羽化に唇 ▽▽▽ ( UNION / GARDEN )

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「う、わ…………」
 一月も終わりを目前に控えた某日。仕事終わりにチョコレートのリサーチをすべく百貨店を訪れた俺は、催事場の入り口を目視して思わず呻き声のような何かを漏らしてしまった。
 人、人、人。とにかく人。人ばっかり。ほぼ全員が若い女性客。バレンタイン催事場は、妙な熱気に溢れた場所だった。
 意を決して中に突入する。女性客ばかりなので、目線が高めの俺は後方からでも混雑から想像するよりは商品が見やすい。たまに男性もいるけど、大体彼女連れ……というか、彼女に連れられて来ましたという感じだった。道幅が狭いわけじゃないのに、すれ違うのに気を遣わなきゃいけない程度には混んでいる。
 たまに空いている店があるかと思えば完売の表示。各ブースでは試食用のチョコレートが飛び交い、客はみんな、きらきらした瞳で買い物を楽しんでいた。
 いかんせん、種類が多すぎて目が回る。最初は雑誌をパラパラ捲るような感覚でざっと一周して、二周目は気持ちゆっくりと商品をひとつひとつ眺めていく。所感としては、超有名どころは分かるけれどそれ以外はさっぱり――といったところだ。驚いたのが、ブランドの名前はもちろん知ってるけどまさかここがチョコレートを売ってたなんて……みたいな店もあったこと。俺、昔ここの香水貰ったことあるわ……。
 そんな新鮮な驚きを感じつつ、俺が普段接しているチョコレートと文字通り桁が違う値段にビビりつつ。眺めていると店員さんが試食を出してくれるので、食べてみれば確かにこれは美味しい。ここまでの値段を取るだけあるなという味がした。正直なところ、俺にはコンビニのチョコでも十分すぎるくらい美味しいんだけど……三浦さんはチョコ好きだし貰い慣れてるだろうから舌も肥えてるはずだし、慎重に選ばなければ。元々、今日はいくつか試しに買ってみて美味しいと思ったものを改めて買いに来る予定でいる。一番小さな箱は二粒入りとかでしょ? 試しに買うにはいいサイズだよな。
 どれも美味しくて味では何も決められなかったので、なるべくシンプルで、品がいいなと思うものをいくつか購入してみる。本番は四粒入りとかでいいかな。あんまり高いと気を遣われそうだし、何よりガチっぽくなっちゃって怖がられたら本末転倒だ。
 本日の目的は達成したことだし、人も多いしさっさと退散するか……と催事場を出ようとしたところで、ふと視界の端に気になるものが映った。一瞬チョコレート味のプリンか何かかなと思ったのだが、どうやら違うようだ。
 それは、丸っこい小さなビンに詰められた、ペースト状のチョコレートのようなもの。ショーケースの中に並んでいる商品の横のポップには、『ホットミルクで割ってホットチョコレート(ココア)に!』という説明が記されていた。
 粉末じゃなくてペースト状なのが珍しいな、と思いながら眺めていると、ショーケースの向こうにいた店員に声を掛けられる。客としてロックオンされたらしい。
「そちらは大変人気の商品となっております。本日は贈り物をお探しですか?」
「そんな感じです。今日は下見で、バレンタイン近くになったらまた買いに来ようかと思ってて。……これ、ペースト? っぽいですけど、ココアになるんですか?」
「はい。このペーストのままパンに塗っていただいてもいいですし、温かい牛乳に溶かせばココアやホットチョコレートとしてもお楽しみいただけるんです」
「へー! 美味しそうですね」
「美味しいんですよ〜! ココアって、ココアパウダーとお砂糖ににちょっぴり牛乳入れて、練ってペースト状にしてから牛乳を追加して温めるのがスタンダードな美味しい淹れ方なんですが、正直面倒じゃないですか」
「あ、そっか、これってココアを練るところまでやってくれてるイメージですか?」
「そうなんです! 手軽に濃厚なお味がご自宅でお楽しみいただけます。この時期、甘いものがお好きな方への贈り物におすすめですし、もちろん自分へのご褒美にも」
 いいな、と思った。実は、ココアやホットチョコレートは選択肢に入れてはいたのだ。チョコレートよりも時間をかけて消費するものだから、その分長く三浦さんの記憶に留まるかな……とか、そういう打算込みで。でも、少し考えて一旦候補から外した。なんでかって、三浦さんの性格的に合わないんじゃないかな、と思ったから。
 実は、ココアの淹れ方は事前に調べた。高級ココアにはそれに見合った手間のかかる淹れ方が推奨されていて、それはさっき店員さんが説明してくれたものとほぼ相違ないもの。でも三浦さんは普段、スティックに入った粉末状のココアを愛飲している。お湯入れてそれでOKなやつ。彼はどうにも面倒くさがりで雑なところがあって――以前、SEにはものぐさが向いているのだと力説していたけれど――基本的に面倒な工程を経るものは向かないのだ。俺が以前三浦さんの家に行ったときは牛乳を温めてココアを淹れてくれたけど、そして三浦さん自身、お湯より牛乳の方が美味しいと感じているみたいだけど、一人のときは面倒だなという気持ちが勝つらしい。
 断言してもいい。三浦さん、ココアパウダーを練ったりとか絶対しない。
 だからこそこの商品はいいなと思った。流石に、三浦さんでもこれなら牛乳を温めるくらいはやってくれる……はずだ。たぶん。それすら面倒ならパンとかに塗ってもいいみたいだし、極論そのまま食べてもいいだろう。
「……これ、小さいのひとつ頂いてもいいですか?」
「かしこまりました。本日のお買い上げはご自宅用でしょうか?」
 今日は下見だと言ったのを律儀に覚えてくれていたらしい店員に頷いて、財布からクレジットカードを取り出す。手に持った可愛らしいショッパーが若干ビジネススーツから浮いている気はしたけれど、いい買い物ができたというほくほくした気持ちの前ではまったく関係ない。
 さっそく、帰ったらこれでココアを淹れてみよう。楽しみだ。

