羽化に唇 ▽▽▽ ( UNION / GARDEN )

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『そこでオレに裏取りしてくる辺りミナトって根暗ー』
『言わなくていいから! 分かってるから!』
 別に三浦さんの経験が少ないことを疑っているわけじゃないけど、なんで経験が少ないのかは気になる。そして、そんなこと大っぴらに本人に聞けない。となると困ったときのキイチさんである。
 メッセージを送ってみると即既読がついて、即返事がきた。三浦さんもだけど、レスポンスがめちゃくちゃ早い。かと思えば『打つのめんどいから通話でいいー?』との要望。断る理由はない。謹んでお受けする。
『アキラはさー、セックスなんかよりも他の楽しいことがいくらでもあったタイプだから経験少ないのはマジだよ。ライブの方が興奮するし気持ちいいって言ってたもん』
「そんなこと言われちゃったらもう勝ち目ゼロじゃん……いや勝とうなんて思ってないですけど……」
『っつーかあいつセックス好きじゃないって言ったの? マジかー。枯れてんね』
「興味ないとかじゃなくて好きじゃないって言ってたのがずーっと引っかかってるんですが……」
『その辺はミナトも薄々感付いてるっしょ? あいつの名誉のためにボカすけどさぁ』
「うわ、やっぱり……?」
『やっぱり。いやー、あいつが「空き教室で先輩に乗っかられてパンツ脱がされそうになった」っつって泣いて帰ってきたときは流石のオレもドン引きだったワケだけど』
「えっなんで一回ぼかしたのに結局言ったの!? 俺聞いちゃだめじゃないそれ!?」
『ミナトが聞けばアキラは答えるだろうなってことは特に伏せる気ないし。後で直接あいつに聞いて帳尻合わせといてね』
「丸投げかよ」
 地元の公立校で生徒の偏差値も倫理観も玉石混交だったらしく、中学入学早々に素行のよくない先輩に目を付けられたとのことである。入学してすぐって、十三歳……いや、三浦さん早生まれだから十二歳になったばっかじゃん……!? そんなことあったらトラウマになっちゃうよ。可哀想すぎる。
 話を聞くところによると三浦さん、これに類する経験をしすぎてそういう方面に関しては基本的に積極的じゃないし、なんなら積極的な相手にうっすら引いてる……みたいな感じ。
『あ。なんかまたミナトがネガってる気するから言っとくけど、どうせあいつ「兎束さんは別です」みたいなことほざいてたろ? ミナトはどーんと構えてりゃいいってことよ』
「なんでそこまで正確に三浦さんが言ってたこと分かるの……?」
『あいつ単純バカだから。素直でカワイイねー』
 けらけらと笑うキイチさんの声に少しだけほっとした。そう、俺は別って言ってた。三浦さんは、俺となら、エッチしたい。のだ。大丈夫だ。俺は今まで三浦さんに無理を強いてきた人たちとは違う。絶対に。
「キイチさん、ありがとう。参考になった」
『んはは、お幸せに〜』
「……いつかさー、三浦さんがキイチさんに予想できないこと言えばいいのにとか思っちゃってるんだけど、先に謝っとくね……」
『律儀かよ! やっぱミナトいいわー、面白いわー。オレにとってはアキラがここまで誰かに必死になってるの自体予想外すぎて驚いてるよ。その調子でな!』
 ぷつっ、と通話が切れて、さっきまで聞こえていた明るい声は部屋の静寂に溶けていった。

 そんなこんなで迎えた三浦さんの誕生日。三浦さんは、『この日だけは絶対に定時帰りするんで。絶対。鯖落ちしても帰るんで』と一週間以上前から宣言して開発部の奴らに『ちょっと!? サーバーは復旧させてから帰ってよ!?』と悲鳴をあげさせていた。彼は人の倍残業しているけれど、こなしている仕事は推定三倍以上なのだ。まあ、流石にトラブル起こったら放置して帰ったりはしないと思う。言葉の綾だ。トラブル起こりませんように。
 大丈夫かなとはらはらしながら、定時になった瞬間思わず三浦さんの席に視線をやる。すると彼はちょうど立ち上がって俺の方を向いたところだったようで。にぱーっと心底嬉しそうな花丸の笑顔でこちらにピースしてみせた。しかも両手。両手でピースだ。ああもう可愛いなほんとに……。
