夕暮れ怪奇譚
▼ 大鏡の悪魔 04
「何が、起きて……」
呆然と呟いて、
高良は改めて辺りを見回した。
室内の様子は数秒前と何も変わらない、ごく普通の会議室に見える。しかし何度瞬きしてもそれらはモノクロのままで、この世界で色を持つのは自分と
雪見だけのようだ。
白黒写真の中に迷い込んだらこんな感じなのかな。なんて、うっかり浮かんだ場違いな考えは頭を振って追い出した。
「……あの、先生」
深呼吸をして、十分落ち着いてから声をかける。振り向いた雪見の目は吸い込まれそうなほど鮮やかで、思わず息を呑んだ。
「なんだ?」
「……こうなったのってオレが持ってた鈴が原因、ですよね」
搾り出すように尋ねると雪見の視線が僅かに泳ぐ。ああ、やっぱりそうなんだと確信した。
高良自身、何が起きたのか把握しきれていたわけではない。理解すらできていない部分もたくさんある。それでも確かに、鈴が鳴った後に世界から色が消えたのだ。そこに原因を求めるのは当然だ。
「やっぱりそうなんですね」
ぽつりと漏らした呟きに雪見は静かに頷いた。
「今はまだ原因だと言い切ることはしないが、何かしら関係しているのは確実だろうな。その鈴はどこで手に入れたんだ?」
「……それが、覚えてないんです。気付いたらお守りとして持ってて……小学校あがる頃には持ってた、ような……」
「一応聞くが、今まで同じような現象が起きたことは?」
「なかったと思います。鳴ったのだって今日はじめて聞いた……はずなんですけど」
「何か気になるのか?」
「気になるっていうか……」
一度言葉を切って逡巡する。果たして自分でもほとんど覚えていない、ひどく曖昧な話をしていいものか。ずいぶん昔の話でそこまで関係があるとは思えないし、下手なことを言って余計な混乱を招きたくもない。しかし今の状況では何がヒントになるかわからないのもまた事実である。
中途半端に口を開いていたこともあり、高良は結局それを伝えることにした。
「昔どこかで似たような音を聞いた気がするんです。でもその時に鈴が鳴ったのかも、何か起きたのかも全然思い出せなくて……」
「…………」
「先生?」
何かまずいことでも言ってしまっただろうか。急に不安になって、答えを聞くなり黙ってしまった雪見の顔を覗き込む。すると雪見はハッとして「ああ、すまない。なんでもないよ」と言った。
「確かに気になる話ではあるが、昔のこととなると関係があるかは微妙だな」
「ですよね。すみません、今のは忘れてください。……あの、これからどうするんですか?」
こうして話している間、目に見える範囲に変化は見られなかった。世界は色を失くしたままだし、物音どころかちらほら登校していた人たちの気配すら感じられない有り様だ。
まさか雪見が放置するとも思えず尋ねてみると、彼の視線が鈴に向けられた。
「……? 鈴がどうかしたんですか?」
「こうなる直前に鳴っていただろう? 経験上、もう一度鳴らせば戻れるとは思うんだが……」
「……鳴らないですね」
指先で弾いても紐の部分をつまんで揺らしても、鈴は空を切る空しい音を立てるばかりだった。正直、今頃中が空洞だと証明されても困るのだが。
どうしましょう、と無言で雪見を見た。自分よりこういう状況に慣れていそうな彼なら何か策があるかもしれない。そう思ってのことだったが、そんな簡単な話でもないらしい。少しの間考え込んだ末、雪見は溜め息をついて首を振った。
「今のままじゃ情報が足りない。一度校内を見て回ろう」
***
ぐるりと校内を見て回ってわかったことがある。
自分たちの置かれた状況は思いの外深刻なようで、どうやら色のない学校に閉じ込められているらしかった。昇降口にはじまり非常口や窓に至るまで、おおよそ外へ繋がる扉は全て堅く閉ざされ、どんなに力を込めてもぴくりともしないのだ。一応ガラスを割ることも試みたが、まるで石を叩いている気分だった。
幸いと言えるのは他に巻き込まれた人がおらず、後々起きたであろう騒動について気にする必要がなくなった点くらいか。
ともあれ、一通り現状を把握した二人は会議室に戻って来ていた。
「この状況から抜け出すには、やっぱり鈴を鳴らす必要があるだろうな」
適当な椅子に腰掛けて雪見が言った。見てきた情報を元に彼が出した結論である。
自力で答えを出すには知らないことが多すぎて素直に「どうしてですか?」と尋ねれば、さすが教師と言うべきか。つらつらと淀みなく説明してくれた。
「まず前提として、俺たちは隔離されている可能性が高い。結界……いや、ほとんど異空間に近いか。誰からも感知されない場所に引きずり込まれたんだろう。俺の知る限りこの手の現象を引き起こす方法はいくつかあって、俺たちと同じ側の人間が意図的に起こす、〈大鏡の悪魔〉のような化け物が自ら空間を作り出して閉じ込める。そして今回の場合は鈴がそういうものに変質していたか。大体この三つに分類できる」
「鈴が変質する、っていうのは?」
「持ち主が次々に亡くなる呪われた宝石とか聞いたことないか? いわゆる『曰く付き』と呼ばれるものだ。あの手のものは時々、語られるうちに奇妙な現象を引き起こすようになるんだ。俺たちはそれを変質すると呼んでいる。そうだな……ものが特殊能力を持つことがある、とでも思ってくれ」
「はあ。なんて言うか、漫画みたいな話ですね」
「ああ。俺も説明していてオカルト色が強すぎるとは思うよ。普通なら到底信じられる話じゃない。でも実際そういう現象が起きて、俺たちは巻き込まれている。事実だと証明する理由なんて、それで十分だろう」
「いえ、あの、別に信じてないわけじゃなくてですね!」
高良はぶんぶん両手を振って否定した。本当に、ただ単純に思ったことを口にしただけだった。
幼い頃から幽霊を見て、つい先日には雪見の行使する不思議な能力も見て。さらに現在進行形で謎の空間に閉じ込められているのだから、疑う余地などないだろう。第一、あれほど誠実な雪見が嘘を教えるとも思えない。
必死な様子の高良に「そうか」と微笑み雪見は続けた。
「話が逸れたな。人を閉じ込める方法があるように、そこには必ず解決策も存在する。多少強引なやり方もあるが、今の状況だと同じ現象をもう一度起こさせるのが一番安全だと思う」
「同じ現象を起こさせる? ええと……それってつまり元の場所に戻させる、ってことですか?」
「ああ。だから鈴を鳴らす必要があるんだ。こうなる直前に鳴っていた以上、それが現象を起こす鍵なのは間違いないからな」
思わず鞄を見た。相変わらず鳴る気配のない古ぼけた球体が揺れている。
……本当にこれが?
