羽化に唇 ▽▽▽ ( UNION / GARDEN )

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 掃除よし、チョコよし、冷蔵庫の中身よし、身嗜みよし。
 休日の昼下がり、いつもより念入りに家事をしてから家を出た。俺は基本的に人を家に呼ぶことに若干の抵抗があるタイプだ。でも今日は、三浦さんが来てくれるのが楽しみな気持ちと、三浦さんも楽しんでくれるかちょっと不安な気持ち。それだけ。パーソナルスペースを侵されるような不安感はまったくなかった。寧ろあの人相手だとつい自分から触れたくなってしまって逆に困ってる。三浦さんが一切嫌がらない拒まない人だから余計に。
 お昼を食べるにしては遅い集合時間だから昼食は済ませてきてもらうようにお願いしてあって、俺もコンビニのサンドイッチとかで簡単に。待ち合わせして家に帰ったらちょうどおやつの時間かな、くらいで調整した。ほら、バレンタインだし。それがメインの目的だし。
 それに、人目につかない場所というのはかなり助かる。俺も、流石に人前で三浦さんにチョコレートを渡す勇気はない。
 ちょっと早く出てきてしまったかなと思ったのに、三浦さんは既に改札の前にいた。長身細身だから遠目でも目立つ。黒いマスクをしてるのがぽいなーと思う。俺に気付いたからなのか、背筋がちょっと伸びるのがなんだか微笑ましかった。ひらひらと手を振ってみる。
「ごめん、待たせちゃった」
「おれがちょっと早く着きすぎちゃったんです。気にしないで。……あの、今日はありがとうございます。おれのわがままでわざわざ」
「え、なんで? 俺も楽しみにしてたんだからそんな風に言わないで。というかそもそも俺から言い出したことじゃん!」
 三浦さんが微かに俯いて、伏せられた目元の端がほんのりと赤くなっていたからなんだかいけないものを見ている気分になってしまった。んー……三浦さんって童顔だし幼い印象の人だけど、ふとした瞬間の表情の作り方は妙に色っぽかったりするよな。
「ね、行こ」
 急に気恥ずかしくなってしまって言葉少なにそう促すと、三浦さんは目元を和らげた。並んで歩きながら、時折地面に伸びる影が重なり合うのをじっと見ていた。

