121:アナタハ
移動手段は徒歩のみで、鬼回避のために夜は人気のない場所に行かないように努め、宿に宿泊。それらに私の底辺体力や鈍足を考慮したとしても、《柱の人がいるかもしれない土地》は、1週間程歩けば辿り着く距離にあった。
途中、峠や山道はいくつもあるけれど、甲州街道に沿って歩いて行くので、そう難しい道筋でもない。今までの事を考えればあっという間の旅路だろう。
けれど私の本来の一番の目的は《炭治郎君と禰豆子ちゃんと再会すること》。
もしかしたら行く道すがらの町や村にいるかもしれない。二人に気付かず通り過ぎてしまうのが一番悲惨だと思った私は、甲州街道沿いの町や村を探しながら進んだ。
そうして八王子の町を出発した17日後の6月17日、事件は起こった。
甲州街道から少し外れた小さな村。人口100人にも満たない村は、稲作が盛んなのか家屋より田んぼが多く、また住む人たちも40〜50過ぎた年齢の方々が半数以上を占めていた。
これから先の道は人気のない山道がしばらく続く。時刻も日暮れ間近に迫っており宿を探し歩くも、田んぼと家屋以外に何もない村。もちろん宿があるわけもなく、途方に暮れながら、危険だけれど野宿かな、と背の小さい緑の稲をぼんやり眺めていると、不思議に思った老夫婦が声をかけてきた。
訳を話せば老夫婦は眉を下げ「まあ可哀そうに。狭い家だけど、それでもよければ」とご自宅に一晩泊めてもらえる事となった。
お金は払います。と申し出れば老夫婦は「遠慮しないで。久しぶりのお客様に私達も楽しいから」とお金を受け取ってもらえなかったどころか、夕飯や明日の朝ご飯、日持ちする保存食やお古の着物、旅路に役立ちそうな小物等を頂いてしまった。老夫婦のあたたかさとご厚意に涙目になりながら何度もお礼をすれば、「いいのよ。年寄りはお節介したいものなのよ」と嬉しそうに笑っていた。
居間を借り、客用の布団で眠りについてどれほど時間がたったか、ある時ふと目が覚めた。突き出し窓から見える空はまだ暗く、月や星も見える。
布団に横になったまま夜空を眺め、しばらくした頃。ふいに喉の乾きを覚えた。隣部屋の老夫婦を起こさないように静かに立ち上がり水を頂こうとした時、遠くの方から、虫の鳴き声にかき消されてしまいそうなほどの小さな悲鳴が聞こえてきた。
突然耳が拾った不安と緊張を生じさせた音に、情報処理が追い付かず「え?」と身体が固まってしまう。音の正体を突き止めようと本能が勝手に、全意識を耳に集中させる。現状把握の出来ない暗闇の中、待つこと数十秒。遠いけれど、はっきりと聞こえた2回目の音は、恐怖一色に染まった女性の悲鳴だった。
女性の悲鳴。
自覚した瞬間、何が起こっているのか分からない恐怖を感じながらも、身体は瞬時に硬直状態を解き、外に続く戸を強く引いた。
真夜中で暗く、周囲の山は木々が生い茂り視界も悪いはずなのに、どうしてだか、一目である一点に目がいった。対角線上から少しずれた先にある、山道への入り口に、二つの影があった。先を走るのは恰幅の良い女性の姿。腰を抜かしながら縺れるように走る女性を追いかけるのは、細身の男。月の光が形作る男の姿は人間そのものだったけれど、両腕だけは異常な形をしていた。草切鎌のような、いや、前、竹雄くんに見せてもらった事がある、虫のカマキリの手に似たような形。
「鬼、だ……」
あれは、鬼に襲われ逃げる女性だ。
そう思っている間に、二人は山道の方へと消えていった。
「た、助けなきゃ…」
と思うのと同時に、怖い、行きたくないという逃げの感情も浮かんでくる。きっと時間にしたら、1秒程。頭に浮かぶ何百もの迷いの言葉を意図的に振り払った時にはすでに、自身の身体は駆けだしていた。
走りながら、私は自分の愚かさに絶望していた。自分の事ばかりで大事な事を見逃していた。鬼に襲われたり殺されたりするのは私ばかりではない。他の人だって襲われる可能性がある事になぜ気付かなかったのか。三郎さんだって家族を殺されたと言っていたではないか。
鬼を倒す力があるのに、死にたくない殺したくないと迷って鬼から逃げたとしても、鬼はその後私以外の誰かを襲ってしまうかもしれない。沢山の人を殺してしまうかもしれない。私や炭治郎君、禰豆子ちゃんと同じように、大切な人を奪われ悲しみに暮れる人が生まれてしまうかもしれないのに。
善逸くんに出会う前に遭遇した、あの鬼の女の子……花子って子も、もしかしたら、今もどこかで誰かを傷つけているかもしれない。誰かを殺してしまっているかもしれない。それに…
(もし、あの後……。花子って鬼の子が炭治郎君や禰豆子ちゃんを襲っていたら…?)
