羽化に唇 ▽▽▽ ( UNION / GARDEN )

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 それからというもの、そいつは段々と自分は何が好きなのかとか、逆に何が苦手なのかとか、そういうことを話してくれるようになった。
 少しずつ気を許されてきているようで嬉しい。男に対してこんなことを思うだなんてなんだか愉快な話だが、俺は随分とこの不思議な男のことを気に入ってしまったらしい。
「お前、まだ寝ないのか?」
「待って、もうちょっと……うん、大丈夫」
 寝る前の家事なんてもっと手を抜いたっていいのに、そいつは真面目にコンロ周りの汚れを綺麗にしてから振り返った。
 近頃は、隅っこに縮こまるようにして寝ていたのも少しずつ改善されてきたように思う。それはよかった。よかったのだが、俺にはまだ気になっていることがある。
「お前床で寝るの硬くねえ?」
「んー、ほら、孝成さんがくれた毛布あるし」
 確かに冬用の毛布を引っ張り出してはきたものの、床に敷くなんてまったく本来想定されているはずもない使い方だし、きっと体も痛いだろう。夏だと言っても、薄い掛け布団くらいは無いと風邪をひきそうだ。
「……よし、分かった。おい、お前ちょっとこっち来い」
「え、ちょ、なに」
 慌てるそいつの腕を引き、俺の使っている布団の上へと連れてくる。勘違いしないでほしいのだが、これは添い寝ではなく雑魚寝である。雑魚寝と言うには二人きりという人数の少なさだが、語感は添い寝よりいいだろう。男二人で添い寝って、笑えねえし。
「うーん……まあ、床よりはマシか」
「た、孝成さん? 何やってんの?」
 そいつは急なことにおろおろしているようで、それでも俺の手を振り払ったりしない辺りが、気を許されているのか遠慮されているのかどっちか分からない。いつかはっきり前者だと言えるようになればいいんだが。
 本当はかなり前から痛そうで気になっていた。何故今更、と言われると、今なら受け入れてもらえそうだと思ったからだ。
「体、痛いだろ。こっちで寝ろよ」
「えっ!?」
「あーくそ、やっぱ収納スペースケチらず買っときゃよかったな、布団。まあこの敷布団結構広いし、我慢してくれ」
 俺は太っているわけでもないし、寧ろこいつに至っては平均よりも細いくらいだろうから、きっと問題無いだろう。冬ならもっとよかったんだけどな。
 一応、敷布団の中心に対して背中を向けて寝そべる。いや、向かい合うのもおかしいだろ。これがベストポジションなんだよ、俺が思うに。
 そいつは未だに身の置き場が分からないでいるようだったが、「俺の心配を受け止める広い心でよろしく頼むぜ」と声をかけると、観念したらしくそっと俺の隣に体を横たえた。
 はたしてこちらを向いているのかどうかは分からない。空気越しに体温だけが感じられる。不思議なことに、呼吸音すら微かだった。
 こいつは動作が静かだ。たまに、いるのかいないのか不安になる。
 ふいっといなくなってしまいそうな感じがするのだ。
 こんな風に生活を共にするようになってもう結構な時間が経つけれど、未だにこいつについて詳しい情報は何も分からない。こいつは前に、「名前とか年齢とかは聞かないでいてくれる」なんていかにも素晴らしいことみたいに言っていたが、それは俺が優しいからというわけではないのだ。ただ単に、ほんの少しの間住まわせるだけの人間だからそこまで気にかけることもないだろうと思っていただけ。
 素性も知れない男と暮らすだなんて、すぐに嫌になるだろうと思っていた。ほんの二、三日だけのつもりだった。
 けれど、予想外にこの生活は心地いいし、ほんの少しずつでもこいつが俺に心を開いてくれているのではと思うと嬉しい。なんなんだろうな、これ。懐かれると嬉しいって感じか?
 なんとなく、こいつが他人の家に住み着くことを許される理由が分かる気がする。静かで柔らかくて温かい。これまでこいつを家に住まわせていた奴らも、俺みたいに感じていたのだろうか。
 困ったことに、こいつに対して無関心でもいられなくなった今となっては、こいつの素性やら何やらも気になってしまっている。ようやく信用を得てきたというのにこれがバレたら色々台無しになりそうだ。
 でも。名前を呼びたい、と思った。
 聞いたらこいつはこの家を出ていくのだろう。それはほぼ確信に近い予想だった。自分のことを話したがらない、自分の持ち物を増やしたがらない、そんなこいつのとりそうな行動だ。
「なーんだ、孝成さんもだめになっちゃったね」
 そんな風に言って、何の未練も残さずいなくなるのだろう。別れが辛くならないうちに。傷が深くなる前に。
 自分の内側の深いところに相手を許せば許すほど、その相手がいなくなったときの穴が大きくなってしまうから。
 いつだったか、まだこいつが今ほど俺に気を許してはくれていなかったであろうとき。こいつは、「あんまり一緒にいることに慣れちゃうと寂しい」と言ったのだったか。いつか別れるのだから寂しい、と。
 ちりちりと胃の奥に違和感を覚える。俺の後ろで静かに息をしているこいつの、笑った顔は好きだ。でも、時折見せる、寂しいとも苦しいとも形容し難い表情はなんだかこっちまで悲しくなってくるから困る。
 普段の俺にしてはかなり真剣にそんなことを考えて、けれど睡魔には抗えず。
 俺は背後から聞こえる、微かすぎる呼吸音に耳をすませながら意識を落とした。
 ああ、「おやすみ」って言えばよかった、なんて、まどろみの中で少しだけ後悔しながら。

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