二限の授業が終わりに差し掛かった頃。教室の後ろの扉を僅かに開く。開いた扉付近に座っていた女子二人に口止めをし、ほふく前進でソロソロと窓際にある自分の席にまで移動しようと試みた俺だが、目敏い女教師が見逃してくれなった。
「仲原君! なにやってるのっ」
元々細い糸目を更に吊り上げ、ヒステリックに怒鳴り散らした後、教室から撮み出され、生活指導室に行くように命じられる。まぁ、いつものパターンだから別に気にしないけどね。 やっぱし、黒ジャージ上下じゃ、駄目だったかぁ。学校指定のジャージ、ダッセー赤いのだもんなぁ。そりゃあ、赤と黒じゃ一目でバレっか。下もプリント入りのTシャツだし。それが尚更、あの行き遅れの逆鱗に触れちまったんだろう。まったく。もうちょっと寛容になってくれたってバチは当たらないんじゃねーの? そんなんだから三十路過ぎても、結婚出来ねーんだ。
「ったりーなぁ」
仕方がなく、学校指定のジャージに着替えようと、ロッカーの中を漁るが、 「あれ?」 記憶の中では、確かに仕舞ってあったはずのジャージが見当たらない。
ロッカーの中身を散々引っかき回してから暫くして、二週間前、自宅にジャージを持ち帰った事を思い出した。 なんで、こんな肝心な時に限って、家に持ち帰ってんだよ、俺。どうせ持って帰っても俺ン家、水道も電気もとめられてんだから洗えないだろーが。洗剤も切らしてるし。 流石に体育の授業中でも無いのに、ずっと半袖短パンの体操着姿では恥ずかしいし、夏でも無いのに、寒すぎる。 やべぇ。マジで、どうしょう。
「おーい、アサヒっ!」
体操着を握りしめながら、茫然としていると、俺以外誰もいなかったはずの廊下でいきなり名前を呼ばれた。声の主を確かめようと振り返った瞬間、容赦なく右肩に肩パンを食らわされる。 「痛ってェェ! 何すんだよっ」 余りの激痛に、涙ぐみながら、肩に置かれた手を払い除けると、頭をドピンクに染めた男が、 「ワリワリ! 加減間違ったわ。つーか大袈裟だろ」 と、謝ってきた。 大袈裟じゃねー。マジで痛ンだ。何笑ってんだよ、この馬鹿。全然悪いと思ってねーだろ。 ちっとも反省の色を見せない態度にイラッときたので、手加減なしに、目前の向こう脛に蹴りをお見舞いしてやった。
「ぐおっ!」
そのおかげで、そいつは不愉快なニヤケ顔を崩し、うめき声をあげながら床にと沈んだ。 ふん。ざまーみろ。 「す、脛は反則だろぉっ、アサヒ」 「テメーがいつまでも馬鹿笑いしてるからだろ、バカ今野」 起き上がって、早速文句を飛ばしてきたそいつは、中一当初からの悪友、今野だった。 “仲原”と“今野”で、出席番号通りの席順では完全に離れまくっていた俺達だったが。身長の関係で、体育では必然的にペアを組まされ、おかげで直ぐに仲良くなった。一年の時点で170くらいあったの俺らだけだったしな。
「なんだよ。これくらい軽い挨拶だろ? オレ、ずっとアサヒにメールしてたんだぜ? 村田も本庄も。それなのにテメー、二週間もシカトしやがってよ」 「しょーがねーだろ。ケータイ未払いで止められちまったんだから」 そう正直に言っても、 「ホントかよ?」 と疑いの目を向けてくるので、カバンの中からケータイを取り出し、馬鹿面目掛けてディスプレイを突き付けてやった。コンビニと樹の家で充電させてもらったおかげで、電池は復活していたが、金を払って無いので、“圏外”になったままだ。
「うっわ、ホントだ。マジで止まってる」
電波を届きを良くする為なのか、今野はケータイを窓の外に出し、左右に降りながら画面を確認していた。 このまま放置してると、この馬鹿は平気で手元を滑らせて下に落としかねない。 「分かったら、さっさと返せ」
何度目になるか分らないうっかりミスをされる前に、急いでケータイを奴の手から引っ手繰った。 まったく。人のモノなのに、扱いが雑なんだよ。
「つーかさあ。金払えないってコトは……何、お前の父ちゃんまだ家、帰って来てねーの?」 だが、すっかり油断しきってたところに、豪速級のデッドボールをぶつけてくるのが今野だ。 お前ね。もう中三なんだから。もうちょい状況察して、オブラートに包んでくれてもいいんじゃねーの?
