていった。
 ようやく、影の最前列に躍り出る。そこには、色の剥げかけた欄干をめぐらせた、小さな舞台のようなものが設けられていた。ここに至って初めて、千尋は影ではない、実体を持つ者の姿を見た。その人は白い衣をまとっている。水色の袴の裾からは、白い裸足が見える。顔は白紙の面に覆い隠されて見えないが、その片手には銀色の鈴が握られている。
 その若者は、千尋から見て右手を向いていた。舞台上に立ってはいるものの、踊ったり、歌ったりする様子はない。ただ直立のまま、手にした鈴を絶え間なく鳴らすばかりだ。そしてその人は、時折、空に向かって白く細長い布を投げる。それはさながら、一匹の白蛇が天に昇る姿のようだった。
 ある時、その白い布が、風に吹かれてひらひらと千尋の頭の上に落ちてきた。千尋がそれに触れると、確かにその手でつかんだはずが、瞬時にして白い花びらのように散っていった。千尋がふと顔を上げてみれば、あの紙の面が微動だにせず彼女を見つめている。鈴の音色はいつの間にかやんでいた。
 呼ばれたような心地がした千尋は、ゆっくりと舞台に近づいていく。精巧に作られた人形のように不動だった若者は、草花が太陽の光を求めるように、千尋に合わせて身体の向きを変えていく。そして裸足で舞台の縁まで歩み寄ると、緑の欄干の上からそっと両手を差し伸べてきた。前屈みになったその人の顔の上で、紙の面がはらりとめくれ、一瞬、白い顎の輪郭が見えた。
 千尋は爪先立ちになって、差し出されたその手に触れた。二人の指が絡んだ瞬間、その人は小さく何かを言いながら、千尋の身体を軽々と舞台へ引き上げた。あっという間に千尋は欄干の柱に立っていた。若者は千尋の腰を支えたまま、まるで立像を仰ぐような感嘆に満ちた様子で、彼女を見上げている。
 彼はまた何かを言ったようだったが、千尋の耳には聞き取ることができない。その人の話す言葉は、千尋の知らない言語のように聞こえるのだった。前屈みになり、その紙の面の口と思われる場所に耳を近づけてみても、水の泡が弾けるような音が聞こえるばかり。
 千尋の手に、若者はあの銀色の鈴を握らせた。それはとても軽かった。二人の手で小さく振るってみる。清らかなその音色に、千尋は不思議な懐かしさを感じ、心震わせた。
 やがて、雨が降ってきた。霧のように細かい雨。町並みはけぶり、ひしめく影の姿も見えなくなる。まるで雨の中に二人きりになったかのようだった。
 紙の面に雨が降りかかる。白紙の上に染みが点々と広がっていく。千尋はその人の素顔を見たいと思った。薄墨の滲んだような面に手を伸ばすと、しかし彼は、それを取り払われることを恐れたのか、後ずさり、白い袖で顔を隠してしまう。
 思わぬ拒絶を受け、千尋は落胆した。目と目を合わせれば、相手とより深く心通わせることができるという気がしていただけに、瞬時にして夢からさめたような心地さえした。そして、ふと自分の置かれた状況について考えた。──彼女は家族旅行で温泉街を訪れている。旅館では両親が、散策に出た娘の帰りを待っている。いつまでも油を売っているわけにはいかないのだ。
 帰り道を求め、千尋が後ろを振り向きかけた時だった。袖で顔を隠したまま、その人は千尋の手首をつかんだ。驚いた千尋は、手にしていた鈴を落としてしまう。彼はわなわなと首を横へ振った。聞き取れない声が何かを訴えている。
 雨脚はますます強まっていた。ビチャリと音がして、千尋が視線を落としてみれば、濡れてちぎれた紙の面がその人の足元に落ちている。
 ──面が外れて思い切りがついたのか、その人は、顔を覆い隠していた袖を、静かに下ろした。
 千尋は、役目を終えたその面から、ゆっくりと目線を上げていく。
 目と目が合う──ことはなかった。その顔には、目というものがなかった。眉も、鼻も、口もない。
 白面の、のっぺらぼうがそこにいる。


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