彼が猫になっちゃった! 物音で目が覚めた。
何の音だったのか判然としないまま、薄く開けた目に飛び込んできたのは鮮やかな緑色。思い出せばキッチンで夜を明かして呑み合ったのだ。
「ゾロ…?」
その相手の名を呼べば不機嫌か或いは眠たげな声が返ってくるはずだったのだけれども、予想に反して耳に届いたのは男の声ではなかった。
にゃあ。
ナミは音がしそうな激しさで瞬きを数回繰り返してからテーブルの上のものを確認した。
陸ならばどこかから這入り込んだのだと思うが、此所は大海原に浮かぶ船の中のキッチンだ。テーブルの上なんかにそんなものがいるはずがない。思いながらもナミの目はそれを確り捕えている。
テーブルの上で警戒した様な目を向ける、腹巻きをした、緑色の――猫。
「…ゾロ?」
有り得ない、と思うと同時にここはグランドラインだ、と何かが主張する。『有り得ない』事は有り得ない、けれど、ならば何故。
ぐるぐると思考の迷走を始めたナミの耳に、階下の扉の開閉の音が聞こえた。
扉を開けて階下を歩くのは倉庫に誰かが這入ったからだ。女部屋から出て来たのでは無い。
船にいる男達にしては軽い足音と規則正しい歩き方で、朝の早い料理人だと悟る。
まずい。このままではサンジに見られてしまう。
ナミは肩から滑り落ちた毛布で猫を包むと両腕で抱えてキッチンを出る。急いで階段を駆け降りて、前甲板から倉庫に入って行く小さな人影を見て足を止めた。
あの小ささは恐らくチョッパーだ。医者。治せるのかしら。
「おーナミ、早いなー」
倉庫か医者か逡巡していると見張り台から降って来た声に肩が波立つ。目を擦りながら声を掛けたウソップに、まぁねと愛想笑いを返して女部屋に続く倉庫の扉に手を掛けた。
「おはようナミさん」
跳ね上げ扉から顔を覗かせたビビがにこりと言う。
「起きたら部屋にいなかったからびっくりしたわ」
「あ、うん、昨日は飲んで……」
女部屋にはビビとカルーがいる。浴室はユニットバスだからいつ誰が入るかわからない。心許無いがミカン畑に避難だ。
ナミは決断すると、朝の挨拶を交わすビビとウソップの視線を掻い潜り、足早にミカン畑に着くとどうやらキッチンに辿り着いたらしい料理人の片付けて行けクソマリモという怒号が響いた。ごめんねサンジくん、と心の中で詫びつつ、みかんの木陰に毛布を下ろす。夢だったのかも知れないと逡巡しながらゆっくりと毛布を捲ると、そこにはやはり緑色の猫がいた。
「…ゾロ…なの?」
声を掛けると、猫は欠伸をしてから毛布の中に潜り込む。
「ナミ!?」
蹄が床を鳴らす音とほぼ同時に上擦ったような声が掛けられた。
「チョ、チョッパー!? なに!?」
「なっなんでもないんだ!」
毛布を背後に隠しながらチョッパーに振り返って問い返すと、既にチョッパーは逃げる様に走り去っていた。
「腹減った〜!島は見えたか!? おはよう!」
チョッパーと入れ替わりにルフィの声が響き渡り、まだだとウソップが返したが空腹の船長は聞きもせずキッチンに駆け上がりざま蹴り飛ばされていた。
「いいわねここにいるのよ!動くんじゃないわよ!」
猫相手に言い置いて、急いでキッチンの片付けに戻ろうとしたナミの背後からルフィの叫び声が木霊した。
「うわっなんだこいつ!」
どうやら階段を使わずにルフィがみかんの木まで辿り着いたらしい。
慌ててナミが戻ると猫はルフィにがっちり捕まえられていた。
「ゾロっ」
ひったくる様に奪い返してから、しまったと思う。
「ゾロ?」
「なっなんでもないわ!」
猫を腕で抱えてルフィから全身で庇うように言うナミの言葉を無視して、きょとんとしていたルフィは猫を見て、あ!と声を上げた。
「本当だ!ゾロだっ」
ルフィは顔中で愉快だと表現しながら腕を延ばしてくる。ナミは片手でその腕を振り払うがゴムの腕は弾力があってあまり手応えは無い。
「ちょっと、違うわよ!触んないでよ!」
「いいじゃねぇかよ〜。おれが先に見つけたんだぞっ?」
「ゾロは私のよ!!」
この船のものは全部おれのもんだ、と主張して力尽くで猫を奪おうとするルフィの腕に容赦無く爪を立てて捻り、ナミはルフィに背を向けて走り出したが、いつの間にか誰かが目の前に立っていて避けきれずにぶつかってよろめいた。
「おれがなんだって?」
