夕暮れ怪奇譚
▼ 大鏡の悪魔 03
昔から不思議なものを見た。周囲には見えていないそれは幽霊や妖怪、人によっては化け物と呼ぶ類のものだった。
どうしてみんなには見えないんだろう?
はじめこそ色々と考えたものだが、気付けばそんなこと辞めていた。それの存在を口にして奇異の目を向けられるより、日常の一部として受け入れることを選んだのだ。冷たく突き放す、不気味な何かを見る目が深々と突き刺さり、あまりの痛さに耐えられなかったから。
しかし今、少年の思考は過去に引き戻されつつあった。ただ一つ違うのは、頭を悩ませる原因があの時の彼には化け物が見えていたのか? という部分だ。
あの存在は本来、人の目には映らないものだ。もし映るのならもっと大きな騒ぎが起きていそうなものだし、世間がこれだけ無関心なのだから見えていないと考えるのが普通だろう。
だが、あの時彼は確かに悲鳴を上げていた。単に足を滑らせただけという可能性も十分あるが、果たしてそんなに都合のいい話あるのだろうか。否、とてもあるとは思えない。では彼は一体何を見た?
堂々巡りから抜け出せず、盛大な溜め息と共にベッドに倒れ込む。
どれだけ考えたところで答えなんて出るわけがないのだから、彼の言葉を信じて大人しく説明してくれるのを待てばいい。それはわかっていたが、こうして部屋で一人になると勝手にあの時の光景が繰り返され、意識を持っていかれてしまうのだ。
夕闇の迫る空。結晶と乱反射する夕日で輝く世界。 山羊頭の化け物。 そして――
「……先生」
凍えるような美しさでそれらを支配してみせた担任教師の姿。
そういえば、彼の行使する不思議な能力はなんなのだろう? 巻き込んでしまう相手がいると言っていたが、他にも同じようなことができる人でもいるのだろうか。
尽きることのない疑問に意識が呑まれていく。暗くて深い、光さえ届かない海の底へ引きずり込まれていく気分だった。
それからどれだけ時間が経ったのかはわからない。
ようやく見えた光が視界を白く染め上げたと思ったら朝になっていた。どうやら考え込むうちに眠ってしまったらしい。
重たい瞼を擦り、妙に気だるい身体を引きずってベッドから抜け出す。ひとまず眠気をどうにかしようと真っ先に洗面所へ向かってみたが、よほど寝足りないのか頭は半分寝惚けたまま起きそうにない。仕方なしにそのまま身支度を済ませると、
高良はリビングへ足を運んだ。
時にリビングとは家族で時間を共有するための場所だと思う。テレビドラマでもそういう場面をよく見るし、実際昔はそうだった。顔を出せば笑顔が出迎えてくれる、暖かい場所。今となっては記憶の中にしかない風景。
引っ越しと共に変わり果てたその部屋には何もなかった。
生活感ごと掃除してしまったみたいに、ただ家具が置かれているだけの部屋。もちろん両親の姿もない。彼らは多忙を理由に朝から家を空けることがほとんどで、夜まで――下手をすると丸一日――顔を合わせないのが普通だった。
ああ、今日も朝から仕事か。
淡々と現実を認識し、部屋の隅へ一直線に向かう。どんな時でも欠かせない、たった一つの日課が高良にはあった。
「おはよ、おばあちゃん」
写真の中で穏やかに微笑む祖母に挨拶をすること。返事はないけれど、これをやらないと一日が始まらないのだ。
収納の上にひっそりと置かれた小さな仏壇で祖母は眠っている。五年、いや、もっと前だっただろうか。彼女は高良が幼い頃に亡くなってしまった。誰よりも優しくて、陽だまりみたいな、ただ一人の理解者。祖母がいなければ今の高良はいなかった、と言っても過言ではないと思う。
「うそ、時間やば!」
ふと視界に入った時計を見て飛び上がった。寝惚けている間に時間が過ぎてしまったのか、そもそも起きた時点で既に手遅れだったのか。時計は普段ならとっくに家を出ている時間を指し示していた。
「いってきます!」
と、祖母に声をかけ、朝食として置いてあった菓子パンの袋を引っ掴んで大慌てで家を飛び出す。
寝坊なんていつぶりだろう。きっちり時間通りに起きる癖がついてきたと思っていたのに、目覚まし時計を止めた記憶すらないなんて。やはり延々と考え事をしていたのが尾を引いてしまったようだ。
全速力で自転車を飛ばしたお陰で遅刻は免れたが、結局、予鈴と共に教室に滑り込むことになってしまった。その光景がどれだけ珍しいかと言えば、
