羽化に唇 ▽▽▽ ( UNION / GARDEN )

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「ただいま!」
 バンッ、と思いの外大きな音をたてて扉を開けてしまって、隣近所から苦情が来なければいいがと少しだけひやりとする。時刻は十時半を少しまわったところだ。繁忙期にしては及第点だろう。
 年甲斐もなく駅から自宅まで駆け足で帰った。じっとりとシャツが肌に貼りついて気持ち悪い。風呂で汗をさっと流すだけでも、と一瞬思ったが、クーラーの効いた室内と、おそらく何も食べずに待っていてくれたのであろう目の前のそいつに、いやいや食事が先だろう当たり前だと考え直す。
「なに、孝成さんめっちゃ息荒いんだけど。そんなに腹減ってた?」
「お前の飯が楽しみだった、って言ったらどうよ」
「めちゃくちゃ嬉しいね、それ」
 おどけた風にそう言って、そいつは「おかえりなさい、仕事お疲れ様」と続けた。
 じわりと胃が温かくなる感じがする。
 どうやらあと五分くらいで食事ができるとのことらしい。スーツの上着をハンガーに掛けながら、たぶん走って帰ってくるとは思わなかったんだろうな、と俺の帰る時間に食事をぴったり合わせようとしてくれるそいつの気遣いを嬉しく思う。固定電話を残しておいてよかった。一人暮らしの身ではたして必要だろうか、と解約も視野に入れていたのだが、今では仕事が終わると必ず自宅に電話をかけている。
「今日めっちゃ暑かったよねー、おれ無駄にスーパー歩き回っちゃった。涼しくて」
「別に俺がいなくてもクーラーつけていいっつったろ。熱中症でぶっ倒れたらどうすんだ」
「水分補給はしてるってば。まだ夏本番ってわけでもないし大丈夫だよ」
「でもよ……」
「もー、しつこい。ほら、もうすぐできるから待っててね」
 子供をあやすような口調に釈然としない気持ちにさせられた。こいつは、俺が家を出た直後にクーラーを消して、俺が帰ってくる十分前くらいからクーラーをつけているらしい。別につけっぱなしにしててもいいのに。
 どれだけ生活費が増えるだろうかと少し心配だった部分もあったのだがそれはまったくの杞憂で、寧ろ食費に関しては食べるのが一人から二人になったにもかかわらず、倍増どころか一人頭で使う額は寧ろ減ったくらいだった。それなのに一人だった頃よりも断然豪勢な食事をしている。魔法みたいだ。
 だから、こいつにも快適に家で過ごしてほしいのに。そりゃまあ、常識外れの温度に設定したクーラーをがんがん効かせられても困るけど。一日五回も風呂に入ったりされたら流石に嫌だけど。
 そんなことはしない奴だって、もう、ちゃんと分かってるつもりだ。
「孝成さーん、運ぶの手伝って」
「ん、分かった」
 汗もひいて、俺はいつものようにコップと麦茶と、あと粉チーズをテーブルに出す。ちらりと横目に見れば綺麗に盛り付けられたスパゲッティと、ミートソースが美味しそうに湯気をたてていた。
 そうだ、こいつの好きなものが教えてもらえるのだろうか、とキッチンの上を視線だけで探ると、ミートソースの鍋のすぐ横の手鍋に、黄色に近いクリーム色のスープが入っている。
「コーンスープだ」
 思わず声をあげるとそいつは俺の方をちらりと見て、気恥ずかしそうに笑った。
「ん……とうもろこし、旬だから」
「お前、これ好きなのか」
「……うん。なんかさぁ、あったかいものが胃に入ると安心する。自販機とかでもよく売ってるから、たまに買って飲んでたよ。つぶ入りのやつがすき。甘くて優しくておいしい」
 ああ、頑張って伝えようとしてくれているんだな、と思ったら、なんだか心臓がぎゅっとした。
 コーンスープの表面に張った膜をおたまでかきまぜながら、そいつがまたへにゃりと眉を下げる。
「孝成さんが、真面目に聞いてくれたから。おれも真面目に答えるよ」