ぶつけた肩も痛いが、聞こえた声にナミは目を瞠って、倒れない様に自分の肩を支えるその男の名前を呼ぶ。
「ゾロ!?」
「その猫ゾロだろ!」
ルフィは歯を見せて笑いながらナミの腕の中を指差す。ゾロは片眉を跳ね上げて、一度だけ猫に目を落とした。
「あァ?何言ってんだ。チョッパー!こいつか?」
「あああ〜!いたぁぁ〜〜!」
ゾロが後ろを振り返り呼ぶと、涙目の船医が両手を前に突き出して駆け寄って来た。その後を王女と従者の鳥が附いて現れ、安堵の顔を見せる。
猫はゾロの腕を経てチョッパーに手渡され、見張り台から降りてきたウソップも加わりキッチンに入ればコックは人語を解さない獣に煙草の端を苦く噛んだ。
船医曰く、心ない人間にペンキをかけられ刃物で切り付けられた猫が逃げ込んだ先が海賊船で、出港してしまったその船には獣の言葉を理解する船医が新しく仲間に加わっていた。
医者は、猫に手当てをして包帯代わりに狙撃主から貰ったリストバンドを腹に巻いてやったけれども、新入りの遠慮があって船長たちに事実を報告出来ずにいたのだった。
「ごめん…勝手なことして、怒られると思ったんだ…」
トナカイは自分に集中する視線に小さな体をさらに縮こめて言った。
「水臭い事言うんじゃねぇよ、非常食のくせに」
コックは呆れたように呟きシンクに煙草を押しつけた。
「そうだぞなんで隠してたんだ!」
「だから怒られると思ったんだって」
拳で机を鳴らしたルフィの肩にウソップが手の裏で突っ込む。
目を潤ませたチョッパーの前に、三人の視線から庇う様に立ち塞がったのは緑色の猫だった。
毛を逆立てて歯を見せる猫と、クワァとチョッパーの後ろからカルガモとビビが心配そうにその顔を覗き込む。
その輪から外れて、床に座って壁に凭れながら話を聞いていたナミは無表情を繕っていた。
だって毛だって緑色だし、目つき悪いし、猫のくせに腹巻きだし!
気恥ずかしい話題から顔を逸らしたナミはすぐ傍にゾロの顔を見て軽く目を見開いた。
隣に座っていたのをすっかり忘れていた。
欠伸をしていたゾロは視線に気付いてナミの顔を見て、小さく噴き出した。
「何がおかしいのよ!?」
「いつおれがお前のものになったんだ」
「はぁ!? 何言って…」
そういえばそんな事を口走った気もする。
ナミは首を振りながら必死に否定する。
「ちっ違うわよ!! そういう意味じゃ…!っていうかあんたどこにいたのよ!?」
「風呂入ってたらチョッパーが突っ込んで来てな」
涙目で何でもないと言う挙動不審な船医を問い詰めれば倉庫に匿っていた患者がいなくなったと青褪め、そういえば明け方に冷え込んで見張り台で震えていた狙撃主とそのついでにキッチンで寝こけている航海士に倉庫から取って来た毛布をかけた事を思い出し、そう伝えると捜索に加わったのだ。
「あんたのせいじゃないのよ!!」
「何がだよ?」
「うるさい!」
がごん、と鈍い音が響き、猫を囲んでいた船員は何事かと音のした方を見たが、頭をめり込ませるように床に沈んだ剣士と真っ赤な顔をしながら仁王立ちで拳を握る航海士を見て、とばっちりを食いたくはなかったのでご愁傷様と思う事にした。
もしかして記憶喪失? 「「「記憶喪失ぅ〜?」」」
顔を並べて声を揃えて言う男達に、チョッパーは言う。
「何も覚えてないみたいなんだ」
ちらり、と医者に気遣わしげに見られた当人は、よくはわからないけれども愛想笑いは完璧だった。
「おれたちのことも航海術もみんな忘れちまったのか?どうすんだよ……いやいや大丈夫だぞナミ!このキャプテン・ウソップに任せておけば間違いはないからな!」
「キャプテンなの?」
「何にも心配いりませんよナミさん!おれが貴女の運命の相手だとすぐに思い出させてあげるからね〜!」
「え?ええ…!?」
「何にも覚えてないのかナミ!すっげぇな〜っ、おもしれぇな!」
「何がおもしろいのよっ」
「オイオイオイ!今週のおれ以上にスーパーなことになってんなァ!?」
「キャー変態!!」
「落ち着いて航海士さん。ほら、貴女の好きな蜜柑ゼリーよ」
「私…ゼリー好きだったの?」
「いいえ?」
「なんなのよ!」
医者以外、嘘か冗談か揶揄しか言わない仲間たちにまともな人はいないのかと地団駄を踏んで声を張り上げるナミを、チョッパーは安静だぞ!と押し止める。
