羽化に唇 ▽▽▽ ( UNION / GARDEN )

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 片手ではできることも限られてくる。俺の手を握って縮こまるように寝ているそいつを起こさないように、俺は息すら殺していた。
 不思議とそいつの寝顔を見ているのは飽きなくて、時折寝苦しそうに身じろぎするのを心配しつつも額のタオルを定期的に取り替えて時間を潰した。右手の握力だけでタオルを絞ったのでかなりぎこちない。
 本当はこいつが起きたときのためにおかゆでも作っておきたかったのだが、もしこいつが次に目を覚ましたとき、俺が傍にいなかったら傷付くんじゃないだろうかと思ってできなかった。
 いや、子供でもあるまいし、たかだか数メートル離れたキッチンにいたからといって何だと思わなくもないし、自惚れるなとも思うが。さっきの必死の訴えを聞いた後では何が何でも傍にいなければとそう感じる。
 あんな風に縋られては、離れられない。
 なんつう顔するんだ、と思った。まるで迷子の子供のようではないか。
 空いている方の手で髪を撫でる。最初は、男が男に何やってんだと自分にツッコミを入れていたのが嘘のようだ。指通りがよくて、柔らかい髪だった。ゆるくて適当そうな雰囲気に反して一度も染めたことのなさそうな黒髪は、今は肩甲骨の辺りまで伸びてきていた。最近だと、中途半端な長さよりもこっちの方が結べるから邪魔にならない、なんて輪ゴムでくくっていることが多い。
 まあでも、実のところ、美容院代を出してもらうことに遠慮しているだけなのかもしれない。輪ゴムだって、痛いだろうからちゃんとしたのを買おうと言ったのに「おれ物すぐ失くしちゃうからー」なんてへらへら笑って返された。
 あんなに整理整頓と掃除が得意な奴が、物をすぐ失くすなんて。そんな嘘、すぐにバレるだろ。バカ。
 だから、今日にでも俺が適当に買って押し付けようと思っていたのだ。文房具を束ねるために買ったやつの余りだ、とでも言って。これもバレバレの嘘だが、贈り物を突っ返すような奴ではないから。
 俺は、じわりと滲む汗で頬にはりつくそいつの髪を、自分の持てる最大限の優しさを込めて払う。整った顔立ちだなと改めて感心した。暑そうだったので、前髪も真ん中分けにして顔にかからないようにする。
 ふと、目にとまったのはいつだったかも気になったピアスホールだった。じっくり観察してみるとそれはもう随分と古いものらしく、左耳にみっつ連なった小さな傷痕のようなそれにほんの少しどきりとする。
 何故だか、手を伸ばしてしまった。
 熱があるというのに耳たぶはひんやりとしていた。薄い耳たぶだ。一番下から、ひとつ、ふたつ、と親指の腹でなぞるように撫でていく。そいつの体に穿たれた穴を確かめるように、触れた。
「ん……っ」
「っ、うわ、やべ」
 悩ましげな声に思わずこちらも声をあげてしまった。慌てて言葉を呑み込んで、そいつがまた穏やかな寝息をたて始めたのに安堵する。起こさなくてよかった。おまけに、何をしているのかと聞かれてしまったら上手く答えられる気がしない。
 いや、何やってんだよ俺はほんとに。
 心臓の音が煩い。こいつが声を出してくれてよかった。何もなければずっと耳を触っていたんじゃないだろうか。どんだけ危ない奴なんだ。
 内心冷や汗をかきながら、俺は今度こそ大人しく、そいつの目が覚めるのをじっと静かに待つのだった。


 結局そいつは、それから二時間余りして目を覚ました。どうやらりんごだけでも胃に入れたのがよかったらしく、あの熱にうかされたようなふにゃふにゃした喋り方ではなくなっている。
「……おれ、何か言ってた?」
「は? 何かってなんだよ」
「いや……意識朦朧としてて記憶が定かじゃないっていうか、あの、あんまり気にしないでね。ちょっとおかしくなってたかも」
 珍しく顔をしかめてそんなことを言うそいつ。覚えてないのか、と少し残念に感じてしまったのは気のせいだと思いたい。
 あんな、どこにもいかないでなんて漫画やドラマの主人公しか言ってもらえないような台詞が嬉しかった自分はさぞかし気持ちが悪い奴だろう。
 けれど俺は、いくらそいつが熱にうかされて訳の分からない状態で言ったことだったとしてもそれを尊重してやりたかった。
 薬と食材を、携帯からネット注文した。割高だがもちろん超特急で届けてもらう指定だ。かなり無茶をして、今日の夕方に届く便にしてもらった。きっと夜になるとまた熱が上がるだろう。そのときに薬が無いと今度こそ困る。
「あー……ほんと、最近だめだ……気が抜けてる」
「疲れが出たんじゃねえの。お前、根詰め過ぎっつーか気負いすぎ。もうちょい適当でいいんだって」
「……常に気合い入れとけば風邪なんてひかないもん」
「なんだよその昭和の精神論者みたいな発想は」
 思わず笑みがこぼれる。こいつは、色々とギャップがありすぎて面白い。
「なあ。腹減らねえ? おかゆ作ろうと思うんだけどよ」
「え……孝成さん大丈夫? 鍋焦がさない? おれちょっとまだ後始末できるほど回復してない……」
「どんだけ失礼なんだお前は。ネットで調べて作るっつーの」
 俺は、なんだかんだ言いながらそいつの瞳が嬉しそうに輝くのを見逃さなかった。ここまで喜んでもらえるとやりがいもある。
 俺は、名残惜しさを感じながらも口を開く。
「っつー訳でだ」
「? なに?」
「……手、そんな熱烈に握られてると立てねえんだけど」
「え、……っ! ご、ごめん!」
 思わず、といった様子で大声を出したそいつは自分の声に頭痛がしたのか額を押さえて呻いてしまう。ああもう、別に気にすることねえのに。 
「風邪だと不安になるよなあ。俺もガキの頃は、寂しい思いをしたもんだ」
「あ、あの、フォローしてくれなくていいから……」
 この暑いのに布団を頭から被ってしまったそいつ。なんだよ、かわいいじゃん。
 すぐ作るからな、と言って立ち上がる。小さく「ありがと……」と聞こえて律儀だなとまた笑った。
 戸籍の話題には触れない。触れられるわけがない。
 たぶん、聞かれたくないと思ってるはずだ。あのタイミングで言ったのは、俺が無理にでもこいつを病院に連れて行ったりして、無駄足を踏まないようにという苦渋の決断だったのだろう。
 だったら、こいつが言いたいと思うまでは聞かない。
 聞いてしまうことでこいつがここに居づらくなるくらいなら黙っていよう。
 こいつにとって安心できる場所が、この家になればいいのに。そんな風に考えながら、俺はおかゆの材料にする卵を探して冷蔵庫の扉を開けた。

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