□ 序章:[ 宝物 ] 第一章:[     ]
第二章:[    ]



 高い天井。微かに漂う、消毒薬の臭い。白一色に統一された空間。
 内装だけを見て、例えるならば、その場所は医療施設、に当てはまるかも知れない。
 しかし実際は、人を癒やすとは到底言い難い行為がこの施設で行われていたのだ。
 床には割れたアンプルが散乱し、天井には夥しい数の監視カメラが備え付けられている。そして今もなお、一直線に渡り廊下を歩く二つの人影を鮮明に。
 その威圧的なレンズは映し出していた……──

 はっきり言って、その少年、シキに自由など無かった。一般常識と言語以外の記憶が一切無いからだ。
 本当の名前すら分からない。シキという名前は即興で付けた仮の名だった。
 廊下に散らばる鏡の破片から、二週間ぶりに対面した自分は、殆ど変わっていない。服は、連れて来られた時から着ていたものと同じ。首元が大きく開いた紫苑色の、長袖シャツに、灰色のジーンズ。しかし上下共々、所々が破れており、服として機能していない。
 記憶を無くしたことは、ある意味自由なのではないかという捉え方もあるかも知れない。
 しかし、辛い過去から逃れたいが為に、自らの意志で、全てを忘れたなら未だしも。意図的に他人から奪われた場合では訳が違う。
 自由が無い、それは身体的にも同じことが言えた。首には頑丈な首輪、そして鎖が括り付けられている。それを隣を歩く白衣を纏った男の手によって文字通り、自由を握られていた。
 連れ出される前に、男から散々暴行を受けたのだが、手当ても満足に施されなかった。そのせいで、傷口から血が止処無く溢れ、足の指を伝う。床上をシキの髪と同じ、紅色に点々と染め上げていく。
 人為的に引き裂かれた服の隙間から覗く右肩に焼き刻まれた烙印。

 『E・0117』

 それが、シキの正式名称だった。
 廊下の最奥に辿り着くと、鈍い光を放つスライド式の鉄扉が待ち構えていた。
 男が壁にあるパネルに触れると、左右に扉が開かれる。現れたのは広大無辺に広がるホールだ。
 廊下とは一変した目映い照明に、思わずシキは顔を顰めた。
 目を慣らそうと、褐色の瞳を瞬きさせる。やがて、ぼんやりと浮かんできたのはホール全体にも及ぶ、巨大な円柱状の硝子ケースだった。
「来い」

 男はそう命令すると、ケースに沿って歩を進め始めた。
 重厚な硝子で、十字に仕切られ、四つの小部屋がぐるりと連なっている。その中に、それぞれ年齢が異なる少年が二人ずつ佇んでいた。精気のない、虚ろな眼をこちらに向けながら。
 もし、ここに留まり続けていたら、何れは自分もあんな風に。
 そんな不安が脳裏を掠め、慌てて誤魔化すように頭を振った。
 歩いているうちに、各小部屋ごとにある出入り口を遮断するシャッターが、一カ所だけ、上げられていることにシキは気が付いた。
 多分、あそこが自分の新しい部屋なのだろう。同室者は誰なのか。視線を泳がせていると、部屋の隅で、一人蹲る少年と、硝子越しで目が合った。

「あの子、は……」

 切り揃えられた深緑の髪に、山吹色の瞳を携えた、幼い少年。
 黄緑がかった開襟シャツを着ていて、首元には赤色のネクタイをしている。脚には四分丈の黒ズボンを纏っており、同色のサスペンダーで留め、皮靴を履いていた。
 顔に見覚えは無いが、噂が確かであるならば、間違いない。ここで最年少に当たる子だということをシキは知っていた。

「おい、どうした? 百十七番。そんな浮かない顔をして」
 シャッターが上げられた部屋の前に立つと、男は言った。

「折角、Vの共犯でもある貴様だけは特別に隔離区域行きにしてやったんだんだぞ。もっと嬉しそうにしたらどうだ」

 嘲りは、シキの耳には届いていなかった。彼の意識は無表情のままでいる断髪の少年に向けられていたのだ。

 見たところ、六、七歳くらいにしか見えない。
 この区域に隔離された子供は必ず刑罰を下されている。
 つまりこの少年も、過去にシキと同じく拷問紛いな行為を受けたということになるのだ。
 何故、無抵抗な子どもをいたぶり続けるのかは知らない。分かるのは、彼らに慈悲心など無いということだけだ。
 それは嫌という程、シキは身を持って知らされてきたのだから。
 一体いつまで、自分達は生き地獄を味わされ続けるのか。

(オレは、シキ。今日から一緒の部屋だ。ちなみに絶対にここから脱出しようって考えてる)

 自分との境遇が重なり、堪えきれずに、シキは少年に向けて胸中を吐き出した。

(良かったら……君にも協力して欲しいんだ)

 硝子越しの少年は口元を僅かに動かすと、「無理だよ」とシキ同様に音の無い言葉を返した。

「聞いてるのか」

 突然の声に、はっとして振り返れば、男は眉間に深い皺を寄せていた。何も応えないシキに、気分を悪くしたようだ。小さく舌打ちをし、乱暴に鎖を引かれる。

「うぐっ!」

 勿論、両手を拘束されているシキに、受け身など取れるはずもない。容赦なく透明な床に叩き付けられた。
 危うく窒息し掛けたが、鎖が男から手放されたことにより、何とか難を逃れる。荒く咳込みながらも、負けじと前を見据えた。

「貴様の房は今日からそこだ。二度と出られると思うなよ……この、人殺しが」

 男はそう吐き捨てると、足早に房から離れて行き、外側に備え付けられた開閉スイッチを押す。
 瞬時に、分厚いシャッターが下ろされ、ロックが完全に掛かったという合図の電子音が虚しく響いた。

 ヒトゴロシ。
 それが、シキに与えられた罪名であった。

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