「ナミ、みかんが好きなのも忘れちゃったのか?」
「…そうなの?」
つぶらな瞳で見上げられ、ナミはロビンから差し出されたゼリーをひとくち頬張ってみた。おいしいのだろうけれど周囲の視線が痛くて味どころではない。
「みかん好きじゃなくなったのかナミ?」
「じゃあナミのみかん食っていいか?」
「今のナミさんが好きなものって何ですか?」
ナミの反応の薄さに、嘘キャプテンが首を傾げ、麦藁の少年は目を輝かせ、咥え煙草の青年は伺う様に訊ねる。
「好きなもの……ん〜…ゾロ?」
「ッ!」
同じ部屋にはいたが会話に参加していなかった男は突然の指名に開けたばかりのアルコールを噴いた。
「なんであんなマリモ野郎ォォ!!?」
「だって」
泣き面のサンジに誤魔化すようにスプーンを口に咥えてナミははにかむ。
「お姫様抱っこされて、ものすごく心配そうな顔で見つめられたら、ね?」
舌打ちするゾロに、ロビンは片頬に手を当てて悠然と微笑み、ゾロに掴み掛かろうとするサンジを取り押さえながらフランキーはほうほうと頷く。
「あらあら」
「やる時はやってんだなおまえ」
「当然だろ」
照れも怒りもせずにゾロは憮然とした顔で応えた。
「階段から落ちただけで死ぬ人間だっているんだ」
ゾロが見つけた時、ナミは不自然に物が散乱した中で倒れていて呼び掛けても反応すらしなかった。どんな状況だったのか知らないが、無事だという保証なんかない。だから急いで抱えてチョッパーに診せに行ったのだ。反応はなかったがその時に意識はあったという事だろう。
「怪我は医者に任せるもんだろ」
「嘘だろ!」
「まともなこと言ってる…!」
ゴムと鼻が信じられないものを見る目をしていたが、トナカイは剣士の足下で跳ねながら訴える。
「なら自分の怪我の手当てもちゃんとしろよ!」
「おれはいいんだよ」
「あ、ダメだ」
「ああ。ダメだな」
鼻とゴムはよかったよかったと安堵しあい、怪我したら安静なんだぞ!と叱る船医を宥め透かした剣士はじゃあ大人しく寝てるよとアクアリウムから出て行こうと廊下に出る。
「どうしたの?航海士さん」
ロビンの見ている前で、ナミは食べていたゼリーを慌てて口に押し込むとご馳走さま、と挨拶をしてゾロの腹巻きを掴んでその後について行く。
「なんだ!? 放せ!」
「あんな知らない人達の中に置いてかれたら私泣いちゃうわ!」
「嘘吐け!全員仲間だろうが!怪我人はチョッパーといろよ」
「わかった」
常時傷だらけの剣士の言葉にナミは頷くと、呆然とそのやりとりを眺めていた仲間たちからチョッパーだけを両手に抱えてゾロの後ろに戻った。
「なるほど。ってアホか!ついて来んな!」
「私の前にゾロがいるだけよ」
「お、下ろせ〜っ」
ぎゃいぎゃい言い合いながら二人とさらわれた一匹はその場から去って行く。
我に帰ったサンジがナミさんに手荒な事をするんじゃあるまいなマリモ野郎めと鼻息荒く追いついた時には、甲板の芝生で川の字で眠る三人を見つけて膝を突いた。
「ナミすゎ〜ん…」
「寝て起きたら治ってたりしてな」
そう言ってウソップは涙で水溜まりを作るサンジの肩を叩いた。
よく寝た、とすっきりした顔の三人がキッチンに現れた夕食時、サンジはナミをテーブルまでエスコートして大仰に両腕を拡げて言う。
「今日の献立はナミさんの好きなものばかり揃えてみました!」
「そうなの?ありがとう、サンジ…君?」
きれいに微笑むナミにサンジはくねくねしていたが、
「オウ小娘、この中で一番好きなものは?」
「ゾロ!」
コーラ片手に問うフランキーにワインを掲げて即答したナミの笑顔に折れていた。
面倒くさそうにため息を吐くゾロの隣に座ったチョッパーはその顔を見上げて言う。
「ゾロ、また一緒に風呂入っていいか?」
「おう。後でな」
「私も一緒に入るー」
「おう…って、ふざけんな頭沸いてんのかてめェ!?」
チョッパーからの流れで思わず頷いたゾロに怒鳴られてナミは目を丸くする。
「…嫌なの?」
「当たり前だ!なに企んでんだ!?」
「もっと親密になりたいな〜っていう心遣いじゃない」
「そんな気遣いはいらねェし、風呂ってお前な、親密とかいう程度で済むと思…」
平常時ならここで鉄拳に見舞われるのだが、怒声の一つも来ないと怪訝に思ったゾロの前で、ナミは頬を染めて胸の前で指を突き合わせながらもじもじしていた。