この不可解な現象に関係があると頭ではわかっているのだが、どうにも首を傾げたくなってしまう。今まで何も起きなかったせいかいまひとつ実感が持てないのだ。それよりも気掛かりなのは――
「でもこれ、どうやって鳴らすんですか?」
雪見の言葉を借りるなら二人をここへ引きずり込んで以来、鈴は一度も鳴っていなかった。校内を歩き回っても、鞄ごと動かしても、今まさに指先でつついてみても駄目なのに、一体どうするつもりなのだろう。
雪見は鮮やかな空色に長い影を落とし、顎に手をやり口を開いた。彼自身、答えを探しているようだった。
「それは俺にもわからない。現時点で言えるのは特定の条件下でしか鳴らない可能性が高い、ということだけだ。何か心当たりはないか?」
「心当たりって言われても……〈大鏡の悪魔〉のせいじゃないんですか?」
「ああ、そういえば相模は見ているんだったな。確かに関与を疑いたくはなるが、現れたのは西階段だろう? そこまで会議室に近いわけではないし、見てから少し時間が空いているのも引っかかる」
「言われてみるとそうかも」
高良は改めて首を捻った。
あの時、何か気になることなんてあっただろうか。雪見と話をして、帰ろうとしたところで鈴が鳴った。たったそれだけの出来事だ。おかしな会話をした覚えはないし、異変を感じることもなかったと思う。
偶然あのタイミングで鈴が鳴っただとか、実は〈大鏡の悪魔〉が近くに移動していただとか。そういうもしもの話を考え始めて、ある可能性が脳裏を過ぎった。
鈴が鳴る直前、自分は何を考えていた?
「……あの、先生。一つ聞いてもいいですか?」
ぎゅ、と鞄を抱く手に力がこもる。その様子に察するものがあったのか、雪見はこちらを見つめるだけで先を促すようなことはしなかった。無言のまま、じっと続きを待っていてくれる。
その優しさに甘えて深呼吸を溶かし、高良は静かに尋ねた。
「持ち主の思いに答えるみたいに、ものが不思議な現象を起こすなんてことあり得ると思いますか?」
――何か手伝えることがあったら。
あの時、高良は確かにそう思ってしまった。見えるだけでは邪魔にしかならないことも、もう一度〈大鏡の悪魔〉と対面したところで足が竦んで動けなくなることも容易に想像できるのに。日常を壊した疎ましいだけの目に、使い道を求めてしまった。
でも、もしも。もしも鈴がその馬鹿みたいな願いを聞き届けていたとしたら。自分一人では何もできないと言うように雪見を巻き込んで、〈大鏡の悪魔〉ごと異空間に閉じ込めたのだとしたら? 外側に原因が見当たらない以上、
内側に原因があってもなんら不思議ではないだろう。
まだそうと決まったわけでもないのに申し訳なさが湧いてきて、自然と視線が下がってしまう。そこへ追い打ちをかけるよう雪見の声が降ってくる。
「俺は十分あり得る話だと思う」
疑う気持ちは少しもなかった。雪見が言うならきっとそうなんだろうし、何より否定するだけの気力も根拠もない。だってこの時にはもう、高良の中で仮説はほとんど確信に変わってしまっている。
この空間を生み出したそもそもの原因は自分にある、と。
「……
相模?」
心配そうに雪見が名前を呼ぶ。
全てを話すのが怖かった。雪見は彼らとは違う。頭ではわかっているのに、自分を拒絶してきた人たちの目が、反応が、心に重たい影を落として離れないのだ。
(この人なら、大丈夫)
目を閉じ大きく息を吐き出す。それから大丈夫、大丈夫と呪文のように何度も自分に言い聞かせ、ようやく高良は顔を上げた。
「先生。こうなった原因、わかったかも」