「もしかして体調悪いのか? それとも何かあった?」
と、友人が真顔で尋ねてくるほどである。
まさかきのうの出来事を話すわけにもいかず、夜更かししただけだと当たり障りのない答えを返す。
若宮は納得いかない顔をしていたが休み時間はそう長くない。なんやかやとやり過ごせば、昼休みになる頃には忘れているだろう。
……と、思っていたのだが。
「で、結局何があったわけ?」
昼食もそこそこに若宮が身を乗り出してまで問い詰めてくる。ピタリと、思わず身体の動きが止まった。
「な、なんのこと?」
「何って、今朝珍しく遅刻しそうになってたから。
相模の性格からして絶対何か隠してると思って」
「……隠してないよ。本当に夜更かししすぎただけ」
至近距離から探るような、けれど真剣な眼差しが向けられる。若宮は好奇心がやたらと強く人の事情にも土足で踏み込んでくるが、今はその目に心配の色が見え隠れしている。興味本位の部分は多少……いや、かなりあるだろうが、それでも友人として身を案じてくれているのは間違いない。そんな相手に真実を話せないことが高良には申し訳なくて仕方なかった。
しかし自分一人の問題ならいざ知らず、今回に限っては
雪見にも関わる内容だ。帰り際に彼からも釘を刺されたが――元より話す気はなかったけど――口を割るわけにはいかない。「本当に?」と詰め寄ってくる若宮から逃げるよう目を逸らし、高良は「本当だってば」と頷いた。我ながら見え見えの嘘だった。
「ふぅん……?」
再び疑いの視線が突き刺さる。
ああ、これ以上ぼろを出してしまう前に誤魔化さなくては。大丈夫。隠し事は得意じゃないか。
自分に言い聞かせながら言葉を探す。嘘の出来事をでっち上げるのは向いていない自覚がある。なら、どうしたらいい?
考えるうちに思わず目が泳ぐ。するとそれに気付いたらしい若宮は、堪らないといった風に吹き出して言った。
「相模って本当に顔に出るよな。嘘つくの向いてないって」
「うっ……」
そんなことない、とはとても言えず、わかりやすく言葉を詰まらせた。その反応についに笑い声を上げ、若宮は「まあ、それが相模のいい所でもあるんだけどさ」と続ける。果たして、なんて返すべきだったのだろう。言われて悪い気はしないが素直に認めるのも違う気がして、困った高良は苦笑いを漏らすのがやっとだった。
ともあれ、何を言っても高良がそれ以上話そうとしないのは火を見るより明らかで、若宮はわざとらしく肩をすくめて見せた。
「仕方ない。心優しい相模クンに免じて、今日のところはこれ以上突っ込むのは止めてやろう」
「なんで微妙に上から目線なの」
「だってすげえ気になってるのにこの俺が黙るんだぞ? 感謝しろ」
「ええ……」
「俺としてはもっと追及してやってもいいんだけど」
「それは勘弁してください」
ほとんど脅しに近い言い分に抗議を諦め、高良は大きな溜め息をついた。
前言撤回しておこう。確かに若宮は身を案じてくれてはいたがそれはおまけに近く、実際は好奇心だけで声をかけたも同然だったようだ。その方が若宮らしいと言えばらしいのだが。
「そういえばさ――」
それきり高良の隠し事には誰も触れることはせず、流れるように話題が変わっていく。いつの間にか目の前に広がる見慣れた光景に、高良はほっと息を吐き出した。
◇◇◇
何事もなく過ぎていく日々が終わりを告げたのは連休が近付く週末のことだった。
「休みなのに手伝わせてごめんね、相模。若宮ってこの手のことでは役立たずだから助かるよ」
「気にしなくていいよ。ちょうど暇してたし」
何食わぬ顔で吐き出される辛辣な言葉は聞かなかったふりをして、高良は本を棚に押し込んだ。
事の発端はきのうの夜、
柴崎から連絡が来たことに始まる。なんでも彼は図書委員として本棚の整理を頼まれたらしく、急用で来られないもう一人に代わって高良を呼び出したのである。
その時は特別用事もなかったため二つ返事で引き受けてしまったが、窓の向こうでどんどん傾いていく太陽を見ると少し軽率だったかな、と思わなくもない。まさか夕方までかかるとは思ってもみなかったのだ。
「あとはこの山片付けたら終わりだから。もうちょっと付き合って」