「兎束さんっ、帰ろ!」
 口パクでそう伝えてくる三浦さんにこちらも笑顔で頷いて、タイムレコーダーの前で落ち合う。たった数十秒が長かった。ピッ、という音を確認したらすぐさまオフィスの外へと飛び出した。
「定時であがれてよかったな三浦さん」
「うん。最近はあんまり残業しすぎないようにしてますからね」
 ずっと楽しみにしてたから嬉しい、と言って、三浦さんは俺に意味ありげに目くばせしてくる。うう、恥ずかしい。
 誕生日といえばホールケーキだけど、三浦さん本人の希望で好きなケーキを二個ずつ買うことにした。
「ちょっと多いかもですけど、今日半分ずつたべて明日残り半分食べるとかでもいいですし」
 そんな風に言いながら、三浦さんはケーキ屋のショーケースを真剣な顔で見ている。ケースの中を照らすライトが三浦さんの瞳に反射してきらめいていた。彼と一緒なら、ケーキを買うというだけでこんなにも心躍る。
 いつまでも見蕩れていたらケーキが買えないので、俺もショーケースに並ぶケーキに視線を移す。時間が遅いせいか隙間も目立つけれど、どれも一個ずつは残っている。運が良かったらしい。俺が選んだのはエンガディナーという聞いたことのない名前の、くるみのたくさん入ったタルトと、苺のベイクドチーズケーキ。三浦さんは、チョコレートケーキとミルクレープを選んでいた。彼はケーキも色々と具が入っていない方が好きらしい。チョコレートケーキはスポンジとチョコレートガナッシュとチョコレートクリームとチョコプレートというシンプルかつチョコ尽くしのものだし、ミルクレープもオーソドックスなクレープとクリームだけで構成されたものだ。
 会計をして持ち運びの時間を伝えて保冷剤と共に同じ箱に入れてもらって、いつもだったら駅で別れるところを同じ電車に乗る。三浦さんの家の方が広いんだけど、俺の家の方が近いし食事の下準備もできるから都合がよかった。今日の夕飯はビーフシチューだ。奮発していい肉を買ったし、付け合わせにマッシュポテトも手作りしてみた。バゲットはカットしてバターを塗るだけでも十分美味しいし、もちろんビーフシチューと一緒に食べてもいい。お酒だって、詳しい人に聞いて料理に合いそうな赤ワインを買ってきてあるのだ。
 準備している間、ずっと三浦さんのことを考えていた。
 ちらり、と隣の様子を窺う。電車に揺られる彼の表情は明るい。俺が見ていることに気付いたのかこちらを向いて、ふにゃりと目尻を下げて笑う。
「どうしたの?」
 囁くような、すぐ隣にいるから聞こえる、くらいに絞った声量。
「……三浦さんが嬉しそうにしてるのが、嬉しい」
 俺は素直にそう言った。心からの言葉だった。三浦さんが嬉しそうにしてると、俺も嬉しい。そんな当たり前のことを、今日もじっと噛み締めている。
 三浦さんはほんの少しだけ目を見開いて、また優しく笑ったかと思えば俺の耳元に口を寄せて、吐息だけで返事をくれた。
「キスしたくなっちゃいました。兎束さんの家、駅から近くていいですね」
 思わず顔が熱くなる。だって、これは、帰ったらすぐキスするぞって予告じゃん。どんな気持ちで待てばいいのか、どんな顔して待てばいいのか。
 電車が自宅の最寄り駅に到着して、心ここにあらずで歩いていたらあっという間にマンションに到着だ。いつキスしてくれるんだろう。オートロックを解除して、エレベーターに乗って、玄関の鍵をなるべく平静を装って開けて。
 扉を閉めて、目が合った。心臓がばくばくいっている。
 絶対このタイミングだろと思ったのに、三浦さんはにこっと嬉しそうに笑って「お邪魔します!」とだけ言った。はつらつとした笑顔だった。可愛い。でも、少し肩透かしを食ってしまった自分の気持ちは誤魔化せない。
 もしかして『キスしたくなっちゃいました』っていうのは言葉の綾というか、深い意味はない感じだった? ただそういうことを言う気分ってだけだった? それとも、歩いてる間にする気が失せた?
