羽化に唇 ▽▽▽ ( UNION / GARDEN )

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 次の休みで、布団を買った。その次の休みで、服を増やした。あいつは俺が一緒に買い物に出たときでないと相変わらず自分のものは二の次にしようとするので、必然的に俺が休みの日は一緒に外に出かけることが増えた。
 昔なら、仕事も無いのに、おまけに自分の用事ですらないのに外出なんて、と思っていたかもしれない。けれどこれが不思議と楽しい。あいつと一緒だから楽しい、のだろうか。そうだとしたら俺かなり面白いことになってんな。どんだけ気に入ってんだよ、あいつのこと。
「おかえりー、もうすぐ飯できるから待ってて」
「ただいま。……なんか帰ってくるたびに部屋がぴかぴかになってんだけど」
「あ、フローリングにワックスかけたから。すべすべだよ」
「お前凝りすぎじゃねえ……? 無理すんなよ」
「色々やってもらってるし、これくらいはね。恩返しだと思ってー」
「俺がやりたくてやってんだよ」
 あまりいい人すぎる人物像を勝手に構築しないでほしい。そんな、誰にでも優しい聖人君子ってわけじゃねえんだから。
 ふと顔を上げてこちらを向いたそいつの顔が、いつもより白く見えて少し違和感を覚える。
「……お前顔色悪くねえ?」
「え、そお? 孝成さんっておおげさ! 最近暑いからかなー、夏バテ気味なんじゃない?」
「あー、お前気を付けろよ。ちゃんと休めよ」
 やっぱ孝成さんやっさしー、なんてふわふわ笑うそいつ。
 過保護すぎたか、と一瞬思ったけれど、俺はこのときもっとちゃんとこいつを見ておけばよかったと、後悔を抱えることになる。


 次の日、目が覚めてすぐ違和感を覚えた。いつもなら、あいつが朝飯の準備をしているはずだった。そうでなくとも何かしらの生活音はしているのが常になっていた。それなのにとても静かで、俺はてっきりあいつが寝坊でもしたのか、まあたまにはあいつも休んだっていいよな、なんて軽く考えていたのだが。
 膨らんだ布団の方から、やけに荒い呼吸音が聞こえてくるのに気が付いた。
「おい、起きてるか?」
 近付いてみると、ヒューヒューと喉を空気が通り抜ける音がする。
 とてつもない嫌な予感。布団をめくるとぼやけた瞳と目が合った。「……ご、めんね、今起きるから……」声は途切れ途切れで、吐き出す息は湿っていて。じんわりと滲む汗で髪の毛が頬に貼りついている。
 手を当てると、額が熱い。
「お前……! 風邪ひいてんだろ、熱あるじゃねえか!」
「ご……ごめん……ちょっと、油断しちゃった、かな……」
 どうしよう、感染すとまずいからおれ出ていくよ、と立ち上がり一歩踏み出したそいつは、よろめいて壁に手をついた。
「出ていくってそんなふらふらで無理に決まってんだろ! 早く病院に……」
 今日が休みで本当によかった、と思った。休日を惜しむ気持ちはまったくと言っていいほど湧かない。俺は自分で思っていたよりも、こいつのことが心配だし大切に感じているらしい。
 こいつのために使う時間なら惜しくはない。もはや自分のなかで、赤の他人だったはずのこいつが体調を気遣うような相手であり、大事な同居人になっていることは明らかだった。
 そいつの体を支えようとしたのだが、伸ばした手をぐっと押しのけられて戸惑う。
「ごめん……病院は、無理」
「無理、って」
 この期に及んで金の心配でもしているんだろうか。今更そんなことを言わないでほしい。そのくらい頼まれなくても俺が出すのに。
 けれどそいつは息も絶え絶えに、まったく俺の予想していなかったことを言った。
「保険、入ってない……んだ……」
「は……?」
 そいつは今にも消えそうな小さな声で、「……おれ、戸籍が無いから」とだけこぼした。そして、限界がきたのか意識を失う。
「お、おい……!」
 ぐったりともたれかかってくるそいつをとにかく布団に横たえる。上着を羽織るのも忘れて、財布だけ持って外に飛び出した。
 一番近くのコンビニなら往復で五分もかからない。氷とスポーツドリンクと何か食えるもんと、後はなんだ、ビタミンCか。栄養ドリンクとかも。ゼリーとかは大丈夫だろうか。
 コンビニで、思いついたものを手当たり次第買ってまた走って家に急いだ。走っている間にも、倒れる瞬間にあいつが言っていたことが脳内にぐるぐると渦巻く。
 戸籍が無い、とあいつは確かにそう言った。
 もしかして、名前が無いってそういうことだったのか。いや、そもそもなんで戸籍が作られてないんだ。
 家に帰ると、相変わらずそいつは苦しそうに熱い息を吐いていた。洗面器に氷水を入れ、タオルを浸して硬く絞る。それを額に乗せれば、うっすらと目を開けてそいつは俺を見る。
「あ、れ……? 孝成さん、どうしたの……」
「どうしたって、風邪によさそうなもん買ってきたんだよ。ほら、これ飲めるか?」
 ペットボトルのスポーツドリンクを差し出すと、咥内が乾いていたのかピンク色の舌が一度唇を舐めて「……ごめんね」と声を落とす。
「洗濯、まだやってない……孝成さんのご飯もつくらないと」
「バッカその状態でできるわけねえだろ。具合悪いときは寝てていいんだよ」
「でもおれ、ちゃんとしないとここにいる意味なくなっちゃうよ」
 その言葉は何故だかいやに切実そうに聞こえた。こいつが来てから俺の家は確かにいつでも綺麗で清潔で、洗濯物も食器の洗い物も溜まっていなかったし、毎食手作りの飯が食えていたのだが。
 だからといってそれがほんの数日できなかったくらいでいる意味がなくなるとか、そんなことは絶対にないのに。
 いる意味って、なんだよ。俺は確かにお前が家事をしてくれて助かってるけど、それだけじゃなくてただ一緒に喋ったりするのとかだけでも結構楽しいもんだなって思ってたぞ。家に、自分の帰りを待っていてくれる奴がいるってだけでも嬉しかった。
 なんとなく悔しくなる。こいつにとっては未だに、「この家に置いてもらってる」という感覚なんだろうか。複雑な気持ちだ。
「お前、俺が病人もこき使うような鬼畜に見えんのか」
「そ、うじゃない、けど……」
「だったら今は寝とけ。んで、早く治すことだけ考えときゃいいんだよ」
 もう一度ペットボトルを押し付ける。そいつが躊躇いがちにペットボトルを傾けて、喉仏が上下するのを見届けてから俺はようやく人心地ついた。
「……別にお前のこと、いつでも完璧な家事ロボットみたいには思ってねえよ。具合悪けりゃ普通に心配する。……早く元気になれよ」
 顔にかかっていた髪の毛をできる限り優しく払って頬に手を当てる。まだ熱い。っつーかこいつの髪なんかふわふわしてんな。
 柔らかい髪の毛を撫でていると、思わずといった風な笑い声に「くすぐったいよ」という言葉。
「ごめんね、ありがとう。……元気になったら孝成さんの好きなもの、つくるから」
 俺の聞き間違いでなければ。
 その声は少しだけ、泣き出しそうに震えていた。

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