羽化に唇 ▽▽▽ ( UNION / GARDEN )

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 共同生活は順調だった。あいつの家事は完璧だったし、やれ洗濯だ洗い物だとこれまで俺が悩まされてきた様々なことを先回りしてやってくれる。俺は、家にいてまったく何にも煩わされることがない。
 他の奴から見ればどうなのかは分からないが、少なくとも俺にとっては十分すぎるくらいにこの家は快適だ。
 はたから見るととても奇妙なこの生活を続けているうちに、俺にも少しずつ分かってきたことがあった。まず、あいつはかなり警戒心が強い。そして、頑固だ。俺があいつの為に何かしらを買おうとかいう話をすると必ず渋い顔をする。自分個人のものをあまり増やしたくないのだと言っていた。食費の残りを個人的なものに自由に使ってくれと提案したときも、「そのくらいの金は持ってる」なんて返してきたくらいだ。その直後の買い物で判明したが、あいつはそのくらいの金すら持っていなかった。行き当たりばったりにも程がある。
 きっと、弱味を見せるのが嫌なのだろうなと思う。
 俺は人の心の機微にそこまで聡い方でもないが、なんとなく、気安く触れてはくるくせにこちらからは踏み込ませないような一線を持っているなと感じた。
 何故あいつがこんな、他人の家を渡り歩くような生活をしているのかは分からない。分からないが、あいつの綺麗な笑顔はそれを「聞くな」と雄弁に語っていた。本心を綺麗な表情でくるんで、他の奴に知られないように大事に抱え込んでいた。
 言いたくないものを無理に言わせるのもなんだかなと思うので今のところはそっとしている。そろそろ少しくらい打ち解けてくれてもばちは当たらないんじゃないかと思うくらいは許されるだろうか。
「孝成さーん、今日の夕飯何がいい?」
「あー……別になんでも」
「なんでもいいが一番困るんだけど……もー、せめて肉か魚かだけでも言って! それとも麺類にする?」
 最初の頃は逐一食べたいものを伝えていたのだが、何が出てきても美味いからつい「何でもいい」と言ってしまう。というか、俺よりもこいつの方が断然頭の中に入っている料理の数が多いのだ。俺の脳内の貧弱なレパートリーに合わせているとひと月もしないうちにネタ切れになるだろう。だから、これは仕方のないことなのだ。
 実家にいた頃、仕事が休みの日の父親が夕飯の準備をしようとする母親に対して、今の俺と同じく「なんでもいい」なんて言っていたのを思い出す。うーん、血は争えないということか。
「あー、麺類いいな。俺あれ好きなんだよ、ミートソースのスパゲッティ」
「おれも好きだよーミートソース。じゃあ今日はそうしよっか。粉チーズ買ってきとくね」
 パスタはらくちんだから他に何か作ろうかな、なんて言っているそいつ。俺は未だに、こいつを何と呼ぶか決めあぐねている。名前は無いからどう呼ばれても返事をするとは言っていたが、そういう問題じゃないだろう。
 俺はこれまでの人生でペットの名前すら決めたことがないのだ。それをいきなり人間だなんて荷が重すぎる。それに何より、好き勝手に呼ぶことでこいつを所有物扱いしてしまっているように見える気がして躊躇っていた。
 こいつは嫌ではないのだろうか。
 居住スペースを間借りしているから、嫌だけど言えないとか。そういうのでなければいいのだが。
 まあ、今しばらくはここに居ればいいと思う。滞在期間が一週間二週間と増えるうちに、拒絶心は綺麗さっぱりなくなってしまった。こいつのことをもう少しでいいから詳しく知りたいと考えるようになって、そんな自分を意外に思ったりもする。
 聞きたいことなんて、山ほどあるのだ。
 ただ、最初は下世話な野次馬根性だったものが、こいつと打ち解けるためのきっかけを探すというものに変わった。
「……なあ、お前」
「どしたの? っていうかやっぱり名前くれないと喋りにくいんじゃない? 孝成さんは、おいとかお前とかで毎回済ませてるけどさぁ」
「バッカお前、ペットじゃねえんだからそう気安くできるわけねえだろ。っつーかそうじゃねえって、そうじゃなくて」
 俺は不思議そうな顔でこちらを見上げるそいつに、ゆっくりと言う。
「お前の好きなやつは?」
「え?」
「いや、いつも俺の意見ばっかじゃねえか。献立とか、たまにはお前の好きなもん食おうぜ。お前が作ってるんだし。お前、どんなものが好きなんだよ」
「え、と、別におれは……」
「あーあーまたうぜえこと言う気だろ。言われる前に言っとくけどな、俺に心苦しい思いをさせたくなかったら素直になった方がいいぞ。それともお前、俺に食事のたびに自分だけ好きなもん食ってて申し訳ねえなっつー気持ちを抱かせ続けるつもりか? 俺結構何でも食える方だし、お前の好きにしても大丈夫だって」
「やー、でもほら、孝成さんの家で孝成さんのお金で孝成さんの持ってる調理器具で作るんだし……」
 あまりに頑固でイラッとくる。なんだお前、それこそ世話になってるってことで俺のささやかな要望くらい素直に聞けよ。
 と、そこまで思考して俺は考えを改めた。こういうとき、こいつにどんな言い方をすればいいのかは少しくらいは分かってきたと思う。
 俺は努めて真面目な、真剣な顔で言った。
「まあ、色々言ったけどよ。要するに、お前のこともっとちゃんと知りたいんだって。俺のことばっかりじゃずるいだろ、フェアじゃねえんだよ」
 言い切って様子を窺うと、そいつは困ったように眉を下げた。かと思えば、ふいっと目を逸らしてしまう。言い方を間違えたかと内心舌を打ったのも束の間、そいつの目元にじわじわ赤みが差していくのに驚いて思わず目を瞠った。
「それはさぁー……ずるいよね……」
「そ――そうだろ。ずるいだろ、お前も教えてくれねえと」
「いやそっちのずるいじゃねーよ、あー、待って、ごめんねちょっと待ってね」
 顔あつい、と髪の毛を耳にかけるそいつの仕草からどうしてか目が離せなくて、視線がかち合って余計に気まずくなる。
「……孝成さんは、おれの名前とか年齢とかそういうのは聞かないでいてくれるし、おれがどんなものを好きかは聞いてくれるんだね」 
「は……? あー、嫌だったか?」
「んーん。記号とかじゃなくておれ自身のこと聞いてくれるんだなーって思っただけ」
 そいつは言うだけ言って立ち上がる。この話はこれで終わり、という意思表示だろう。なら、無理強いはすまい。
「今日の夕飯、めちゃくちゃ楽しみにしてるからな。今日一日それを糧に仕事するからな。覚えとけよ」
「なんで悪役みたいな台詞なの。ありがと」
 へにゃっと柔らかく笑うそいつ。俺の好きな顔だ。
 俺も気合いを入れて席を立った。今日も一日頑張ろう。なるべく残業をせずに家に帰って、こいつと夕飯を食うのが目標。
 誰かが自分の帰りを待っていてくれるというのがこんなにも心の満たされるものだとは思っていなかった。知ることができてよかった。そんなことを考えながら鞄をひっつかみ、「いってらっしゃーい」というのんびりした声に送られて家を出る。
 そして俺は、夕飯で俺の好きなスパゲッティ以外に何がテーブルに並んでいるか、通勤電車の中で夢想しつつ楽しみに過ごしたのだった。

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