「気色悪い!」
蒼白になって絶叫したゾロをルフィが変な顔と指差して笑う。
「ナミちゃん、私と入りましょう。怪我もしているし、背中流してあげるわ」
ね、とロビンに宥められてナミは渋々といった様子で頷いた、数時間後、
「いやぁぁ〜!! 手!手が!! 怖!! キャー!…目!?」
ナミの悲鳴が響いていた。
「おい…いい加減部屋戻れ」
「照れなくてもいいのにー」
「お前が羞じらいを持て」
展望室で見張りをするゾロの傍らに座ってナミは窓から外を眺めていた。
「真っ黒ね。何も見えないわー」
「だから航海士が要るんだろ」
記憶を失ったナミは指針の読み方すら知らなかった。昼の間は順風だったし取り立てて騒動も無かったから走行を続けたが、夜は流石に危険だと年長者が口を揃えたので錨を下ろす事になって、船は停泊していた。
「でも…何も思い出せないし、何もわかんないんだもの」
ナミは暗い海を見つめたまま力無い声で言う。
「ずっとこのままだったら…どうしたらいい…?」
「船を降りろ」
ナミの独り言のような問いにゾロが答えると、びくりとナミの肩が大きく揺れた。
「お前は航海士で、仲間だから乗ってんだ。何もしない奴が船にいても意味無いだろ」
「…っ」
固まって振り向かないナミにゾロは息を吐いて続ける。
「出来る事をしろ」
「…思い出せなくても…?」
言いながらナミはゆっくりとゾロに振り向いた。
「お前はお前だろ」
以前出来た事が出来なくなる道理も無い。本人の努力次第だろう。それに、航海士でなくなったからと今更ルフィがナミを仲間から外すとも思えない。
「うん……おやすみ!」
腕を組んで言いきったゾロにナミは嬉しそうに笑うと、ソファから立った。
梯子に手を掛けようとした瞬間、下からサンジが顔を覗かせる。
「おいマリモ、夜食の差し入れだすん!!」
「きゃん!」
かなりいい音がして、ゾロが見てる間にナミは床についた足を軸に扇の様な弧を描いて床に倒れた。
梯子から落ちそうになったサンジもなんとか堪えてしがみついている。
「ナ、ナミさ…!大丈夫…!?」
涙目でサンジは頭をぶつけた相手を見つけ、痛みに歯を食いしばって耐えていた。
ゾロは倒れたナミの横に膝を突いて、呼吸を確かめてから肩を支えて上体を起こしてやる。髪を掻き分けて額が切れていないか見てから、後頭部に手をやるとナミが顔をしかめたので瘤になってるなと思った。
「ナミ、おい」
「……ッ、痛っ〜い!なにすんのよこの馬鹿力!」
ゾロが声をかけると、ナミは目を開け、いきなりゾロの顔を殴った。
「ってェな!なんだいきなり!?」
「痛いのはこっちよ!…あれ?ゾロ?」
何してんのとナミは頭を抱えながらゾロを見た。額を押さえながらサンジは床を這ってナミの傍までにじり寄る。
「ナミさん怪我はない?平気かい?」
「サンジくん?…あれ?ここどこ?」
「ナミさん!? また忘れちゃったの!?」
「な、何が…?ちょっと…やめ…や…」
なんてことだーとナミの肩を掴み前後に揺すって嘆くサンジの顔面に、ナミは拳を見舞う。
「やめなさい!なんなのよ!?」
「…元に戻ったのか?」
「だから何が!?」
あーと呻いて頭を掻いて、ゾロはナミを見た。
「…お前の好きなものは?」
「お金とみかん!…って何よ急に」
拳を握って答えてから、不思議そうな顔をするナミの前でゾロは深々と溜め息を吐いて、満足そうに笑った。
「それがお前だよな」
未来の彼がやってきた!「サンジくーん、お茶貰えるー?」
ダイニングに入るとキッチンに人の気配を感じて、ナミはカウンター越しに身を乗り出して声を掛けた。
しかしそこにいたのはコックではなく酒瓶を片手にしたゾロだった。
「茶ァくらい自分でやれよ」
「なんだゾロか」
吐き捨ててナミはケトルを火にかける。キッチンの中で棚を開けたり閉めたりしているゾロを避けながら冷蔵庫の鍵を開けて中からとっておいたお茶菓子を取り出すと、その横から手が伸びて冷蔵庫の中のハムを掴んだ。
「怒られても知らないわよ?」
「お前が言わなければバレない」
ナミが首を反らして見上げるとゾロは口角を吊り上げて見下ろす。
ナミは正面からゾロの顔を見てその事に初めて気がついた。
