──A区域配給終了。各自、速やかに監房に戻れ。繰り返す、A区域配給終了、各自速やかに監房に戻れ。
施設内に存在する全ての電子時刻盤が「7時」を示す時。A区域の配給終了を告げる放送が流れる。
(よし、みんな行ったな)
残った仲間達をかごの中に全て乗り込ませて程無くした後、エレベーターの電源が一斉に落ちていった。一定時間が過ぎれば、自動的に停止する仕組みになっており、次回の配給が行われるまで決して動かない。 収容者に対する、徹底した脱獄対策だ。 (C区とD区はAより先に終わったから、残りはB区か。厄介だな。また、追ってくるだろうし)
エレベーターが無事に上に辿り着けるかは、後は運次第。仲間には、やれるだけのことはしてやった。
「オレも早く、戻らないと」
この場に一人、シキが留まったのは意図したことであった。 行きは前衛を努めて、最短かつ安全な経路を見出して誘導し、帰りは、仲間を守る囮役の後衛となる。それがシキの能力を見越して、与えられた「役目」であったのだから。
静まり返った内階段をシキはひたすら駆け上がる。水筒と、紙袋をしっかりと腕の中に抱いて。 袋の中身は、パンが四つ、林檎が二つ、水筒には生温かいスープが入っている。受刑者であるシキにとっては、一日に、一度しか貰えない、貴重な配給品だ。
しかし、何段目になるか分からない段差を上がろうとした瞬間、急ぐ足をピタリと止めた。 階段の踊り場に、人の気配が、する。
「ヒャハァッ、待ってたぜェェ! シキぃッ」
現れたのは、シキにとって、顔馴染みの無い少年だった。 おそらく彼は、シキの収容された区域とは異なる区の者だ。本来なら、配給は各区域ごと時間をずらしているので、他区域同士が階段で鉢合わせになることはまず起こりえない。ところが、ある目的を持っている場合は、別である。相手の持つ、食料を奪う為だ。 何しろ、人数分しか用意されてなく、量も決して多くはないのだ。此処に服役する者は全て、成長期真っ只中の少年ばかりである。寧ろ、足りないと感じる者が殆どだろう。
「くそっ」 「いひひひひ、ひひ。もう、逃げらないぜ。さっさとソレを寄越しなァ」
少年は食料の入った紙袋を奪おうと、シキに掴みかかって来た。 下に逃げたくとも、遠くで幾もの足音が聞こえてくるので、まさかおいそれと戻る訳にもいかない。
「誰がっ! 渡すかっ」
下に戻るより、幾分かまだ成算のあるこちらならと、賭けに出ててみたが、
「おっと。往生際が悪いぜぇ、シキ」
狭い足場の中では、十分に抵抗することが叶わず、羽交い締めにされてしまった。
「離せ、離せったら!」
唯一、自由が利く首を後ろに向けると、少年の虚ろな目と一瞬、視線が交わう。 配給場所は日によって区々だと言うのに。一体何時から、こんな場所で一人、待ち伏せていたのかは知らない。けれども、十分な睡眠を取っていないのは火を見るより明らかだ。 呼吸は荒く、目下には深い隈がくっきりと刻まれている。 にも関わらず、この有り余る位の馬鹿力は、もしかすると。
「ふひひ、ッヒヒヒヒ」
小刻みに肩を震わせながら、少年は喉を鳴らす。握り締めた拳の中から覗く彼の指先を目にして、シキは顔を顰めた。
監房の壁か何かを何度も引っ掻いたのだろう。爪の大半が歪な形に削れ、膿んでしまっていたのだ。
施設内で、内服薬が流失することは、何も今に始まったことではない。 医務室に忍び込み、鎮痛剤や精神安定剤、眠気覚まし用の興奮剤など様々な薬をくすね、金品と引き換えに他者に横流しをしているのだ。 薬を過剰に摂取、又は混ぜて服用すれば、その危険度は非合法薬と、何ら大差ない。僅かな快楽と、安堵、高揚感を引き換えに、服用者は副作用を伴う。 吐き気や、頭痛を催す程度ならまだいい。酷ければ、幻覚、ヒステリー状態に陥る。 目の焦点すら、合っていないこの少年は完全に後者、薬物中毒者だ。
「早く、寄越せって、ってんだよぉっ!」
痺れを切らした少年は紙袋を鷲掴みすると、乱暴に引いてきた。 脆い袋は、瞬く間に悲鳴をあげて裂けていく。このままいけば、破れてしまうのは、時間の問題だろう。
(やるなら、今しかない)
シキは覚悟を決めると、
「ごめんっ」
一瞬の隙をついて、背後に居る相手の鳩尾に、肘鉄を食らわした。 不意をつかれた少年は、体を蹌踉めかせるが、それでも狭い足場から落ちまいと、すさまじい形相で、シキの肩に目掛けて手を伸ばしてきた。 伸ばされたその腕をシキ自らが、掴みとってやると。目一杯、手前に引いて、離した。
「ぎゃ、ああああああ!」
