ナナシは、床にうずくまるトヲイを見遣った。
「う、ううう」
息苦しいのだろう。胸を強く押さえながら、荒い呼吸を繰り返している。
「なんで……──」
自分達を助けたとしても、トヲイには何の利点も無いだろう。況しては、危険を犯してまで、意識がない人間二人を介抱するなど。
(やっぱり、見えない)
ナナシの目は、ナナシ自身に対して、僅かでも疑心があれば、人の感情を色で、読み取ることが出来た。怒りは、赤。脅えは青、といった風に。 けれど、トヲイからは、何も見えることはなかった。 ナナシの力を以ってしても、彼の心を見透すことは出来なかった。 それは人を疑う、ということを知らない位、彼が純粋であったせいかも知れない。
「酷い汗だよ……」
ナナシはネクタイを抜き取り、玉の汗を滲ませていたトヲイの額を拭った。 本来なら、看守の目を掻い潜って、他者の牢に侵入することなど、不可能だ。しかし、この少年は。トヲイは別であった。 声と足。人が生きていくうちには、大切なモノを彼はエルフに奪われた。その代わり、看守さえ恐れるほどの、強大な力を得ていたのだ。 警報が鳴ったというのに、看守達がこちらにやって来る気配は一向にない。恐らく、これも、トヲイの仕業なのだろう。
「力を、使ったんだね?」
トヲイは俯いたままだった。しかし、痙攣したままの手を見る限り、間違い無いようだ。
「どうして」
ナナシは窘めるように、言った。
「君は僕らの中でも特殊なんだよ。力を使った後の反動だって、並大抵のモノじゃないはずだ」 「うぅ、あ……ああ」 「何とか看守には気付かれなかったようだけど」
ナナシは隣の房へとめくばせする。
「他には、確実にバレたよ」
分厚い特殊な硝子で仕切られている為、部屋の内側からでは、周りは何も見えない。それでも、両隣に、人は存在する。 隔離区域は一般区と比べて少人数な為、勢力争いというものが無い。その代わり、仲間意識という観念が存在しない。皆、独善的な考えを持つ者ばかりだ。 例え、同室者が自分の目の前で倒れようが、平気で放置する。そんな連中だ。 唯一、区域の特色に毒されていない少年。それが、エルフに来てから、まだ日の浅い、トヲイであった。 この不祥事がバレた場合、「検査」が行われる。この区域に居る者、全てを対象に。 いくら他人に関心が無い彼らでも。他人の失態によって、とばっちりを食わされれば、考えを改めざるを得なくなるだろう。
(黙って、くれればいいのだけど)
彼らだって、馬鹿ではないので、看守に直接漏らすなどという、無謀なことはしない。 けれども、易々と見過ごしてはくれるほど、お人好しではないのだ。 黙っている代わりに、何かしらの見返りを要求してくるはずだろう。
(どうするの、トヲイ)
出ない声の代わりに、力無くトヲイは笑う。大丈夫だと。精一杯の強がりは、見ているだけでも痛々しかった。 どちらかといえば、下手な争いを好まない、大人しい少年であった。 事が露見すれば、只ではすまされないことは、彼だって十分解りきっているはず。 トヲイは無意味なことをする少年ではない。 今回のことは彼なりに、理由があったのだ。気弱な彼に、ここまでさせるほどの誘因が。 それがトヲイにとっての、最大の弱点になりうるのだとも知らずに。
▲ main |