羽化に唇 ▽▽▽ ( UNION / GARDEN )

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 三浦さんは次の日から、例の彼女と会社への行き帰りを共にするようになった。
 これでも相手が沈静化しなかったら派遣元に連絡をするつもりでいたらしいけど、一週間も経つ頃には姿を見せなくなりすっかり平和。どうやら、穏当に解決することに成功したようだ。
 俺は給湯室から出るに出られない状態でそっとため息をつく。あー、なんで俺こんなタイミング悪いんだろ? 何か悪いことでもした?
「ほんっ……とにありがとう! 助かりました……!」
「大したことしてないですよ。歩いてただけでしょ」
 給湯室に続く道とは逆、非常口側の廊下から二人分の話し声。どうやら例の彼女は三浦さんにお礼を言いに来たらしい。この妙に音の響く廊下、定時後の人の少なさ、にもかかわらずついコーヒーが飲みたくなってしまって偶然居合わせた俺、廊下から給湯室は死角、オフィスに戻るには廊下を通らなくちゃいけない。以上、簡単な状況説明である。盗み聞きと思われても仕方ないシチュエーションだ。
「よかったです、騒ぎにならなくて」
「そうだね、穏便に終わってよかったぁ」
 二人はそのまま和やかに話していたけれど、やがてほんの少し改まった感じの、それでもけっして深刻ではない声がする。
「あの、かなりお世話になったしお礼したくて……どうかな、一緒に食事とか。ご馳走させてくれる?」
 この流れを俺は知っている。
 例えお礼だったとしても、女性がまったく好意もない男性を食事に誘ったりしないということを、俺はちゃんと分かっている。
 なんだか息をするのが苦しい気がして、俺はただ三浦さんの返答を待った。どうせ快諾するだろうと思いながら。
「あー……スミマセン、おれ女の人と二人きりではそういうことしないようにしてるんですよね」
 一瞬の沈黙。その後すぐ、三浦さんは言葉を続ける。
「や、もちろんそういうつもりで誘ってきてるわけじゃないってちゃんと分かってますよ! だから断っちゃうの心苦しいっていうか、自意識過剰みたいですげー嫌なんですけど……ちゃんと線引きしておかないと、本当に断るべきときに断れないので」
 彼は不安そうな声で、「これは、えっと、断っても変に誤解したりしない人だって信じてるからはっきり言っちゃってるんですけど。嫌な気分にさせたらごめんなさい」と言っている。俺の中で、断ってくれてほっとする気持ちが湧き上がってくる。
 だって、三浦さんが女の子と二人きりで食事に行くなんて嫌だ。
 そんなの……絶対嫌だ。
「えっ待ってそんな悲しい顔しないでよぉ! 大丈夫、別に嫌な気分になったりとか全然ないから安心して」
「あの、複数人での食事だったらぜひ。もっと色々喋ってみたいなって思ってたんです、前から」
「あはは。三浦さんが人に好かれるの分かるなぁ。うん、そのときはぜひよろしくね! ……私のこと、信じてくれて嬉しかったよ。ありがとう」
 じゃあせめて今度お菓子とか持ってくるから! おすすめのとこあるんだよ! と明るい声が聞こえてきたから、そろそろお開きかな、俺もこっそり戻れるかな、と思っていたら――最後の最後で、とんでもない爆弾が落ちた。
「――あ。そうだ、三浦さん」
「なんですか?」
「三浦さんって社内恋愛ナシ派の人? 誤解とか勘違いとかじゃなくて、もちろんストーカーとかでもなくて――普通に告白されるのは迷惑?」
 ――最悪だ。
 無理やりにでも会話が始まったところでオフィスに戻ってればよかった。彼女はどうやら俺が思うよりもずっとしたたかで根性のある人だったらしい。
 これは要するに宣戦布告だ。迷惑じゃなければこれから狙うぞ、という意味。
 心臓がばくばくいっている。こんな、他人の告白が失敗してほしいと祈るなんて性格が悪すぎる。人生で初めてのことだ。
 そんな俺の気持ちなんてきっと知りもしない三浦さんが、あっさりとした声音で彼女の告白に返答する。
「社内恋愛は、まあ、アリですね」
 殴られたような衝撃だった。やっぱりそうなんだ。というかこれ、何、つまり返事はOKってことになっちゃうの?
「あの、おれ、――――」
 三浦さんの声が急に小さくなって、何を言っているのか聞き取れなくなってしまう。だめだ、完全に盗み聞きメンタルになっちゃってる。盗み聞きと思われても仕方ないシチュエーション、とかじゃなくて、俺は今、明確に彼の発する言葉を盗み聞きしようとしている。
 廊下の反響に耳を澄ませてみても、声が断片的に分かるだけで会話の内容までは理解できない。
「――え、そうだったの!?」
 そして数秒後、そんな驚きの声によって俺の思考は一時中断した。
「えー、そうなの、そっか、へえー!」
「そんなあからさまに楽しそうにしないでくれません……?」
「ごめん無理かも! そっかぁー……なるほどね。でも言われてみれば確かに明らか態度違うもんね。なんだよぉそれならそうと早く言ってよ! 好きになっちゃうじゃん!」
「好きになってもらえるのは嬉しいですよ普通に。というか敢えて言いふらすもんでもないでしょ、おれたちだけの秘密ね」
「うわっ、悪い男発言だ!」
 先ほどまでと急に様変わりした空気に俺は混乱していた。何、どういうこと? 結局二人はどういう関係に落ち着いたんだ。どういう秘密を共有した?