 ――なんて、思っていたら唇に柔らかいものが触れる。
「んっ……」
「…………、あれ、こうじゃない? しちゃ駄目だった……?」
 優しく唇を触れ合わせるだけのキスをした三浦さんは、俺の反応が芳しくないように見えたのか僅かに首を傾げる。ほんの少しだけ不安そうなその表情がたまらなく愛しくなって今度は自分からキスをした。
 そういえば三浦さんって、こうやって触れるだけのキスだったり手を繋いだりぎゅって抱き締めてきたり、肌を触れ合わせることは好きみたいだけど舌を入れてきたりはしないんだよな。
 軽く唇を食むくらいに留めておく。性行為やそに準ずる行為に対して積極的ではないというか微妙に忌避感を持っているようなタイプというのはきっと少なからずいて、ひょっとすると三浦さんもそのラインにいるのかも。女の子でもさ、ぎゅってされるのは好きだけどエッチは嫌、みたいに思ってる子珍しくないよな。気を遣って言わないだけで。そういう子は大体の場合、こっちを受け入れてくれて何度かエッチした後に『実はね……』という感じでそう思っていたことを教えてくれる。過去形だから、まあ、ある程度こっちを信頼したから正直に話してくれたんだと認識してる。
 俺はさ、三浦さんが俺とならヤりたいって言ってくれたのが嬉しかったのと同じくらい、でも無理強いはしたくないなって思ってるんだよ。
「ん……三浦さん、夕飯の準備するね」
 ちゅ、と軽くリップ音をさせて離れると、三浦さんは頷いた。俺はケーキを冷蔵庫に入れたその足で自室に向かい、着替えなどの支度を済ませてキッチンに立つ。ビーフシチューを温めて、バゲットを切って、トースターで焼いていく。三浦さんが手伝いたそうにちょこまかしていたので配膳をお願いしたらすぐに準備は整った。
 今日のために買ったワイングラスにワインを注ぐと、なんだかとても食卓が豪華に見えた。
「兎束さんって謙遜する割にかなり料理できる方ですよね……?」
「いや、人並みだってば。就活終わって授業もなくて暇だった時期にちょっとだけ凝ってたんだよね」
「全部美味しいです」
「よかった。今日はたくさん食べられそうな日?」
「お昼軽めにしたんでたくさん食べます!」
 軽めと言うからパン一個とかそのくらいかと思いきや、どうやらチョコを一口二口食べただけでここに来たらしい。こ、この人ほんと隙あらば雑な食生活になってるな。
 苦言を呈した方がいいのでは……と思ってしまったが、ビーフシチューを食べている三浦さんがあまりにも幸せそうだったのでつい言葉を呑み込んでしまった。ずるい……。
 俺は、勝手に恥ずかしくなってしまったのを誤魔化すべくビーフシチューを一口食べる。早起きしただけあって納得のいく出来……と言いたい、のだが。
 き、緊張して味に集中できない……!
 たぶん美味しい、美味しい……はずだ。でも、“この後”のことに気がいってしまって正常に判断できている気がしない。今だって、ビーフシチューの味よりも目の前で食事をしている三浦さんの唇が濡れているのを意識してしまう。
「……兎束さん? 大丈夫? 考え事?」
「っな、なんでもない! なんでも!」
「そう? 手が止まってたから、大丈夫かなって……」
 三浦さんがまったく緊張してる風に見えなくて、こんなに思い詰めてるのひょっとして俺だけなのかなあ……なんて思いつつ、俺は景気づけにワインを勢いよく流し込む。
 せっかくいいワインなのにやっぱり味がいまいち分からなくて、俺は内心苦笑いするしかなかった。

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