幾多に重なる段差を転げ落ちていく音と共に、次第に小さくなっていく少年の奇声。 それを最後まで聞き入ることなく、踵を返すと、再び階段を三段飛ばしで駆け上がっていった。
暫くして、漸く目的地であった36階の踊り場に、シキは到着した。 「A区域」と赤い字でペイントされたドア。 このドアから先に踏み込めば、「自分の陣地」だ。
(大丈夫だ。オレの足なら逃げ切れる)
銀製の取っ手を掴むと、シキはそのドアを開け放った。
「急げっ。檻に戻られたら間に合わなくなるぞ」 「絶対に逃すな、足だ! 足を潰せッ」
ここまで来ると、彼らも必死になって襲い掛かってくる。 何も得ずにエモノを巣に返してしまえば、これまでの苦労が全て水の泡となってしまうから。
何処で見つけてきたのか、廃材や鉄パイプを振り回す輩までいる。まともに食らえば、ひとたまりもない。
「わあああっ!」
奥の方で、幾つかの、悲鳴があがった。同じ区域の、逃げそびれた子だろう。 A区域内に先回り出来る抜け道など幾らでも、存在する。例え一番手であっても、グズグズしていたら、あっという間に他に出し抜かれてしまう。収容期間のある程度長い、強かな古参者であれば、あらゆる手づるがあるのだ。それは何も「子ども」だけに限った話ではない。収容された子供が唯一接触出来る大人、「看守」から貴重な情報を得ようと、手段を選ばぬ者もいる。
複数の笑い声と共に、床に転がった缶詰めの音が響く。 少なくとも、後ろの追っ手と同時に、相手に出来る人数じゃない。 折角、ここまで来たのに。 シキは唇を噛み、腕の中の紙袋を握りしめた。 責めて、連中に袋叩きにされるのだけは避けたい。数日間、まともに動けなくなるのは二度と、ごめんだ。 だが、たった二人分の食料だけで、果たして、彼らは見逃してくれるだろうか。限り無くゼロに等しい望みだと、シキにも分かっていた。
「捕まえた!」
呆然と立ち尽くしているうちに、背後から追っ手の少年に腕を取られた。
「ハンっ。流石に、もう逃げられないぞ」 「う、」 「ここまで時間食わせてくれたお礼、たーっぷりしてやるからな」
躊躇いのない膝蹴りが、シキの腹部にめり込む。
「ぐ、ぅっ」
重い一撃をまともに食らい、受け身も満足にとれぬまま、シキの体は、床に吹き飛ばされた。瞬く間に持っていた紙袋は奪われ、複数の少年達によって囲まれてしまった。
「どうするよ、コイツ」
少年の中の一人が、項垂れるシキを見下ろしながら言った。
「とりあえず、殴っとく?」 「慌てんなって。ここら一帯は監房の目と鼻先だぞ? あんま騒ぐと見回りしてる看守に気付かれちまう。直ぐ近くにA地区の、リネン室あったろ。そこに連れてこうぜ」 「おいおい、ナニする気だよお前」 「ナニって、決まってんだろ。コイツ、階段でヨータを突き飛ばしやがったんだ。ただ、ボコるだけじゃ腹の虫がおさまんねー」 少年は、シキの胸ぐらを掴み、無理矢理顔を上げさせる。
「二度と生意気な真似、出来ねぇよう、こいつの身体に教え込んでやるんだよ」 「うわぁ、悪趣味だねお前」 「オレ、全然オッケーかも。A地区の赤髪って言えばあの“ルート”の同室じゃん。結構前から興味あったんだよね」 「だろ。ルートには劣るけど、よく見りゃ、こいつもなかなか見れる顔じゃね?」 頬を撫でながら、シキにとって、全く嬉しくない賞賛をした。
「へへっ、おい。順番だからな」 「分かってるって」 獣じみた目で見つめる彼らの意図が読めないほど、シキは初心ではない。 強引に服を託しあげられて、隙間から無遠慮入り込んできた、他人の掌。己の腹を這い回る指先。身の毛もよだつ程の、嫌悪感に襲われた。
「やめろっ、触んなっ! 離せ、この変態野郎っ!」
必死に手足をばたつかして、抵抗するが、 「暴れても、ムダムダ。覚悟しろよ」
多勢に無勢であり、他の少年二人によって、身体を抑え込まれてしまった。更には、助けを呼べぬよう、手で口を覆い塞がれてしまう。
「ドアは押さえといてやるから、お前らはソイツを奥に運べよ」 急かしながら少年がそう促すと、ガチャリ、と無機質なドアノブを回す音がシキの鼓膜の奥で響いた。 そのまま二人がかりで担ぎ込まれていく。ドアの先にある、闇の中へと。
(嫌だ、誰か……!)
「おーい、お前ら引き上げるぞー」
一直線だった地獄への坂道を遮ったのは、全く持って緊張感のない、間延びした男の声であった。
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