6:ただ、生きたい
無意識に暗闇の方向へ逃げていたせいか、奥に入り込みすぎて、家屋や人の気配が全くない場所まで来てしまっていた。森の入り口と下町の末端の中間のような場所で、光源は月の自然光のみ。
後ろを振り返ればずいぶん遠くに人工的な明かりが見えた。
「……寒い、疲れた…。もう、…だ、め」
身体が限界だと悲鳴を上げ、その場に崩れ落ちる。地面にごつりとぶつけた頭に痛みが走ったけれど、撫でる動作すら億劫で、仰向けの体制のまま意味もなく月を見上げていた。
「……チ」
どれくらい経ったか。ふと、腐ったような臭いと、濁った声が聞こえてきた。
「マ…チ……マ」
臭いがきつくなると同時に、声も徐々に大きくなる。
「レ……レチマ………レチ!」
臭いがムワッと強くなった瞬間、身体を強く掴まれた。そして、月の代わりに視界を占領したのは、鋭い牙を持ち、血走る目を持つ化け物じみた人間の男。
それなのに、私の口から出たのは、随分と落ちついた声だった。
「……レチマ?ってなに?」
「これであの方に認めてもらえる!」
「…あの方って?」
「喰う!喰う!」
「食べる?…殺すってこと?」
「マレチ!オレは運がいい!!」
会話が通じないけど、どうでもいいや。もう、疲れて一歩も動けないし、お腹空いたし、喉も乾いた。家に帰りたいだけなのに、なんであんな酷い目にあわなきゃいけないの。私は悪い事何もしてないのに。
意味のわからない状況に、人の悪意に、肉体的精神的苦痛に、疲れた。
きっと死ねば、全てから解放され、私の居場所に帰れるはず。そう信じて、顔に落ちる涎をそのままに、目を瞑り静かに死を待つ。
「…痛くしないなら殺していいよ」
「マレチ!!!」
首筋に経験したことのない衝撃と熱を感じた。衝撃と熱は瞬時に激しい痛みに代わる。
「…え、いたい、痛い、痛いよっ…!!」
動力の切れた身体と、導線の切れた感情が、痛みの刺激により一瞬で復活しシナプスを刺激する。
(なにこれなにこれ!!痛くて苦しくて、『死んでしまいそう!』)
「っやだ!いやっ!!やめて!」
首筋に噛みつく男を引き剥がそうとするけれど、力強くて離れない。それどころか噛みつく力が上がり、今にも首ごと食いちぎられそうだ。
「っうぁ!い、痛い!死んじゃう!」
ぐちゅりと音がし、指先に生暖かく気持ち悪い感触がした。
「ぐわぁ!!」
死に物狂いで暴れたせいか、偶然私の爪が男の目に突き刺さった。男は私から離れ、潰れた目を押さえ悶えだす。その隙にと、必死で男の下から這いずりでて走り出した。
「はぁっ、はぁっ、痛い、恐い、恐いよ、やだ」
逃げながら一番強く頭に浮かんだ言葉は《死にたくない》。
(やっぱり、私、死にたくなんてない!!痛いのは嫌!帰りたいけど、やっぱり死にたくなんてない!生きたい!生きて帰りたい!)
あれほど諦めていた生が、どうでもいいと思った命が、強烈な死を目前にして息を吹き返す。
「クソッ!!待て!!」
「っっっ!!!!!」
首筋を押さえながら必死に走っていたけど、すでにボロボロな身体。あっという間に追い付かれ、何か鋭いモノに背中を切りつけられた。
その衝撃で身体は転がり、数メートル先の木にぶつかり止まる。
焼けつくような背中から血が流れ落ちていくのが分かったけれど、呼吸が苦しくて、首が痛くて蹲ることしかできない。
「…はぁ、はぁ、…はぁっ」
速く逃げなければと思うのに、痛みで身体が言うことを聞いてくれない。呼吸をするだけで酷く苦しい。もしかしたら肋骨が折れているのかもしれない。せめてもと、次の衝撃にそなえて身体を縮こませた。けれど、待てども衝撃はこない。
恐る恐る男の方に顔を向けると、悔しそうに顔を歪め叫んでいる。
「クソッ!コッチに来い!!喰ってやる!!!」
男はなぜか、これ以上先に進んで来ようとはしない。いや、来れないのだろう。私のいる場所から一定の距離を取り、周りをぐるぐると回って、手を伸ばし地団駄を踏み叫ぶだけ。まるで何か透明な壁でもあるようだ。
欲しいものが手に入らなくて、ごねる子供のように暴れて続けている。
「クソッ!クソッ!あと少しなのに!!」
特別変わった物があるとは思えない。ただの森の入り口のようにしか見えない。
……あえていうなら、私がもたれ掛かる木が、フジの花を咲かせた木と言うことぐらいだ。
辺りを見渡してもフジの花が咲いているのはこの一本のみ。なぜこの寒さの中、フジの花が咲いているのか。なぜ男が近寄ってこれないのか。色々わからない事ばかりだったけど、一先ず助かった事だけは分かった。
「血、止めないと……」
自分を落ち着かせるようにゆっくりと呼吸をしながら、痛みと恐怖に震える手でセーラー服のスカーフを外して首筋に当て片方の靴下で巻き付けた。背中はどうしようもないので、スカートを脱ぎ背中と木の間に挟み、止血するように強めにもたれ掛かる。
応急処置が終わってからは、いつでも逃げれるように男を警戒しながら見張っていたけれど、流血しすぎたのかいつの間にか意識を失っていた。