「わ、兎束さん部屋めちゃくちゃ綺麗ですね」
「そう? ありがと。そんな見られると恥ずかしいけど……」
 三浦さんの第一声に、そりゃいつもより気合い入れて掃除機かけたし埃のチェックもしたし、と内心緊張する。至って平均的な設備の一人暮らしの部屋……だと自分では思ってる。トイレと風呂は分かれてて、キッチンのコンロは一応二口。ベッドとローテーブルと、引出し付きのテレビ台と小さなテレビ。目立つ家具はこれくらい。ノートPCを使うときや食事のときは全部ローテーブルのお世話になっている。三浦さんが来るからってことで最近大きめのクッションを買い足した。強いて言うならちょっと狭いかもだけど、駅まで徒歩三分会社まで二十分、というのは何物にも代えがたい。
「いや綺麗すぎてつい見ちゃうっていうか、でも、恥ずかしがることなんて何もなくないですか? そもそも物が少なくて目に入る部分殆どないですよ」
「あー、物を見えるとこに出しとくのなんか嫌なんだよね。床に置くのは家具だけがいいし、あとは全部引出しとかクローゼットの中とかに入れておきたい……」
「兎束さんそういうとこ几帳面だしちゃんとしててすごいです。おれ本とかCDとかつい寝かせて積んじゃう」
「三浦さんは結構物持ちだよな」
「引越し多すぎて一時期かなり減ってたんですけど、最近は割と安定してきて実家に預けてたCD引き取ったりしてたんで……」
 あ、そっか、不可抗力で物を少なくせざるをえなかった時期があったのか……。そういやキイチさんがそんなこと言ってたっけ。じゃあ今三浦さんの部屋に物が増えてるのはいいことだな。
 俺が色々と物を置くのが嫌なのは、綺麗好きというよりは自分の持ち物を人目に触れさせたくないという意味合いが強いから、まあこれも三浦さんが相手ならちょっと恥ずかしくはあっても嫌ではないんだろうな、と思う。何事も相手次第なのが自分の現金さにちょっと呆れてしまうけれど。
「兎束さんって会社のデスクの上も綺麗ですもんね。ほんとにここに座ってる人いるの? ってくらい」
「はは、流石に作業中はペンくらいは出してるけどね」
 三浦さんのデスクの上にはよくOA用紙が山になってる。というか、どうやらプリンターを使った後の用紙一年分を溜めて年末の大掃除のときに一気に捨ててるっぽい。ものぐさだなぁ。別に紙は汚くないからいいのかもしれないけど。
 三浦さんって色々なところが結構雑だ。自分の感覚とはかけ離れたものを見ているとちょっと面白い。彼はOA用紙の入ってる包装紙をビリビリ破くし、丸めて捨てる。俺だったら、なるべく破かないように畳んで捨てる。包装紙丸めるとゴミ箱に入れたときに嵩張るから。
 彼はきっとそういうとき、早くて面倒じゃないことを重視している。でも会社から家が遠いことや、最寄り駅に各駅停車しか停まらないことや、駅から家まで割と歩くようなことはあまり気にしてない。
 こうして考えると俺と三浦さんって相違点多いな。それなのに一緒にいることが心地いいのは相性がいいからなのか、恋に舞い上がっているからなのか……。うーん、あまり深く考えるとよくないことになりそうだ。やめておこう。
「そのクッション使っていいよ。飲み物淹れてくるね」
「ありがとうございます。えっと、手伝わなくて大丈夫ですか?」
「お客様なんだから座っててよ。それにほら、チョコも持ってくるから」
 ぱっ、と表情が華やいだのはきっと見間違いではないのだろう。俺は、自宅用に買っておいたチョコレートペーストを使ってココアの準備をする。牛乳を温めて、前に作ったときと同じようにペーストを溶かしていく。ふわりと甘い匂いが辺りに漂って、それだけで幸せな気分になれる。
 チョコレートは十六度から十八度っていう半端な温度で保存せよとのことで最初困ってしまったのだが、ジップロックで箱ごと包んで野菜室に入れるという荒業でどうにか……凌げているといいな、と思う。こっちは家を出る前に冷蔵庫から出してショッパーの中に戻しておいた。今まで全然気にしてなかったんだけど、食べるちょっと前に常温に出しておくのがいいらしい。扱いが繊細だ。
 出来上がった二人分のココアをマグカップに注いで、チョコの袋は手首に引っ掛けて、俺は三浦さんのところに戻る。なんだかそわそわしているように見えてこっちまで余計に恥ずかしさが込み上げてきた。
「三浦さん、はいこれ」
「あ、ありがとうございます……」
「なんか緊張してる?」
「そりゃしてますよ」
「あはは、なんだそれ。可愛い」
 三浦さんの手がしっかりとマグカップを包んだのを見届けてから手を離す。自分のはテーブルの上に置いて、チョコレートを袋ごと差し出した。
「そんなわけで、ハッピーバレンタイン……みたいな? えっと、三浦さんの好みに完璧合致するかは分からないんだけど、一応ちゃんと味見して美味しいって思ったやつ! 買ってきたから! あとね、ビンの方は牛乳に溶かすだけでココアになるやつ……パンに塗ったりしてもいいみたい」
 緊張で無駄に喋りすぎている気がする。変に思われてなきゃいいけど。
 俺の差し出した袋を受け取った三浦さんは、じっと袋を見て、中身を取り出してテーブルの上に丁寧に並べて、ぽつりと「兎束さん、初めて勉強会するときもココアとチョコレート買ってきてくれましたよね」と呟いた。
「そうだね、やっぱこれ芸がなかった?」
「ううん、そうじゃなくて。兎束さん、前からずっと、おれの好きなものについてたくさん考えてくれてたんだなって……思って。別におれが頼んだからとかじゃなくても、考えてくれるんだなって」
 食べていいですか? と聞かれてもちろんと返した。
 長い指が想像していたよりもずっと丁寧にチョコレートの箱のリボンを解いて、ゆっくり蓋を開ける。小さなリーフレットと緩衝材と思しき紙でできたクッションを取り外し、小さな箱の中に行儀よく詰まった四粒のチョコレートのうち一粒をつまんだ。
 ぱくり。一口でチョコレートを食べた三浦さんの表情が途端に綻ぶのが分かって、心臓がきゅうっとした。
 なんかもう、この二秒で俺報われた。そう思わされた。そのくらい嬉しそうに食べてくれたし、美味しい、って伝わってきた。
 シンプルで、色味も落ち着いてて、四粒それぞれに別のお酒が使われているチョコ。外側の箱は黒に白い文字でシックだけど、内箱というかチョコレートが入っている土台のような部分がちょっとビビッドな色合いで、それが黒い箱の隙間から見えているのがお洒落だと思った。ぱっと見じゃ分からない。こういう遊び心は好きだ。見た目が好きになれて、味も美味しくて、アルコールが入ってるのは三浦さんも好きなんじゃないかな、って思ったからこれを選んだ。
 しばらくもくもくとチョコレートを咀嚼していた三浦さんは、俺が彼のことをじーっと観察していることに気付いたからなのか途端に恥ずかしそうにした。口元を手で隠して、けれど、隠し切れない笑顔を俺に向けてくれる。
「――美味しい。わがまま言ってよかったって思いました」
 蕩けるような笑顔で「ありがとうございます」と言って今度はココアに口をつけた三浦さんは、「うわ、こっちも美味しい」とこれまた嬉しそうだった。
「兎束さん、もしかしなくてもかなり悩んでくれましたよね」
「えっ……な、なんで?」
「だってここのブランド有名ですけど初手でおすすめされるとこじゃないですし。ネットで調べたとかじゃなくて催事場行ったでしょ」
 うわもう即バレるし! 俺かなり恥ずかしい奴じゃん!
「……三浦さんも名探偵になれるんじゃない」
「ふは、照れてるの? かわいいね。こっちのココアはおれ初めて見ました。たまにこうやってちゃんと淹れたココア飲むと美味しいですねやっぱり……」
「うう……気に入ってくれて嬉しいです……」
「兎束さんが淹れてくれたから余計に美味しいんでしょうねきっと」
 これ以上俺を恥ずかしがらせてどうしたいんだ。勘弁してよ。
 とまあ、そんなこと言えるはずもなく。俺は返事をしなくていい口実に、自分のココアを一口飲んだ。
 前に一人で飲んだときよりも断然美味しい気がしてしまって、そのことが余計に恥ずかしかった。

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