「…ゾロ!? その目、怪我!?」
「うるせェな。放っとけ」
「馬鹿なの!? 放っとける訳ないでしょ!チョッパー!来て…ッ」
ナミの大声にゾロは顔をしかめて、自分の腕を掴んでキッチンを出ようとするナミを引きとめる。
「アホか。今さら騒ぐな」
「今さらって何よっ…!?」
振り向いたナミの顔をまじまじと見つめて、ゾロはナミの髪を指で撫でた。
「お前…髪切ったのか?」
「……は?」
「なんだ。勿体ねェな、長いのも似合ってたのに」
ふぅん、と呟きながら髪を摘んでいたゾロの手はナミの肩から背中へと流れていく。
「な、なに言ってんのよ…?」
計らずも抱き留められた上にいつもよりずっと近いゾロの顔に、ナミは赤くなった顔を見られたくなくてゾロの胸に両手を突いて体を引き剥がした。
「ナミ、コックに言うんじゃねェぞ」
あんな触り方は卑怯なんじゃないのとナミが動悸と戦っている間に、ゾロはハムを掲げてそう言うとダイニングを出て行った。
「ちょっと待っ…ゾロ!」
「痛ェ!!」
ナミは慌てて追いかけ、閉じていくドアを勢いよく開くとゾロが声を上げた。
「ゾロ!」
「…っ、テメェ、いきなり何す…だぁァ!?」
ドアに打ち付けたらしい額を押さえるゾロの顔にナミが飛びついた。そのまま勢いで押し倒して馬乗りになる。
「やっぱりチョッパーに診てもらっ……あれ?」
言いながらナミはゾロの頬を両手で挟みその顔を覗き込んだ。
「目が開いてる?」
「何言ってんだお前…!っ乗るな!」
早く下りろと腹の上に跨がるナミにゾロは顔を赤く染めて怒鳴るが自分の手で触れて退かせる勇気は無い。ナミは呑気に首を捻ってゾロの顔を見下ろしている。
「…どういうこと?」
「こっちのセリフだ!ケンカ売ってんのかてめェ!」
「コラー!」
船首付近にいたサンジが目敏く二人を見つけて叫びながら全速力で走ってきた。
「ナミさんに何してんだクソマリモ!! 代われ!」
「ふざけんなどう見てもおれが被害者だろうが!代われって何だ!」
口論する二人に挟まれてナミは一人考えに耽っていたが、止む気配がなかったので二人の頭に両手の拳を振り下ろすと一瞬で黙らせた。
それを読書がてら眺めていたロビンは、やはり船の上で航海士を敵に回すべきではないと一人納得していた。
彼女が幼女に若返り? 「んナミすゎ〜ん!ジュースのおかわりは〜…!!?」
甲板で眠るナミに回転しながら駆け寄ったサンジは、それを目にした瞬間ショックで固まった。
遠心力で飛んでいったトレイがぐわんぐわんと音を立てて床で回る。
「んー…なぁに?サンジくん…?」
その音で目が覚めたナミは、目を擦りながら起きて、自身の手足の小ささに声を失った。
「あら?航海士さん?可愛くなったものね」
「私はいつも可愛いでしょ?じゃなくて…これは一体…?」
両手を握ったり開いたり、体を見回したりしていたナミは、花に水やりを終えたロビンとサンジに連れられて甲板に降りて行く。
甲板では三人の少年が芝生の上でウソップの発明で遊んでいた。気付いたルフィが首をのばしてロビンを見る。
「ん?ロビンこども生んだのか?」
「ええ!? そんな兆候無かったぞ!? おれ医者なのに気づけないなんて…!」
「待て待て今生んだにしてはデカいだろ子供が!隠し子か!?」
少女の存在に気付いた二人も騒ぎ、サンジは咳払いをすると恭しい動作で少女を三人の前に進めて言う。
「よく聞けクソ野郎共。この愛らしい少女はナミさんだ」
「ナミはこどもじゃないだろ」
「サンジ大丈夫か?眉毛だけじゃないのか?」
「お前らの目の方が節穴だろ!!」
サンジも加わって騒ぎ出した男たちを無視して、ナミはおろおろするチョッパーの前にしゃがみ込む。
「チョッパー。さっきくれた薬ってビタミン剤じゃないの?」
「え?肌荒れが気になるって言ってたから、皮膚の細胞から活性化して若返るよう、な……」
若返る。
自分の発言に見る見る青ざめていくチョッパーに、にっこりと笑ってナミは拳骨を落としてから立ち上がる。
「わかってるわね?チョッパー?」
「あい…ずぐに中和剤づぐりまず…」
床に伏して頭にたんこぶを作りながらしくしく泣いて言うチョッパーに、はしゃいでいた三人は何故か冷や汗をかいて直立不動で整列していた。
