羽化に唇 ▽▽▽ ( UNION / GARDEN )

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 いやいや冷静に考えたら絶対おかしいだろ、と目が覚めてから思った。おかしい、距離感が。
 雑魚寝くらいならまあ、すぐ横で寝ることも場合によってはあるだろう。でも同じベッドの中はちょっと……おかしくないか? ちょっとどころではなく……。 
 ベッドの中は温かくて、ぐずぐずまどろんでいたい気持ちが湧いてくる。けれど行祓が朝食を作ってくれているはずなので、きちんといつも通りの時間にベッドの中から抜け出した。
 身支度を整えてリビングに行くと、予想通り行祓が朝食の準備をしているところだった。
「おはよう」
 キッチンに向かう背中に声を掛けると、いつもなら笑顔で挨拶が返ってくるところなのだがそうはならなかった。行祓は俺を見てはっとした顔になって、「まゆみちゃんに謝らなければならないことが……」と真面目くさった声でこちらに話し掛けてくる。
「ん、どうした? 昨日はなんか、湯たんぽ代わりとかさせちまって悪かった」
「いやーそれがさ、適当に自分の部屋戻るとか言ったくせにあのまま寝落ちちゃったんだよね昨日」
「え、そうだったのか」
 全然気付かなかった。ということはつまり、昨日は結局……同じベッドで二人で寝たってことに……。
 いよいよ言い訳できない感じになってきたな、と内心で呟いた。いや、誰に言い訳するんだよ。言葉の綾だけど、なんだかぎくっとしてしまった。ついでに今更恥ずかしくなってきた。
「結果的に騙したみたいになっちゃった。申し訳ない」
「別に謝ることじゃねえだろ……疲れてた?」
「あったかくて気持ちよくなっちゃった。人の体温ってなんか妙に安心するんだよねぇ」
「あー、そうだな……俺も昨日は嘘みたいに早く寝入れたし」
 行祓は本当になんとも思っていなさそうなので、俺ばかり意識しているのが余計に気まずい。けれど昨日はここ最近では珍しいくらいに寝つきがよくて、ぐっすり眠れて、気持ちのいい夜だった。だから「ありがとな、あっためてくれて」と改めて口に出す。
「お安い御用! まゆみちゃんがぐっすり眠れたならよかったよ。朝ごはん食べよっか」
「ん。今日は……あ、卵サンド?」
「そうでーす。真っ白のサンドイッチ用のパンで作る卵サンドもいいけど、トーストで作ったやつも美味しいよね」
 チン、と鳴ったトースターの中からパンを取り出して、軽くバターと、ほんの少しの辛子を塗って卵のフィリングを手際よく挟む行祓。対角線で切ったら皿に載せて完成だ。付け合わせはトマトのピクルス。赤と黄色で見た目もいい。
 いつも通りいただきますをして、噛んだときのザクッという音を楽しむ。今日もこいつの作る料理はうまい。
「まゆみちゃんご機嫌だね」
「んー……? よく眠れたし、朝飯うまいから」
 にこにこしてるお前の方が機嫌がよさそうに見える、と言ってみると、「ばれたかー」とやっぱり楽しそうに言われた。
「実はもうひとつ提案がありまして」
「何? 提案?」
「まゆみちゃん今日大学ないでしょ。おれもたまたま休講になったからさ、お弁当作って近所の公園行って食べようよ、散歩がてら。今日もあったかくなるらしいし」
 ニュースで桜の開花予想みたいなのやってて、フライングでピクニックしたくなっちゃった。行祓はそう言った。
 実はこの時期、こういうことは珍しくない。最初に誘われたときは『ピクニッ……ク……?』とあまりにも予想外すぎてそんな反応しかできなかったのだが、ちょうどこのくらいの、気温は上がりきっていないが日なたはぽかぽかと温かい……くらいの時期の散歩は気持ちがいい。もっと本格的に温かくなってきた頃の散歩もいいけれど、俺はこの時期の行祓との散歩が好きだったりする。冷え性のくせに。
 あれだ、たぶん、全部温かいよりも空気は少しひんやりしてるけど太陽の光が温かいという方が、太陽の有難みを感じていいのだと思う。
 風の穏やかに流れる公園。行祓が作ってくれたおにぎりと、卵焼きと、からあげ。そんなにたくさんのおかずが用意されている必要はないのだ。なんとなく、外で食べるというシチュエーション自体がいつもと違って楽しいのである。
「いいな、散歩。行こう」
「決まりね! 今日のおにぎりの具は何にしようかなぁ……」
 もくもくと卵サンドを咀嚼しながら、こいつといるとやっぱり楽しいんだよな、と改めて思う。派手さはないけれど、ひとつひとつがじんわりと嬉しい。別に、たくさんお金を使ったり、遠くに出掛けたりしなくても、散歩ひとつでこんなに楽しいのだ。
 そうと決まれば昼頃には出発するだろうから、俺は午前中に洗濯と掃除を終わらせなければならない。今日は天気がいいから洗濯物もよく乾くだろう。シーツと枕カバーは洗ったばかりだからまだ大丈夫、今日は風呂場をしっかりめに掃除したいな。散歩の帰りに洗剤と、そういえばボディソープのストックが切れていたはずだから買い足して……。
 ふと、妙な気恥ずかしさや気まずさが消えていることに気付いてほっとした。よかった、あの妙な気分のまま散歩に行くことになってたらちょっと困るもんな。
「行祓、公園の帰りにドラッグストア寄りたいんだけど」
「はーい。ドラッグストア行くなら食器洗い洗剤買いたいな。おれが忘れてたら教えてね」
「じゃあボディソープ俺が買い忘れてたら教えて」
「まっかせて!」
 自信満々のようなので、俺は楽ができそうだ。そんなことを思って自然と笑みがこぼれた。なんとなく、それを行祓に見られたらまた恥ずかしくなってしまいそうな気がしてトマトのピクルスを口に運ぶ。酸味が舌に心地よかった。
 そういえば、行祓はこの組み合わせを好んで食卓に出す。『なんか、卵サンドだけ食べ続けてると味がぼやけてきちゃう気がするんだよね。そういうときにこのトマトを食べると、なんと! 舌をリセットできるんだよ。おいしいし』なんて言っていただろうか。
 行祓のそういう発言を思い出すことがたくさんある。すぐに忘れてしまう他愛のない話のように見えて、案外そうでもない。別に俺はそこまで記憶力のいい方でもないのにな、と最初の頃は不思議だったのだが、どうやら味覚と結びついた記憶だからのようだ……と最近はちゃんと分かってきた。
「トマト、口の中がさっぱりしていいな」
「あ、やっぱり? この組み合わせ好きなんだよね」
「俺も好き」
「実はそうじゃないかなと思ってたんだー」
 俺のささやかな相槌にも笑顔を返してくれる行祓はとても人間のできた奴だと思う。ピクニックだからとせっせとおにぎりを作ってくれたりするし。家事の負担が偏ってしまっていないか割と気になるのだが、当の本人である行祓は『え、そんなとこまで掃除してくれたの!?』と今でも出会った頃と同じようなテンションで驚いていることがあるので、結局俺が一人で心配しているだけなのかもしれない。
 自室にストックしてある使い捨てのおしぼりを忘れないようにしようと頭のメモに残す。卵サンドはすっかり胃の中に収まって、俺は、指先に残ったパンくずをそっと皿の上で払った。

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