羽化に唇 ▽▽▽ ( UNION / GARDEN )

INFO / MAIN / MEMO / CLAP


 俺が内心で何を思っていようが寝て起きたらしっかり時間は経っているわけで。そんなことを何度か繰り返していたらあっという間にホワイトデー当日になっていた。
 初めて三浦さんの家に行ったときも緊張したけど、今日もかなり緊張してる。服に皺が寄っていたりしないか念入りにチェックして、変な寝癖ができていないかも確認して、いざ戦いの場へ……といった心持ちだ。何と戦うのかは分からない。俺の自制心とかだろうか。
「――兎束さん!」
 駅前で俺を見付けて駆け寄ってきてくれる三浦さんを見るのももう何回目だろう。何回経験したって嬉しいのだからむず痒い気持ちになる。今日の三浦さんは、なんだかいつもより更にかっこよく見えた。いや、いつもかっこいいんだけど! 気合いの入り方がちょっと特別仕様な気がする。俺の欲目?
「三浦さん、なんか今日ご機嫌な感じ」
「え、そうですか? 兎束さんと会える日は大体こんな感じだと思いますけど」
 在宅勤務できないの損だなって思ってましたけど、こういうのも役得って言うんですかね。三浦さんはそんな風に言う。
 俺はというと、すごく嬉しいのになんと言っていいのか分からない。素直に喜べばいい気もするし、でも、彼の言葉にいちいち期待してしまう自分が嫌になる気もする。
 これは完全に俺の事情で、俺の感情で、だから俺だけで始末をつけなきゃいけない。三浦さんに押し付けるべきではないことだ。おそらくこの場はにこやかに『え、嬉しいこと言ってくれるじゃん。俺と会える日は楽しいの?』とかなんとか言っておけば問題ないはず。分かってる。当たり障りなく人と仲良くする方法を俺は知っている。
 ちゃんと知っているはずなのに、この人の前だと何も上手くできない。今だって、急に黙った俺を見て三浦さんは不思議そうにしている。きっと、もうちょっとしたら少しだけ不安そうな顔をして俺の名前を呼ぶのだろう。
「……兎束さん?」
 そう、こんな風に。
「ごめんごめん。俺と会える日は楽しいって思ってくれてるんだなーって感動しちゃった」
 感動噛み締めてたんだよ、と言葉を続けながら、俺は今更気付いてしまった。
 三浦さんは笑顔の似合う明るい人だけど、最近俺と一緒にいるときの彼は――どこか不安そうな表情が増えている、ということに。