兎に角、外見が変わった以外に実害が無いなら問題はないと、ナミはチョッパー以外には通常業務を言い渡し、自分はミカンの木の手入れに向かった。
「あっ、届かない…」
普段なら剪定鋏を使えば全体に手が行き届くのだが、身長が低くなった分、上部にはそのままでは届かない。脚立か何か踏み台になるものを持ってくるべきだったと鋏を構えたままナミはミカンの木を睨む。
「何やってんだ?」
「うるさいわね!届かないのよ」
通りすがりのゾロは、威嚇するように背伸びをして鋏を持ち上げていたナミの背中に声をかけただけで怒鳴られた。
「…フランキー、脚立とかあるか?」
「オゥ!すぐ持ってきてやるよ」
ゾロが訊ねると一緒にいたフランキーは一度ポーズをとってから大股で歩いて行く。ゾロはナミの側まで行くと同じようにミカンの木を見上げた。
「どこだ?」
「そこ……きゃぁっ!」
答えた途端、ひょい、と腕で抱え上げられたナミは驚いて短く悲鳴を上げた。いきなり何をするのかと怒鳴ってやろうと振り返って見たゾロの表情が意外と真面目だったので、とりあえず先に作業を済ます事にした。
「…も、もういい…から…」
幾つか枝を切り落とした後、言われてナミを下ろすとゾロは今度は切り落とされた枝を拾い集める。
「あんた……ロリコン?」
「あァ?人聞きの悪いこと言うな」
凶悪顔で睨むゾロにナミは怯む様子も無く唇を尖らせて不満げに言う。
「なによ、気安く触ってくれるじゃないの」
「あ?…あー…それはお前の方だろ」
「あら、今頃気付いたの」
鎌をかけたつもりが逆に文句を言われてしまったゾロは何を言ってもやぶ蛇になりそうだなと思って返す言葉に詰まる。
「知らなかったわー、変態だったなんて」
「アゥ!スーパーだぜ!?」
脚立を担いで現れたフランキーの背中にナミはうるさい、と毛虫がついたまま切り落とした枝をなすりつけた。
恩を仇で返す所行にフランキーは覚えてやがれと雑魚キャラのような捨て台詞を言って背中を押さえながらチョッパーの保健室に駆け込んで行く。
「このナミさんがあれだけ手薬煉引いてあげてるってのに、道理で何もしない訳よね」
何事もなかったように話を再開するナミにゾロは閉口したが、仕方なく終わったと思った会話を続けた。
「何だそりゃ…。だいたい何しろっつーんだ…」
「…ちょっ…、やだ!乙女の口から言わす気?」
「本当に何をさせる気だよ…。大体、口にするのも憚られるような事したらお前……金取るだろ」
フランキーが置き捨てて行った脚立を組み立てながらゾロが唸るように呟くと、ナミが腰に手をおいて仁王立ちをして強い口調で言い切る。
「当然でしょ!」
「当然なのかよ!只だろ普通!? っていうか否定しとけそこは!」
「あんた知らないの?」
振り返ったゾロに鋏を押し付け、その横を通り抜けて派手な音を立てながらナミは脚立を登る。頂上に腰を下ろすと近くになったゾロの顔に指を突きつけて言う。
「タダより高いものは無いのよ?」
ふふん、と高飛車に言いきられて、ゾロは一瞬呆気に取られた顔をしたが、一度大きく息を吐いて笑うと、天を仰いで参った、と呟いた。
彼が彼女で、以下略「ナミさん!大丈夫かナミさん!」
――うるせェ。
エロコックが喚いている。
目を開けると気味が悪くなる程心配そうな表情をしたコックの顔が目の前に迫っていた。
「近ェ!なんのつもりだこのグル眉!」
思わず加減せずその顔を殴り飛ばしたが、変な声が出た気がした。
「痛い…!全身が痛い!! 何これ!?」
聞き覚えの無い声がすぐ隣から聞こえた。両腕で自分の身体を抱き締めるようにしていた男が顔を上げる。その顔は誰より見慣れているものだった。
「…おれ?」
「…鏡…?…じゃ、ない……」
おれの口が勝手に動き、自分に向かって手を振っている。
自分の体を見下ろせば男には有り得ない胸の脂肪があって、首が痒いと掻きながら腕を見れば見覚えのある刺青があった。
「……ああ、ナミか?」
なるほどコックが声を掛けてくる訳だ、と見るとウソップがおれに話しかけているのが見えた。
「ゾロ?どうしたんだ今さら…やっと神経通ったのか?」
「ゾロ!? …私ゾロなの!? やだ痛い!」
「気持ち悪い声を出すな」
痛がるおれの頭を軽く叩いてから、探す人物が側にいないのを確認して声を張り上げた。
「チョッパー!!」