「おー……それ、手作り?」
「手作り! ……孝成さん、こういうのすき? もっと腹に溜まるやつのがよかった?」
 少しだけ不安そうにこちらを見上げてくるそいつは、思わず頭を撫でてやりたくなるくらいの、なんというか、保護欲みたいなものがかき立てられる表情で。
 まあ、流石に俺がそれをするのは気色悪いし、それならせめてと自分にできるなるべく明るい顔で「俺も好きだから心配すんな。っつーか、お前が作ったのならなんでも美味い」と言うにとどめる。
「は、はやく食べよう? ほら、冷めちゃうから」
「何お前、照れてんの」
「分かってるなら言わないで……孝成さん最近ぐいぐいくるからちょっと驚く」
「あん? お前がいつまでも遠慮してる風な顔してっからだろ。こっちから距離を詰めてやろうとしてんだって。嫌なら言えよ」
「別にいやじゃないけどさぁ」
 食卓に綺麗に並んだ料理を前にそいつは尚も口をごにょごにょさせていたが、俺が手を合わせるとふわりと笑って自分も手を合わせる。
「いただきます」
「いただきまぁす」
 こいつの作るミートソースは肉が多め。しっかり味がついていて、ひき肉にボリュームがある。サイドメニューがスープにサラダと軽いものだったので、そこを考慮してくれているのかもしれない。要するに今日も美味い。粉チーズを振るとまた違った風味が出て、思わず夢中で食べてしまった。
「なあ、分かっただろ」
「え? なにが?」
「別に俺の要望ばっか聞かねえでもいいんだって。お前の好きなものもっと教えろよ。俺も食ってみたいし」
「あー……じゃあ、こう、これからはおれのすきなものもちゃんと出すね。孝成さん、きらいだったらちゃんと言ってね」
「おう。やっと言う気になったか」
 なんだかとても満たされた。胃も、気持ちも。
 この調子で、こいつもこの家であまり遠慮をしないようになればいいなと思う。コップひとつ使うのにもいちいち俺の許可を取ったりしないで、自然にそうであるように生活ができるようになればいいなと思う。小さくならずに、のびのびと眠れるようになればいいなと思う。いや、最後はこの家があまり広くないから、思うようにのびのびできないかもしれないが。
 スパゲッティを夢中になって食べて、スープも綺麗に飲み干して、俺は一息つく。
「ごちそうさん。やっぱ手作りっていいよな。なんか違うんだよな。うまく説明できねえけど」
「はは。孝成さんって案外ロマンチストだね。まあ、手間暇かかってるからその分味にプラスされてるのかもよ?」
「ふぅん。料理は愛情っつーもんな。なかなか続けられるもんでもねえだろうし」
 俺なんか自分のために作るのだって全然だったのに。
 そう言いつつ、まだ大事そうにコーンスープをスプーンで掬っているそいつを見る。
「孝成さんは残さず食べてくれるからすきだよ」
「そりゃどうも」
「ほんとに、皿とか全部綺麗だし……嬉しい」
 もうちょっと練習するねと言うそいつ。そういえば、料理よりは掃除や洗濯の方が得意だと自己申告していただろうか。俺はそんな高尚な舌ではないので、どれも美味い美味いと言いながら食べるだけだ。
 あまりにも同じことしか言わないので作り甲斐が無いとか思われていたらどうしようと実は少しだけ不安だったのだが、苦ではないようで安心した。
「何度も言わせんなって。お前の飯毎日美味いし、いつも助かってるよ」
「……へへ。ありがと」
 そいつがあまりにも嬉しそうに笑うものだから。胃が満たされたこととの相乗効果なのかとても幸せな気持ちになって、俺は「今日は俺が皿洗う」と素早く席を立つ。「おれの仕事なくなっちゃう」なんて焦ったような声が聞こえたから、「後はゆっくり休むのがお前の仕事だろ」と返しておいた。

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