濃くて酸味のある珈琲を炒る香りはなんとも官能的で、現パロ発天の濡れ場はこんな香りか…と考えながら書いた短編がいくつか。
町娘←発←天化、とか、発×奉孝娘←天化だとか、名も無き第三者から見た発と天化の関係性や恋愛観を描くのが好きなんですが、これは一体なんのジャンルなんでしょう。ドリームに入るのでしょうか。
二日目のシチューのような発天はとてもいい。よく煮込み、寝かせて溶け合っているのはとてもいい。
家事も仕事も恋も忘れて、ただただ発天のことだけ考える人生を送れたらいいのに…とわりと本気で思う。二人の幸せと幸福な別れについて考えている時、私は一番生き生きしている。時間の止まれ、発天にすべての時を与えて止まれ。
やはり、発天はやはり好い。わたくしには一番によく効く薬なのです。(昭和の私小説風に)
生きる意味、と言う意味で発天に依存したくはない。生きる糧にして発天に課したくない。
長い道のりを共に歩むのである。
ならやはり、発天は人生だ。
原稿、というか発天創作は生きる意味…いや、これはなんだろう?
生きる張り合い…これは仕事だし、趣味は料理やネイルアートだし、娯楽は読書だし、じゃあ一体なんだろうか。僅かな苦痛や苦味も伴いながら、それを通して仲間と会話し自己を表現し、喜怒哀楽を全て表すもの…ってなんだ、人生かあ!
発は天化を 甘やかして甘やかして、甘やかな蜜の中に落として漬け込んで泣かせてやりたくて堪らない。その前に頬を撫でて髪を混ぜて、鼻の頭に口付てやりたい。そんなことが浮かんでは浮かんで消えてくれない。我々はそう知っている。
私はクリスチャンでもないので、クリスマスはとくに祝ったことがなく、『裕福で、心が豊かに潤っていて、食卓を囲うメンバーがいることを確認して幸せを感じる為の象徴』がクリスマスだと認識してるんですが、それはすなわち『周』における『豊邑』や『発』の存在ととても似ているのでは?と思い至ったら涙が出てきたイヴの新宿。
発天とは宗教なのだろうか?否、神です。
人の親にならずとも発天の親になろう。発天を抱(いだ)こう。聖母にならずとも発天の大母になろう。
発天がなくても生きていけるし、発天がなくても十分幸せだけど、発天がいるから今の私が歩んでいる。発天。
"アイツがいるから頑張る"でも"頑張った延長にアイツがいる"でもなく、違う道を歩んでいても横を見ればお前がいて、完全に平行に歩いてないってことは地球上でいつかまた交わる。そんときゃ抱き締めさせろよ百年分!──というのが理想の発天です。
二人がいつか別々の場所で物言わぬ化石になっても、口許だけは互いに好きだと雄弁に語るような幸せの弧を描いていたらいい。それだけでいい。
天化さんが全力疾走する絵に、間抜けな書体で『ぶらんぶらん』とか『たゆんたゆん』とか描き込んで脳内合成する遊びが流行って欲しい。多分私の想い描いている発天における発の脳内のおめでたくも切ないアホな同性愛風景が如実に伝わることと思います。
"恋とはなにか"の問いにも、"この気持ちはなにか"の問いにも答える術がなくて、答えるだけの技術の学び方もわからなくて、そもそもそれに答えることが果たして正解であるのかも、この感情に答えがあるのかもわからないから、なら二人で探してみようか。という発天の始まりがいとおしい。
そっと広がる沈丁花の香りは発と天化の幼い旅立ちの匂いがする。切なくて甘くて、これから待ち受ける世界の広さに胸踊る香りなんだ。
季節性発天過敏症炎にかかりました。梅の花に桃の薫り、桜が舞えば大地も芽吹き空が歌い…つくしんぼうにはつてんぼう…メジロ天化に鶯発…包み込む杉発に刺すようなヒノキ天化…う゛っ…ッ…も゙え゙ぐる゙ぢい゙…っ…!なにさこの発天ッ…鼻゙がどま゙ら゙な゙い゙ざっ…(ずるずるちーん)
天化を文房具に例えるならば、"墨"。何色にも染まらぬそれは、常に漆黒の輝きは気高く美しく、凛とそこに佇んでいます。何もかもを自分の色で塗り替え、曲がったことは赦せない。削られ過ぎてはひび割れ、ある日ぱっきり折れてしまう。そんな危うくも美しい生き様で人々を繋いでいるのです。
天化のあのまんまるまっくろ後ろ頭に毎日愛情を与えていたら、いつかぴょこんと発芽する気がします。はつが。
発天っておいしい。デリシャスなスウィーツとしての甘味ではなくて、涙流して地肉を食す形の美しさと命の業と煌めきを孕んだ"美味しさ"だ…。いただきますのご挨拶と共に、七年間人間の細胞になるんですよ。だから七年間の周期で細胞が入れ替わる時期に恋しくなるのでは。
夏の終わりに死に行く蝉たちを見ていると、七年間父の幽閉に耐えて歪んで泣き続ける思春期発と、七年越えの修行を中断して下界に舞い降りたにも関わらず、周囲の環境が変わりすぎていて命を燃やさざるを得ない思春期天化が出逢って、刹那の想いを昇華させる迄が如実に再現されてしまう…
現実を蔑ろにするんじゃなくて、自分が全力で生きるフィールドが二倍になるイメージ。世知辛いことも多い世の中で、すべてが限りなく報われる幸せのパラレルワールド、それが発天。
実生活での親友や家族といった大切なひとの人生の岐路に、自分がどれだけ関わり背中を押して受け止められるのか。考えてみると意外と少なく歯噛みしたりもするけれど、二次創作は原作という大いなるものを前に、自分の手で大切なひとを幸せに出来る。それってとても素晴らしい生き方の一つだと思うんです。
夏の発天ちゃんの瞳は、陽光を受けたブルーカルセドニーとアベンチュリンみたいだ。きれい。
望が目指した理想郷を昌が夢見て、その夢を夢で終わらせない為に、荒波に飲まれても雨に打たれても奮い立つ若い発がいて、そのまだ青い柱が倒れないように支え続けた黒い楔が天化。夢の礎は今も続き、朽ち果ててなお色褪せない柱と楔の絆。純白から塗り替えられた漆喰の真紅が朝焼けに語りかけているよ。
発天に留まらず、妄想の余地を存分に残しつつ、二人の「必死に恋している」様子がひしひしと伝わる創作が好きです。それがいつの間にか、「息をするぐらい自然な愛」に研磨され昇華していると堪らない。涙が出るよ…。だから老後パロディ好きなんだろうなぁ。
欲望に素直なのに自分には正直になれない発と、自分に素直なのに欲望なんか持っちゃない天化。この巡り合わせは因果なモンだなぁと思うし、美しいと感じるし、惹かれる様子は残酷でもあり可愛らしくて微笑ましい。それは即ち"愛おしい"んでしょうね。
天化の可愛らしさは、他の追随を許さないばかりか頭ウン万個分抜きん出た物があって、日に日に他者と差が開いて溢れ返る愛しさに塗り替えられてしまって辛い。なんだろう、なんなんだろうかこれは…
雨の日の桜は、発と天化の園に愛おしさの涙が溢れているか、生命の恵みを紡いでいるか。美しいこと限りなし。寄り添う花弁は発と天化。