 家の近くのコンビニで牛乳を買って帰宅した。身支度をリラックス状態に整えて、今日買ったチョコレートをテーブルに並べてみる。なかなか壮観だ。
 続けて、小さなビン。これはキッチンで開けた方がいいかな、と移動してから蓋を開けると、ふわりと甘く濃厚なチョコレートの匂い。飲むときだけじゃなくて作っている間も匂いが楽しめるのはかなりいいんじゃないだろうか、なんて、三浦さんの反応を想像してちょっぴりうかれてしまう。
 牛乳を沸騰させないように温めて、ビンの中からペーストをすくって投入し溶かす。たちまち牛乳がその色を変えて、甘い匂いは更に強くなる。そうして出来上がったココアをマグカップに注ぎ入れ、チョコレートが並ぶテーブルまで移動して――最後に気付いた。
 これ、勉強会のときに三浦さんに差入れするセットの豪華版じゃん。ココアとチョコレート。
 なんだか微妙に恰好つかない結果になって笑ってしまう。まあ、所詮俺じゃこの程度だろう。三浦さんにも『なんだか勉強会みたいすね』と笑ってもらえればいい。
 口の中をリセットする用の水も用意して、ふんわりと甘い匂いに包まれながらココアを一口。たちまち胃の中が温かくなって、ほっと息をつく。
 ココアなんて、三浦さんに出会うまでは人生で数えるほどしか飲んだことがなかったはずだ。それこそ、飲んだか飲んでないかまったく記憶に残ってないくらいには選択肢に挙がらなかった。メーカーにだって全然こだわりなかったのに、今の俺は、こうしてお高めのココアを飲んで美味しいと思える機会を手に入れている。
 チョコレートだってそう。生チョコとトリュフチョコの違いなんて今日初めて意識した。
 三浦さんのことを好きにならなかったら、俺はこんな高いココアの味を知ることもなかったし、チョコレートの種類の違いについて考えることもなかった。
「……うわ。これうっま」
 自分が貰ったときよりも人に贈るときの方が真剣にチョコを味わっているというのが笑えるけれど、こんな風に誰かに対して真剣になれる自分がいたことは嬉しいなと思う。そういう“誰か”を見つけられたことを幸運に思う。
 ――そういえば、三浦さんも言ってたっけ。『兎束さんの話もっとちゃんと理解したくてサッカーのルール調べてみたんですけどやっぱ難しいですね……』とかなんとか。
 ライブで歌う以外の運動は義務教育で卒業したらしい三浦さんが、俺の話を理解したいからって理由でサッカーに触れてくれたことがどうしようもなく嬉しい。あの人、前はサッカー部のこと“陽キャ部”って謎の認識してたっぽいけど、今はたぶん“兎束さんが中学と高校で入ってた部活”って思ってるしな。
『オフサイドって何……? なんでこんな意味不明なルールがあるんですか?』
『ずっと前からこういうルールだしなー、そういうものとしか……まあ細かい変更入ったりはしてるけど。というかプログラミングだって謎のルールとか表記とかあるじゃん。hogeとpiyoとか』
『それは一応みんなの共通認識になってて割と便利ではあるんですよ、便利ではあるから……』
『でも謎じゃん』
『そうですね』
 そんな会話をして笑い合ったこともあった。思い出してつい口元が綻ぶ。
 三浦さんって基本的に自分の興味あること以外はスルーってタイプなのにな。そういうとこ優しいんだよな。
「ん……よし。これにしよ」
 俺は、テーブルの上に並べた箱のうちひとつを手に取る。これが今の俺の精一杯。チョコレートは全然詳しくないけど、三浦さんは甘めのやつが好きだよな、とか、ちょっとくらいアルコール入ってた方がいいのかな、とか、味は色々種類があった方が楽しいのかな、それとも、とか……とにかく三浦さんのことだけ考えて、選んだ。
 喜んでくれますように。
 それで、ちょっとだけでもいい、彼の記憶に残りますように。

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