羽化に唇 ▽▽▽ ( UNION / GARDEN )

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 念のため、今年度に入って初めて有給を取った。あいつと同居し始めてから既に数ヶ月が経っていて、繁忙期からもゆるやかに抜けつつあるときだったので助かった。
 体調がすぐれないので明日も大事を取って休みたい、有給を充ててほしい、と連絡をすると、上司はまったく疑う様子もなく「これまで残業続きだったからなあ。ゆっくり休めよ。なんなら明後日くらいまでなら有給取って大丈夫だから」と言ってくれた。有難い。その厚意に甘えて、奇跡とも言える三連休を獲得する。
 先走って休みだけ確保してしまったものの、さて、病人に対してすべきことは何だろうか。
 なるべくあいつの言っていたことを考えないように意識の外に置きながら、新しく氷を作るために冷凍庫から製氷皿を取り出す。
 俺が小さい頃は、風邪をひくと必ず母親がつきっきりになってくれて、おかゆを作ってくれたりこまめにタオルを取り替えてくれたりしていた。よく考えたら俺は相当恵まれてるな。
 子供みたいに世話を焼いても嫌がられてしまうかもしれないので、とりあえず布団に寝かせておいたそいつの様子を見に戻る。声を掛けると、そいつが熱にうかされながらも俺の方を見上げようと必死になるので慌ててそれを制する羽目になった。
「おい、無理すんなって」
「んん……ぅ、あたまいたい……」
「バカ寝てろ! ああもう、悪かったよ声掛けて。なあ、飯食えるか? せめて薬は飲んだ方がいいと思うぜ。近くの薬局まで往復三十分くらいかかるから少し待たせちまうけど」
 さっきはとにかく慌てていて気付かなかったが、解熱剤がいるのではないだろうか。そして、コンビニに薬は売っていない。
 返事を待っていると、そいつはゆっくりと首を振った。また金の話でもするつもりかと僅かに身構えたがそんなことはなく、そいつの口から出てきたのは「……薬はいいから、おれのこと置いていかないで……」という言葉だった。
「いや、置いてくも何もここは俺の家だし、帰ってくるっつの。何言ってんだ」
 上手く動揺を隠せただろうか、とひやりとする。普段のこいつになら看破されていたかもしれないが、今日は熱で思考が回っていないのか、駄々をこねるように首を振るばかりだった。
「あーもう……仕方ねえな。分かったよ、とりあえず家からは出ねえから、何か食え。何がいい? ゼリーとおかゆと……あ、あとりんごと桃缶あるぜ」
「……りんご」
 ぽそりと一言だけ返ってきて、返事をするのも辛いのだろうなと自然と眉根が寄った。様子を見るに物を咀嚼するのも億劫そうだと思ったので、不器用ながらりんごの皮を剥いて、普段は大根おろしを作るときにしか使わないおろし器でりんごをザリザリとすりおろす。たったそれだけのことをするのに五分以上かかっていて驚いた。どれだけ慣れてないんだ俺は。
「孝成さん、包丁……だいじょうぶ、だった?」
「バカにしてんのかお前。ほら、食え」
 そいつの体をそっと抱き起こす。やっぱり熱い。
 実は皮を剥いているときに薄皮一枚分だけ切ってしまった左手の親指がばれませんようにと祈りつつ、すりおろしたりんごをスプーンですくってそいつの口元に持っていった。
 一人で食べられるだの何だの言われたらどうしようかと思ったが素直に口を開けたので、隙間からそっとスプーンを差し込む。ゆっくりと喉仏が上下するのを見て、ひどく安心した。
「食ったらすぐ寝ろよ」
「……出掛けたりしない?」
「しないっつってんだろ。ほら、手握っててやる」
 白い指先をまとめて握ると、そいつは潤んだ目を細めて笑った。差し出されるままにりんごを食べて、ガラスの器を綺麗にすると小さな声で「いなくならないで」と呟いてから眠りに落ちた。
「……だから、お前がそれを言うのかっつー……」
 先程感じた動揺を悟られなくてよかった。一瞬、自分の思っていることを言い当てられたのかと思った。俺は、こいつがふとした瞬間にいなくなってしまいそうで不安なのだ。
 仕事が終わったら毎日電話をかけるのも、こいつが夕飯を作りやすいだろうともっともらしい理由を作ってはみたが要するに、ちゃんと家にいるかどうか確認したかったというのが大きい。
 今日帰ったらいなくなっているかもしれない。
 最近は、そんなことを毎日思っている。
 名前も歳も知らない。住所も知らない。こいつは携帯電話だって持っていない。こいつを俺の家に繋ぎとめるものなんて何も無い。
 風船みたいだと思った。ふわふわしていて、きちんと掴んでいないとすぐ飛んでいってしまう。手の届かないところに行ってしまう。せめて出ていく前に一言くらい残していってくれるだろうか。いや、そういうのはこいつは嫌がりそうだ。
 そういうもの全部、こいつにとっては煩わしいものなのかもしれない。
 熱っぽい呼吸音が聞こえる。手のひらは僅かに汗ばんでいる。そんなことを今更実感して、ああ、どうやらやっと冷静になれたらしいと一人で笑った。
 寝顔を見ながら、目の前のそいつの発言について考える。戸籍が無い、だったか。それが事実だとすると、まあ、こいつが最初に「名前が無い」と言っていたのも説明がつく。戸籍が無いとなると十中八九住民票なども無いだろうし、税金の類も払っていないだろう。そもそも国民として登録されていないのだから払えるはずもない。病院にもかかれないで、こいつは今までどうやって生活していたのだろう。こうやって、一人でじっと耐えていたのだろうか。
 果たしてこれは俺の踏み込んでいい領域なのだろうか。
 こうやって、こいつにとって重要であろうことをまたひとつ教えてもらえたのは嬉しい。けれど、それについてとやかく言おうものならこいつは嫌がる気がする。きっと、俺はこいつに何も聞かないから楽でいいと思われているはずなのだ。
 面倒ではないから。
 別れが寂しくならないから。
「……お前が、面倒じゃない俺がいいっつーならそれでいいから、治るまではここにいろよ……」
 小さく囁いた。こいつの辛そうな顔は見ていられない。
 存外強い力で手が握り返されていることにまた少し笑って、俺はそいつの額にかかる髪をそっと払った。

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