想像しただけで、恐怖から身体中の血の気が引き、自分の愚かさに吐き気がした。
どうして私はそんな単純な事を忘れていたのだろうか。自分の事に精一杯だったからなんて言い訳は許されない。
爪が食い込むくらいに両手を握り締め、苦悶の表情のまま前を力強く睨みつけ、出せる全速力で女性と鬼が消えた方角に向けて走り出した。
全力疾走した時の喉と脇腹の痛みを感じながら、声のする方へ向かえば、座り込こんで頭を抱え叫ぶ女性をカマキリみたいな鬼が切りつけようとする瞬間だった。
「あ、だっ、だめーーー!」
お腹に力を入れながら叫び、左腕を思いっきり振りかぶってカマキリ鬼の背中に力の限りぶつけた。拳が背中に届いた直後、何百分の一秒の静寂の後に、衝撃破に似た渦巻く風圧を生み出した。左手が身体を貫通する事はなかったれど、骨の砕ける音と感触が左手に伝わる。
不意打ちを喰らったカマキリ鬼は、木々をなぎ倒しながら、数メートル先の木で止まり、そのまま力なくうつ伏せに倒れた。
数秒見ていたけれど鬼はピクリとも動かない。この隙に女性を逃がさなければと、勢いよく振り返る。
「大丈夫ですか?!怪我…は……、…」
言葉が途中で詰まってしまったのは、女性の顔に見覚えがあったから。
「…あなたは、」
その女性は恰幅のよい中年女性だった。着物の上から割烹着を着ておりいかにも料理屋の女将といった雰囲気で…。
「ちょっとあんたさっきから、うちの店の前で一体なんなんだい?!」
「うちはね、敷居ある料理屋なんだよ!あんたみたいな放浪者がいていい場所じゃないんだよ!」
「図々しいね!ものごいかい?!」
「言っとけど、あんたにあげる飯なんてないよ!残飯でも勿体ないわ!!」
「さっさと、どいた!どいた!これからお得意様がお越しになるんだよ!それに、あんたね‥‥‥臭いんだよ!」
「宝来さん、こんな素足さらした女は録な子じゃないよ!それに、鼻がひん曲がりそうな程臭いんだよ!」
思い出された辛かった出来事が、答えを容易に導きだす。
目の前の女性は、私が初めて東の町に落ちた時に、呆然とする私を罵倒した人だった。
随分前に、1回目は数分、2回目は数秒すれ違っただけなのに、嫌な思い出とは記憶に染みついて離れにくいものなのだろう。意外な場面で掘り起こされた記憶に言葉が詰まってしまったれど、女性の血のにじむ肩の裂傷を見て、はっとする。
「……、立てますか?ここは、危険なので逃げましょう」
左手を差し伸べると、女性はよろめきながらもなんとか立ち上がり、そして共に駆けだした。
この女性を村に避難させた後、なんとかして鬼が村に行かないようにしなければ。
まだ、死にたくないし、殺すのも怖い。矛盾も、逃げ出したい気持ちも消えたわけではないけど、今はそんな事を言っている時ではない。なんとかこの人を救い、村に被害が出ないようにしなければ。
「…ちょ、ちょっと待っとくれ」
見た目以上の出血だったのか、女性は青白い顔でふらりと倒れた。鬼の追跡も気になるけれど、まずは止血をしないと不味そうだと判断し、近くフジの花の幹に女性を寄りかからせ休ませる。自身の着物袖部分を裂き、出血部分に強めに巻き付け、女性の額の汗を拭き取った。
「もう少しだけ頑張れますか?あと少しで村に着きます。早くしないと鬼が…」
「あ、あんたは…」
「人間、よくもやってくれたなぁ…!」
「「!!」」
殺気のこもった声に振り向くと、すぐ近くにカマキリ鬼が立っていた。