 その後、どことなくぎこちない雰囲気に気付かないふりをしながら食事をした。三浦さんの家に行って、すぐホワイトデーのお返しの話になるかと思いきやそういうわけでもなく、とりとめのない会話が続く。途中で三浦さんが何かを言いかけてやめるということが何度かあって――それで。
「……兎束さん。あの、来てくれてありがとうございます……今日」
 そう切り出した三浦さんは、何か、大事なことを心に決めたような目をしていた。
「今日はバレンタインのお礼をしたかったっていうのがメインの予定だったんですけど……本当は、ずっと、聞きたかったことがあって」
「聞きたかったこと?」
 何? とつい反射的に聞いて、返ってきた言葉に心底後悔した。
「…………兎束さんは、おれとこうやって一緒にご飯食べたり、家を行き来したり、そういうのどう思ってるのかなって……」
 おれのこと、どう思ってるのかな、って。
 三浦さんは凪いだ瞳でこちらを見ている。脈拍が急激に速くなっていく。どう答えるのが正解なんだこれは。俺のキャパを超えたことを要求してこないでほしい、頼むから。
 もしかしたらこれは、俺が彼のことを好きだというのが悟られていて、黙って傍にいるのはフェアじゃないだろみたいな、恋愛感情で好かれるのは気持ち悪いみたいな、そういう糾弾の類なのだろうか。
 そんなことをぐるぐる考えて、けれど、現実は俺の想像よりもはるかに苦しいものだった。俺がどれだけ自分勝手で甘い考えをしていたのか、続く三浦さんの言葉で思い知らされることになる。
「おれが……前に言ったの覚えてる? 兎束さんとは、楽しいことだけがいいって……」
 でもそれは無理なんだなって最近ようやく受け止められるようになったんです、と三浦さんは震える声で言った。俺に反論する隙も与えず、彼は悲痛な面持ちで言葉を紡ぐ。
「兎束さん、おれと一緒にいると時々つらそうな顔する……」
 ――気付いてたんだ。
 呼吸が浅くなって一気に体温が下がる。正直、可能性はあるなって薄々思ってた。三浦さんは普段から周りのことをよく見ていて、誰かのちょっとした変化に気付くことのできる人。会社のロッカーの位置が変わっても全然気付かないくせに、例えば前髪を少しだけ切ったとか、ネイルのデザインが新しくなっているとか、顔がいつもより白くて体調が悪そうだとか――人に関することはそういう些細な部分も把握できてる。
 だから、俺がどれだけ必死に隠しても、誤魔化しても、実はバレてるんじゃないかなって心のどこかで不安だった。
「そんな顔……してないよ」
 最後の最後に悪あがきしてみたけれど、三浦さんは力なく呟く。「そういうの分かっちゃうんだよ……分かるって言ったじゃん……」ああ、この人は、俺に聞くのをずっと我慢してくれていたのだ。そう思った。
 どのくらいの間、俺に聞かずに耐えてくれたのだろうか。
 一体どれだけ、俺に聞けずに苦しい思いをしてきたのだろうか。
 これなら、さっさと好きだって言って振られた方がマシだった。三浦さんじゃなくて、俺が勝手に一人で傷付いた方が百倍よかった。
 浅くなっていた呼吸をどうにか平常に戻そうとゆっくり息を吸う。息を吐く。また、息を吸う。
 俺は三浦さんの何を見ていたんだろう。この人分かりやすいよな、なんて思いながら、三浦さんが俺についてこんなに悩んでいるってことに全然気付いていなかった。彼は俺のために悩んでくれていたし、俺のことを心配してくれていた。今も――そうだ。
「最初は気のせいかなって思ったんだけど、でも、絶対そうじゃなくて……」
 まだちょっと迷うような口ぶりで、少しずつ少しずつ彼は言葉を紡いでいく。
「兎束さんは……おれと一緒にいるとつらいことがあるんでしょ。おれに隠そうとしてくれてるのも分かってますよ。おれのせいだからですよね?」
 違う。確かにこの胸の痛みは、俺が三浦さんを好きになったことに理由があるけど。でも、三浦さんのせいじゃない。絶対に、三浦さんが悪いなんてことはない。
 それなのに俺の口は全然思ったように動いてくれなくて、まるで言葉が凍ったみたいに胃の中に溜まっていく。どうしよう。どうすればいい? どうすれば三浦さんをこれ以上苦しめずに済む? 俺がもたもたしている間にも、三浦さんは必死で内心を訴えかけてくる。ただ、誠実に、正直に。
「兎束さんがつらい気持ちになってるの、おれのせいだってちゃんと分かってるのに……こんなに毎日兎束さんのこと考えて、楽しくて、自分のことばっかりで……っ」
 一瞬、彼の言葉が詰まった。もしかしたら泣きそうなのをまた我慢したのかな、なんて思った。俺もつられて視界が滲みそうになって必死で堪えた。毎日俺のことを考えてくれている? リップサービスにしても言いすぎだ。まあ俺は大げさじゃなく、たぶん毎日三浦さんのこと、思い出してるけどね。