「んん!? 何だ何だ!?」
「やめろよルフィ〜!みんなのおやつだろ〜!」
キッチンの扉から口の回りに食べカスを付けたルフィが顔を出し、その脇にしがみついてチョッパーも出て来た。
「チョッパー!」
「ナミもルフィ止めてくれ…ん?」
「どうしたんだ?おやつ全部食っちまうぞ?」
「…んん?」
今すぐキッチンに戻りたそうなルフィの横でチョッパーは青い鼻をひくつかせて首を傾げた。
「どうにかしろ、医者」
「…え〜?」
ルフィと自分の三人以外、その場にいた全員が怪訝な顔をしていた。
「二人が入れ替わったの?」
チョッパーの手当てついでにロビンが興味深そうにおれの身体を触りながら言う。船大工も今日のおやつを食べながら信じられないという顔だ。
「魂が入れ替わったとでも言うのか?そんなもんどうやってやるんだ」
「そこの骨に訊けよ」
「あ、失礼」
話を振った途端、音楽家は口から汚い音を吐き出した上に楊枝で歯を掃除し始めた。
「結局、原因は何なんだよ」
キッチンに立て籠もる様に出てこないコックが言うが、その場にいたのはウソップとルフィだ。
「おれに解るかよ〜!いきなりだぞ?」
「おやつに呼ばれたルフィさんが階段でナミさんにぶつかりまして、それを支えようとしたゾロさんと二人で階段から落ちて気を失ったのは見ましたよ」
頭を抱えたウソップに代わり状況を詳細に説明した骨は無い胸を張った。
「私見張りでしたから、ちゃんと見てました!」
「船の周りを見張りなさいよ!」
ナミが突っ込んだが、おれが女みたいな喋り方してるのは正直気持ち悪いだけだった。
「ナミ!じゃねェや、ゾロ!食わないのか?」
ルフィは人を呼んでおきながら目は皿に載ったパンケーキから一秒たりとも離れない。
「食いかけだぞ?」
「残り物には福があるからいいんだ!知らないのかゾロ?」
「…ナミみたいなこと言うな…」
「お前の方がナミみたいじゃねェか」
そういえば今の自分はナミの姿だった。巧い事言われた。
「ルフィのくせに」
フォークで刺したケーキをルフィの開いた口に突っ込む。咀嚼しながらうまいうまいと連呼する船長に苦笑し、さぞコックは自慢の腕に踏ん反り返っているだろうと見れば見た事も無い程顔が歪んでいた。
「おまっおまえ何してんだコラァーッ!!」
「ウフフ、仲良しね」
「ロビンちゃんもいつまでそんな傷だらけの筋肉達磨に触ってんのォォ」
何をそんな慌てる事があるかと思うが、ナミがルフィに恋人宜しく食べさせてやった図に見えるとウソップに言われてその事実に気がついた。
味覚が変わったナミが余ったケーキをチョッパーに与えていた事は問題では無いらしい。
間食を終えて、トレーニングしようにもナミの身体を鍛えても意味が無い。ならおれの身体のナミに鍛練させればいいかと言えば何でそんな事しなきゃいけないのと怒鳴られチョッパーには暫く入れ替わったままでいてくれた方が治療が早いと朗らかに言われた。
元に戻る方法を探そうとしているのはウソップとコックだけで後者は明らかにナミの事しか考えていないし、唯一希望の持てるロビンは怪奇現象を調査したいだけで解決は二の次のようだ。
残った馬鹿と変態と骨には端から期待はしていない。
「あんた足閉じなさいよ!」
「んぁ?」
目を開けるとロビンを従えて腰に手を当てながら女言葉で憤慨する自分が立っていた。
「…気色悪…」
「何がよ!中が丸見えでしょーが!隠せ!ちゃんと!」
「あぁ、……だからあいつさっきから微妙な顔してるのか」
「…さっきから不思議な顔だったわね」
ルフィとウソップと揃って遊んでいたブルックがさっきからずっと表現し難い顔で此方を見ていた。
言う前から見せられていてはいつものセリフが言えないんだろうな、と足を閉じながら眺めているとその輪を外れてウソップが駆けて来る。
「ナミ…いやゾロ、ナミゾロ?」
「どっちだよ」
「航海士の方だよ。船の進路を……ゾロに聞くのか…?」
「うわ!すごい不安になった今!」
「どういう意味だお前ら」
「…フフフ…」
押し殺した様な不吉な笑い声に見ればロビンが目に涙を浮かべて笑っていた。
笑われる事も釈然としないが笑うなら可笑しそうに笑えと思う。一緒に笑いながらナミがこれから見張りらしいウソップに向かって答えた。