「痛かったじゃないかぁ!あぁ?!」
改めて真正面から見たカマキリ鬼は、まさにカマキリといった風貌だった。顎が細く血走った目は昆虫の様にギョロりとしている。骨と皮しかない細い体、カマキリの様に長く折れ曲がった両手は鋭く尖っている。
「今すぐ殺してやる!!」
「ひぃいい!!助けとくれ!!」
牙を見せ怒鳴るカマキリ鬼から守るように女性を背に庇い、暴れだしそうな心臓と震えを、呼吸を整えながら落ち着かせ、いつ襲われてもいいように左手を構えた。
「まとめて喰ってやる!!!」
けれど、カマキリ鬼は殺す喰うと言う割に実際には襲ってこなかった。いや、むしろ《こちら側に近寄れないようにも見える》。
なぜ?と視線だけ動かし、周辺を見渡すも特別な物は何もない。私と、女性と、沢山の木々、月と星、そして真後ろのフジの花だけ。
(……あれ?…フジの花)
初めて東の町に落ちた時に出会った女性に記憶が刺激されたのか、同じようなシチュエーションだったからなのかは分からないけど、東の町で起きた事を瞬間的に思い出していた。
私が初めての東の町に落ちた時に、当時は気の狂った人間と思い込んでいた鬼に襲われ、生死の境をさ迷った。そして、炭治郎君に救わた。でも、その間に一つだけ、今も解明出来ていない不思議な事があった。季節外れに咲く、真冬のフジの花。後にそのフジの花は私が無意識に咲かせたと気付いたけれど、フジの花にもたれ掛かっていた時は、鬼は襲って来なかった。私とフジの花から一定の距離を取り、周りをぐるぐると回って、手を伸ばし地団駄を踏み叫ぶだけ。まるで透明な壁に阻まれているかのように……。
(もしかして、鬼は、フジの花に近づけない…の?)
この推測が正しければ、ここに朝まで居れば私達は助かるかもしれないが夜明けまでの数時間、女性は持つだろうか。巻き付けた包帯代わりの切れ端はすでに半分以上血で濡れているし、もし無意識に《フジの花を枯らせてしまったら》女性をより危険にさらしてしまう。守りながら戦える実力なんてない。
それになにより、朝までここで待ち無事に逃げれたとしても、鬼はその後もまたどこかで誰かを害するだろう。それは何処かにいる炭治郎君と禰豆子ちゃんになるかもしれない。
「私が……あの、鬼を引き付けます」
何かいい案が思い付いた訳でも、矛盾を昇華し決意した訳でも、恐怖がなくなった訳でもないけど、私の口は半ば無意識に言葉を紡いでいた。
顔だけ女性の方に向けると、女性は私を見上げ目を見開く。
「なるべく遠くまで鬼を引き付けるので、見えなくなってしばらくしたら、辛いかもしれませんが村に向かってください。山道の終わりはすぐそこです。山道を出て真っ直ぐ前を向くと、対角線上の少しずれた先に、藁が沢山積まれた家があります。そこに住む方は優しいご夫婦なので、きっと手当をしてくれます」
なるべく安心させるように、月を背に小さく微笑むけれど、緊張から頬が引きつり歪になる。
「あんた、もしかして、あの時の……」
女性が何かに気付いたように呟いた。
「鬼は、フジの花には近づけないみたいです。もし鬼に襲われそうになったらフジの花へ逃げて下さい」
山道から逸れた所や村の隅にもいくつかのフジの花を見た、鬼は朝日で死んでしまうと続けて話す。そして再度鬼に向かい合い、震える身体で鬼を挑発するように睨んだ後、森の奥に向かって走り出せば、鬼は釣られた魚のように後を追いかけてきた。
関連話 5・6・56・57