 こんないじけたことを言ったらまた三浦さんを悲しませてしまうだろうか。でも、自分に都合よく考えて、期待してしまうのは苦しい。これまでずっと周囲に自身の好意の種類を勘違いされてきた三浦さんだから、俺だけが勘違いせずにいられていると思えるほど俺は自己評価が高くない。
 そんなことを考えている間にも、三浦さんは「……おれ、また間違えた?」と俺を真っ直ぐに見た。
「また……駄目だった? ちゃんと頑張れなくて、ごめんなさい……」
「っ……三浦さんが謝るようなこと、何もないじゃん。三浦さんは何も悪くないのに、なんでそんな、……なんで、俺に謝るの……?」
 謝らなきゃいけないのは俺の方だ。勝手な理由で勝手に不機嫌になって、不安定になって、挙句の果てには三浦さんに八つ当たり。全面的に俺が悪い。それなのに三浦さんは俺に謝る。頑張れなかった、と言って。
「三浦さんはずっと頑張ってるよ。ちゃんと、知ってる」
「おれがいくら頑張ってるつもりでも、兎束さんはつらい顔のままじゃないですか。だったらそんな、おれがどれだけ頑張ってるつもりでいるかとか、何も意味ない。結果が出てないんだから」
 それは確信に満ちた声だった。
 たぶん彼はこれまでずっと、こんな風に“結果の出ない努力”をすることを強いられてきたのだろう。どれだけその努力が徒労に終わったとしても、三浦さんは周りが傷付くことをけっしてよしとはしない人だ。手ごたえがなくても、時には逆効果だったとしても、努力を放棄することはできなかった。
 俺だったらそんなの、とっくに嫌になってる。報われないまま頑張るのはつらい。いつまで走り続ければいいのか分からないマラソンみたいなもので、それを諦めたからといって一体誰が三浦さんを責めるだろう。
 三浦さんは、何も言えないでいる俺からふっと目を逸らしたかと思えば、まるで独り言みたいにぽつりと呟く。
「今度こそちゃんと頑張りたかったんですよ。兎束さんに、おれのこと好きになってもらえるように頑張りたかったのに……」
 誰かに好かれようと努力したことがなかったからやり方が分からない、というようなことを彼は言った。今まで手探りでやってきたけど、そのせいで俺がつらい思いをするなら頑張って諦められるようにする、とも。
「や――やめてよ、そういうこと言うの……」
 思わず取り繕えない本心が漏れる。彼は本当に――人に期待させるような物言いが、上手い。
「そんな、俺だけ特別、みたいな……勘違いだって分かってるのに、三浦さんにそういうこと言われると俺、どうしても嬉しくなっちゃうから……」
 もはや最低限を誤魔化すことすら放棄していた。そのくらい、感情を乱されてどうにもならなくなっていたのだ。苦しかったし、この苦しいのがずっと続くなんて耐えられなかった。
 ――もういっそ全てぶちまけて楽になろうか。
 そんな、魔が差した。だってこれ以上三浦さんを傷付けるようなことはないって思いたい。意図的にあんな酷いことを言ってしまって、今こんな表情をさせてしまっているのが本当のどん底で、俺の彼に対する好意は、彼をそれと同レベルに傷付けるものではないはずなのだと、そうあってくれと願いたかった。
 俺はどこまでも自分勝手だ。この期に及んで、自分が楽になりたくて告白しようだなんて考えている。
 なんだか不気味なくらい静かで、ふっと視線を上げる。俺はそこで初めて、三浦さんが押し黙って長考しているらしい様子に気が付いた。
 ――あ。
 バレた。
 ゆら、と所在なさげに揺れた瞳が俺を捉えて、「え……っと、待って、あの」と彼にしては珍しく歯切れの悪い言葉が発せられる。
 続きを待っている俺の耳に届いたのは、あまりにも今更すぎるように思える、ほぼ念押しみたいな疑問だった。
「……なんで、兎束さんが嬉しくなるの?」
 思わず乾いた笑いがこぼれ落ちる。
「は――わざわざ言わせる? そっか、三浦さんそういうタイプだっつってたもんね」
 戸惑いを含んだ視線の意味はよく分かる。これまで必死で隠して抑え付けてきたのに全部無駄になっちゃった。最後の最後で詰めが甘いというか、粘り強さが足りないというか……今となってはもう、そんなことどうでもいいけど。
 そんなに俺の口から言わせたいなら言ってやる。後悔したって遅いよ。もう戻れない。
 聞かなきゃよかったとか、思われたらどうしようかな。思われたって仕方ないけど流石にちょっと傷付くかもしれないな。そんな資格もないんだけどさ。
 そんなことを考えながら、俺は、彼の瞳を正面から捉えた。

prev / back / next


- ナノ -