「ロビンにも確認してもらったから大丈夫よ。針路はこのままで、たぶん順風」
「ゾロ〜一緒に釣りしようぜ〜」
「おれはこっちだ」
おれの体のナミに話しかけるルフィの額を小突き、ウソップから代わりに釣竿を受け取る。
ルフィは手すりの上で胡坐をかいて、体を揺らしながら拍手する様に両足を鳴らして言う。
「勝負しようぜゾロ!デカい方が勝ちな!」
「お前、そういう事は一匹でも釣り上げてから言えよ?」
「釣ったぞ!鮫!この前!」
「水槽を空にしてくれたヤツね」
船端の手すりに片肘をついてナミが言う。ぐうと黙るルフィの横でブルックは口笛を吹いていたがどうやってかは分らない。
「…私もしようかな」
海面を覗き込みながらナミが呟く。
ウソップの竿を押しつけて船縁に座り、横を叩くとナミは素直に隣に座って糸を垂らした。
そしてすぐに気付く。
「ルフィ暴れないでよ!魚が逃げる!」
だからルフィに釣りは無理なんだ。
『船の下に何か入ったぞ!』
突然、スピーカーから、わん、と耳障りな音を響かせながらウソップの声が鳴った。
身構えた瞬間、船体が大きく揺れる。
ルフィが身構え、投げ捨てた釣竿をブルックがすかさず拾い上げて次の動作を待つ。
自分も咄嗟に腰の刀に手を伸ばしたが、空を掴んだ。自分の体は今目の前で船の揺れに合わせて傾いている。
船の外に向かって。
「…っ」
腹巻きと刀の柄に両手を延ばして捕まえるが女の細腕では支え切れない。船端に片足を突いて体重をかけて引き寄せる。
刀を抜くつもりだったが諦めて、竿を掴んだ腕が邪魔にならないように捕らえて軽く捻る。寄り掛かってきた体を腕で支え、それも無理で肘で押し退けるが全体的に力が足りない。
倒れると思いながら、目の前に迫る自分の顔に舌打ちが出た。
――目を閉じたら身体が動かせなくなるだろうが馬鹿野郎。
船は一度大きく揺れただけで何も起こらない。
「何だったんだ?」
「…たぶん鯨じゃねェかァ?」
中二階からのコックの問いに船大工が答えて、船底を確かめに梯子を降りて行く。
「痛…っ」
「お、重いぃ〜!」
身体を起こすと下からナミの声がした。
「マリモてめェ!ナミさんの上から退きやがれ!」
床に座り直して抜き損ねた腰の刀を鞘に戻して、落ち着こうと頭を掻いた。
コックは鼻息荒く走って来たが見えない壁でもあるのか近くまで来て急停止して、どっちに声を掛けるか迷っているらしい。
「あれ?戻ったのか?」
頭の上からルフィの声が降って来る。気付いてナミが自分の体を見下ろした。
「も、戻ってる…!」
「ナミさ〜ん!よかったぁぁ〜!」
跪いて喜ぶ料理人を押し退けて、医者が触診しながらナミに問う。
「どうやったんだ?」
解らない、と首を捻るナミとチョッパーとついでにルフィを放置してその場を離れる。お鉢が回ってくる前に退散すべきだ。
「ゾロさん…」
「毟るぞ」
「私の目は節穴です!」
恐らく一部始終を見ただろう骨に鯉口を切って見せると、骨は頭の毛を押さえながら返した。
「あら、もう戻ってしまったの?」
「…悪いか」
残念、と呟いてロビンは背中越しに溜息を吐いてみせると閃いたように身を翻した。
「最初に入れ替わった時も船が揺れていた気がしたのだけれど、どうかしら」
「……そういえば…」
状況を思い返せばあの時確かに船は揺れていた。本来なら、ルフィがぶつかったぐらいで階段を落ちる程ナミは柔では無いし、自分だってナミ一人支え切れない筈が無かったのだ。
「そう……じゃあ、やっぱり…?」
「おい。何なんだよ」
呼び止めると一人納得して歩いて行くロビンが振り返って肩をすくめた。
「影を盗む能力があるくらいですもの。ブルックの存在で魂があると証明されたし、一定の状況下で魂が入れ替わるのは間違い無いと思って。その現象が起こる場合の縛りが、海域でないのなら船を揺らしたものがその能力者なのかしら」
「…何が言いたい?」
「そうでないなら」
笑って人差し指を立てると、声を出すなとばかりにひとの唇に押し立ててきた。
「いつも入れ替わってなくちゃ、おかしいでしょう」
「…待っ、おま…!」
何から問えばいいのか言葉に詰まる。その隙にロビンは不穏な笑いを遺して去って行った。
思わず手の甲で口を拭っていた事に気付いて気恥しくなる。
…本当に、油断ならねェ女だな。