そんなにじっと外を見ていたのか、もう一度「ごめんね」と謝って柴崎が言った。
「え? ああ、ごめん、ぼんやりしてた。大丈夫、最後まで手伝うよ」
「ありがと。相模ってあんまり遅い時間に外出たがらないからさ、さすがに悪いことしたかな」
「ううん、全然。ていうかオレ、そんなに外出るの嫌がってた?」
「嫌がるっていうか、顔が? 出たくないな、って言ってるように見えて」
「まじか……」
「うん。相模はやっぱり顔に出やすいタイプだね」
付き合いが長いと考え方も似るのだろうか。いつかの若宮と同じことを言う柴崎に相槌を打ちながら先ほどよりも手早く、けれど着実に本棚を片付けていく。
そういえば入学以来一度も来たことがなかったが、この学校の図書室は本校舎とは別棟の二階部分を丸々充てているだけあってわりと広い。今回任された一区画だけでも相当な数の蔵書が並んでいる。これを見てしまっては片付けが夕方まで及んだのも納得だ。
ひたすら手を動かして、一体どれくらいの時間が経っただろう。最後の一冊をしまった時にはすっかり日が暮れていた。
「や、やっと終わった……!」
「まさかこんなに時間がかかるとは思わなかった……」
「それは柴崎が途中で本捲り始めたからでしょ」
「申し訳ありませんでした。でもさ、本の整理してるとつい読みたくならない?」
「うっ……否定できない」
「相模も経験あるんじゃん。けどまあ、悪いと思ってるのは本当。今度お礼も兼ねてお菓子でも買ってくるよ」
だいぶ日が沈んでしまっていることもあり二人は他愛ない会話の合間に荷物をまとめ、急いで教室を後にした。渡り廊下を進み、図書室の鍵を返すべくそのまま職員室へ向かう。
高良の目が異変を捉えたのはその途中、ちょうど西階段に差し掛かった時だった。
「……!」
視界の端に大きな影が見えた。影と言うにはあまりにも存在感を持ちすぎたそれは、ぬ、と三階へ続く踊り場の陰から生えている。まさかと思い顔を上げると忘れるはずもない、木の枝に似た奇妙な角の一端が見え隠れしていた。
間違いない、〈大鏡の悪魔〉がそこにいる。未だにあれは解決していないのだ。
そのことに気付いた時、高良の足は自然と止まっていた。
「ん? 相模、どうかした?」
高良に釣られたのか、柴崎もまた足を止めてこちらを振り返った。そして化け物でも見るような顔――いや、実際そうなのだが――をする高良の視線を追って踊り場を見上げる。
なんでもない、と止める暇もなかった。踊り場を見上げた柴崎は
「なんだ、誰もいないじゃん。あ、もしかして忘れ物に気付いたとか?」
と、言った。
どうやら柴崎にはあれが見えていないらしい。やはり本来は人の目に映らない生き物なのだろう。こうなるといよいよ先日の彼に見えていたのか疑問になって来るが、今はそれどころではない。一刻も早くこの場から離れなければ。
「ううん、なんでもない。……思ったより暗くなってるなって思っただけ。早く鍵返して帰ろう」
「押すなって!」という抗議は聞き流し、柴崎の背中をぐいぐい押して足早に階段を通り過ぎる。一瞬でも見てしまったことに気付かれていないといいのだが。
高良の不安を余所に〈大鏡の悪魔〉が動きを見せる気配はなく、職員室のプレートが目に入るとほっと息が漏れていた。
「……? やっぱり相模変じゃない? どうしたのさ、息なんか詰めちゃって」
「それは……その……」
「ああ、別に言わなくていいよ。一応聞いただけで無理に聞き出す趣味ないから。相模のことだし、それも言いたくないことなんでしょ」
「ごめん」
「謝んないでよ。誰だって言いたくないことはあるだろうし、相模の場合それが顔に出やすいだけなんだから」
「……どうしたら出なくなると思う?」
「それ聞いちゃう時点で無理だと思う」
ばっさりと切り捨てて、今度こそ柴崎は職員室のドアをノックした。
失礼します、と連れ立って室内に入る。休日ということで教師の姿はまばらだったが、その中の見知った姿に高良の視線は自然と惹き付けられていた。雪見である。
(……そういえば)
先ほどは西階段から離れることしか頭になかったが、〈大鏡の悪魔〉を見たこと自体は知らせておくべきだろうか。あの化け物がどのようにして消えるのか知らないが、未だ校内にいる可能性は十分にあるはずだ。
雪見の姿を見つけてようやくその考えに至り、高良は柴崎の鞄を引っ張った。