 結局彼女は、「チョコ系で美味しいやつチョイスしとくから、兎束くんと食べなね〜!」と言って帰っていったようだ。俺の名前が出たのは、最初のときに俺も一緒にいたからかな。
 ガチャリと電子扉がロックされる音がして、ふう、とため息をつく。気疲れした……。もうちょっと時間を置いて、俺も戻ろう。
「……兎束さん?」
 冗談抜きで一センチくらい飛び上がった。声も出せずに声のした方を振り向くと、そこにはなぜか三浦さんがいる。
「なんっ、三浦さん、なんで」
「え、喉渇いたんで……というか、あー、……スミマセン、おれが廊下で話してたから戻れなかった感じですよね?」
 もしかして聞こえてました? と、探るような声音で問いかけられる。
 ……え、なんでそんな気まずそうにするの?
 俺に聞かれたくない話だった? いや、そりゃ確かに人に聞かれてたら多少なりとも気まずい話題ではあったかもしれないけど、そんな……まるで悪いことしてたのがバレたみたいな反応はおかしい、んじゃないだろうか。
 そんなに嫌だった? 俺がいて、迷惑だった?
 別にそんなことを言われたわけでもないのに、どろどろと胃の辺りに嫌なものが溜まっていく。
「……ごめんね、盗み聞きになっちゃったね」
「え? いや、そんなこと全然思ってない――あの、なんか怒ってますか?」
「なんで? 俺が怒る理由、ないじゃん」
 意識的に笑顔を浮かべてみせると、三浦さんは戸惑ったような様子で俺をじっと見つめてくる。……そんなに見られると、内心を悟られそうで少し怖い。
 普段だったらこの辺りで誤魔化されてくれるんだけど、今日に限って三浦さんは疑問を捨てきれていない様子だった。どうしてだろう。どうして、そこまで隠しておきたいことだった?
 苛立ちが募る。だめ押しで、「ほんとに大丈夫ですか? 機嫌悪いんじゃなかったら、具合悪いとか……」なんて言われて、俺はつい、棘のある言葉で言い返してしまった。
「心配しなくても、そんな詳しいとこまで聞こえてないよ……俺は社内恋愛とか面倒そうでごめんだから、そういうの許容できるのすごいなーって思っただけ」
 言ってしまってから、ぎくりと体が強張った。
 俺の見間違いでなければ、三浦さんは――傷付いた顔をしていた。傷付いているのにそれを隠そうとして失敗したみたいな、見るに忍びない表情だった。
「……――ごめんなさい。おれまた嫌な思いさせちゃった……」
 ぱっと背を向けて、小走りに駆けていく三浦さん。呼び止めることはできなかった。そんなこと、できるわけがなかった。
 最低だ。三浦さん、泣きそうだった。俺のせいだ。俺が、そうさせた。
 彼は勘違いしただろうか。俺が、職場で恋人を見繕うような人間を軽蔑しているとでも思っただろうか。公私混同、プライベートの切り分けがちゃんとできない、とか?
 ぐっ、と唇を噛む。苦しかった。三浦さんを傷付けてしまったことが、ではない。三浦さんはきっと傷付くだろうと分かっていて――その上で、少しくらい傷付いてほしいと思ってわざわざ言葉を選んでしまったことが苦しかった。
 もう、前みたいに笑ってくれなくなっちゃうかな。
 きっと俺は彼からそこそこ信頼されていたはずで、でも、俺はそれを自分の手でぶち壊したのだ。一度出てしまった言葉は戻らない。なかったことにはできないのに。
 分かってたじゃないか。三浦さんは誰にでも好かれるような人で、だからこそ、好意がエスカレートする奴も出てくる。それは“三浦さんだから”であって、“三浦さんのせい”ではない。もちろん、ちょっと気を付けた程度で改善されるようなものでもない。それでも彼は精一杯頑張ってた。既に十分すぎるほど気を付けてた。それでもだめだったからあんな、悩んでたのに。俺はちゃんと知っていたはずだったのに。
 食事に誘われて、それをきちんと断って。その場限りのことではなくて、女性と二人きりでそういうことをするつもりはないとはっきり言って。でも、空気を悪くすることはないように気を遣って。
 あれ以上どうしろと? 俺は彼に何を望んでいたんだ。職場で恋人を作るなんて絶対にしないとでも言ってほしかったのか?
 ただ嫉妬していただけだ。
 同性で、同期の中ではそれなりに親しくしているという立場を利用して彼の傍にいたくせに、安全圏から出る勇気もなかったくせに、ああやって三浦さんに対して行動を起こした女の子に嫉妬している。俺は彼にとって、二人きりの食事は困ると断る範疇に入らない。そんなことを考える段階にすらいない。
「…………、最悪……」
 深いため息と共に自己嫌悪の言葉を吐き出す。
 謝らなくちゃ。そう思うのに、彼を傷付けてしまった理由を話せる気がしなくて胃が気持ち悪い。だってこんなの、なんて説明すればいいんだよ。
 嫌われる覚悟をするべきだろうか。全部話してから謝るべきだろうか。
 好きな人を失望させてしまうかもしれないのに、全て明らかにするのが正義なのだろうか。
 もう何も考えたくなくて、俺は手の中の空の紙コップを力任せに握り潰した。

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