「三組の高橋や佐藤とかが、この前、アサヒが泊まり来たって言ってたしさ」 「……まーな、全然帰ってくる気配ねーよ。あのクソ親父は」
ついでに、兄貴も。
「マジかよ! すっげー、なんか昼ドラみたいだな。お前ン家」 「はは、そーだな」 興奮気味に、妙に関心されてしまい、自分でも顔が引きつっていくのが分かった。 まぁ俺もコイツに思いやりなんてモンは端っから、期待してねーケドな。下手に同情されてもウザいだけだし。
「じゃあさ、今夜アサヒもウチに来いよ。俺ンち、今日どっちも親出掛けてんだ。姉ちゃんもバイトの飲み会で居ねーし! 他のメンバーも誘ってあるから! なっ、絶対来いよ」 「あ、えっ?」
空気読めない発言直後に、まさか家に呼ばれるとは考えてなかったので、変な声が出てしまった。 今野ン家は一軒家だ。アパートやマンションよりは多少騒いでも平気だから、確かに気兼ね無く過ごせて居心地はいい。 だけど、ちょっと遠いんだよな、あの商店街からは。 明日も学校はあるし、今日はもう一回樹の家に寄って、洗った制服を回収したい。 あー、でも。樹が店あがるまで、また玄関で待ってなきゃいけねーのかなぁ。塀をよじ登れば、外に干した洗濯物は回収出来そうだけど、それは、ちょっと俺でも気がひけるし。商店街も近いし、万が一、買い物帰りの主婦にでも見つかったらシャレになんねー。学生が成人男性の下着ドロって。噂話の格好の餌食だ。
「あー、考えとくわ」 「考えとくじゃねーよ、大抵アサヒの“考えておく”は、ほぼ“行かない”と同義語じゃねぇか」 うまいこと受け流せた気でいたのに、図星を指され、言葉に詰まってしまった。流石に三年もつるんでれば、遠回しの断り文句だとバレてしまったらしい。
「絶対来いって。お前が来た方が絶対楽しいんだから」
常にKYな奴だけど、時々、ほんとーに時々だけど、今野の能天気さに救われる時もある。馬鹿だけど、嘘はつかないから。
「な〜? いいだろぉ、アサヒくぅん」 「キモい、引っ付くな!」
そんな急に気色悪い猫なで声使うなよ。反って断るタイミング失ったじゃねーか。
「じゃ、時間になったらメール……は携帯止められてんだっけ。こっちは適当にやってるから、ちゃんと来いよ」 「や、今野、あのさ」 「ジャージも、忘れたんだろ? ほらっ。貸してやるから!」
皺くちゃに丸めこまれ、お世辞でも綺麗とは決して言えないジャージを押し付けられる。 もしかして、これを届けに今野は授業抜けて来てくれたんだろうか?
「中抜けしてばっかだと、またあの先生に睨まれんぞ」 「そんなの、イマサラじゃん」 しかも抜けた理由が俺を追っかけてだから、確実に次の授業で、英文翻訳抜き打ちで指名されそうだ。 「気にしなくていいっしょ。どうせ今年で卒業だし今の俺にゃあ、にゃ〜んにも怖いモンなんてあ〜りまセン。最高学年で最強だから」 と訳の分からないことをほざきながらVサインをされる。 ったく。内申書に変な事書かれても知らねーぞ?
「あぁもう、分かったよ。時間あったら行く」 「お〜、待ってるかんな」
今野のペースに圧され、結局遊びに行く約束をさせられてしまった。
「ま、なんとかなるだろ」
助けてもらった手前、好意を無下にしにくい。いくら今野でも。
廊下で今野と別れてから数分後。生活指導室に行く前に、俺は空き教室で早速着替えることにした。先に着替えてしまった方が「反省してる」と見做されて、より早く指導室から解放されやすくなること長年の経験で知っているからだ。
しかし、受け取ったジャージを、全面的に広げてみてから。唐突に、何も疑いも無くこのジャージを「今野の物」だと信じた自分を激しく後悔した。あの忘れ物グセの酷い今野が、人に物など貸せるはずがない。 そういや、奴は「貸してやる」とは言っていたが、「自分の物」とは一言も言ってなかった。
「あのヤロー……」 ズボンの裾が完全につんつるてんなソレは、明らかに今野のものではなかった。
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