「ごめん、先生に用事あるの思い出したからちょっと行って来る」
「先生……ああ、雪見先生来てるんだ。わかった。鍵返したら昇降口で待ってるよ」
「ありがと。十分くらい待っても戻らなかったら先帰ってていいから」
「了解」
ひらひらと手を振る柴崎と別れ、一直線に雪見の席へ向かう。一度深呼吸をしてから「先生」と声をかけると、雪見は手元の紙束から視線を上げた。
「相模? どうしたんだ?」
「ちょっと話しておきたいことがあって。できれば人のいない場所がいいんですけど……」
「……わかった。こっちに」
周囲を気にして目を泳がせる高良の様子に何か察したのか、雪見は静かに職員室から出るよう促した。
お互い無言だった。静かな校舎内に二人分の足音だけを響かせて、そのまま近くの会議室に通された。普段入ることがない教室には円を描くように配置された長机と椅子、ホワイトボードくらいしか置かれていない。当たり前のように人影もなく、ここなら人目を気にせず話ができるだろう。
「何があった?」
ドアの閉まる音を聞いてから雪見が切り出した。その目は真剣そのもので、人目を避けた時点でおおよそ話の内容が予想できているのかもしれない。
にわかに身体を強張らせ、高良は先ほどの出来事を自分でも驚くほど素直に口にした。
「さっきまで図書室にいたんですけど戻って来る時に〈大鏡の悪魔〉が見えて……勝手に消えるのかもわからないから一応言っておいた方がいいのかと、思って」
「……! 怪我はしてないか?」
「すぐに離れたから大丈夫です。見えたって言っても角がちらっと見えたくらいだし」
「そうか。ならいいんだが。……あいつを待っている余裕はなさそうだな」
雪見はぽつりと呟くと、それきり何事か考え込み始めてしまった。
勝手に教室から出ていくわけにもいかず、かと言って声をかけるのも躊躇われ雪見の方を見つめてみたが、なるほど顎に手をやり悩む姿も様になる。女子生徒たちが黄色い声を上げたくなる気持ちがわかりそうだ。
手持ち無沙汰にしばらくそうしていると、さすがに視線に気が付いたらしい。雪見はばつが悪そうに言った。
「……ああ、すまない。あとは俺が対処するから、相模はまた巻き込まれる前に帰った方がいい」
「……そうですね」
見えるだけの自分にできることなんて何もない。邪魔をしたくないのなら大人しく帰るべきだ。
わかっていたはずなのに、一瞬でも何か手伝えたら――と、思ってしまったのが間違いの始まりだったのかもしれない。
「……え?」
突然聞こえてきた音に高良は辺りを見回した。
「どうかしたのか?」
「今、何か聞こえませんでした? ……鈴の音、かな」
ちりん、と空気を震わせる涼しげな音は鈴だったように思う。甲高いというより穏やかで、転がるような音だ。昔どこかで同じ音を聞いた気もするが、それがどこなのかは全く思い出せそうにない。
「鈴?」と雪見が首を傾げると、再びどこかで鈴が鳴った。
「確かに聞こえるな。一体どこから……?」
「近い、気はするんですけど」
「それは?」
そう言って雪見が指差したのは高良の鞄にぶら下がる鈴の根付だった。古いもののため鈴の輝きは鈍く、紐の部分もずいぶん色褪せてしまっている。確かに、音の出処としてこれを疑うのは当然だ。鞄に括られていては簡単に揺れるし、閉め切られた室内でも音は聞こえる。
だが、それはあり得ない話だ。だってこの鈴は――
「これじゃないですよ。鳴りませんから」
「鳴らない?」
「はい。中に玉が入ってないんです」
幼い頃からお守りとして持っていたこの鈴は中に玉が入っていなかった。穴をこじ開けた形跡もないため、理由は知らないがはじめからそういう造りなのだろう。ぶつかるものがなければ音が鳴るはずもない。
「ほらね」と高良が指で弾いてみせると、それは爪とぶるかる乾いた音……だけでなく、どういうわけか先ほどと同じ涼しげな音を響かせた。
「なんで……」
言葉を失くす高良を笑うよう、再びちりんと鈴が鳴る。
それが合図だった。
「え?」
凪いだ水面に風が吹いたかのように、さぁっと世界から色が失われていく。窓から差し込む夕日も、それに照らされる室内も、目に映る全てがモノクロに染まる。
瞬き一回。
それが高良の世界から色を奪うのにかかった時間だった。