羽化に唇 ▽▽▽ ( UNION / GARDEN )

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 謙遜でもなんでもなく、俺はチョコレートブランドの知識なんて殆どない。これまで割と貰ってきた方だとは思うんだけど、わざわざブランド名まで意識はしないっていうか……正直なところ、チョコレート自体にそこまで興味がない。
 頑張って選ぶよと言った手前、やっぱり少しくらいは喜んでほしい。そう思うのは許されるはず。
 こんなときこそフォンダンショコラが好きと言っていた彼女を頼るべきだろう、と連絡をしてみたのだが、メッセージを送って二秒で既読が付き、直後に通話がかかってきて叱られてしまった。
『湊くんどうしたの、いよいよ恋で頭駄目になっちゃった?』
「いや酷くない……!? だってほら、俺よりは確実に詳しいと思って」
『湊くんが選ぶことに意味があるんでしょ? 私が選んだって意味ないよぉ。というか一番やったら駄目なことだと思うけど』
「……や、やっぱり?」
『普通に考えて、好きな女の子へのプレゼントを別の女と選ぶ男はカスです』
「いや口悪……めちゃくちゃ言うじゃん……」
 女の子ではないけどさ。いや、分かる。分かるよ? 分かってるけどそれでも不安なんだって!
 けれど、諭すような口調に少しだけ冷静になるのを感じた。そうだ、こういうのに近道はない。疎いならまず勉強して、実際に味見でもしてみて、じっくり選べばいいのだ。不安だ不安だって言ってるだけじゃだめ。
「因みにだけど、バレンタインの催事場とかって男が単身乗り込んだら浮く……?」
『へんけーん。そりゃ人数比では珍しいけど、浮きはしないと思うよぉ? 有名ブランドの行列とか、あーたぶん取引先に渡すために買いに来たんだろうなーって中年のおじさま並んでたりするもん。いっそスーツで行けば? 仕事感出るし』
「うう……これまで貰ってきたチョコもっと真面目に味わっておけばよかった……全然味覚えてない……」
『湊くんって本命には意外とポンコツだったんだねぇ。というかなんできみがあげる側なの?』
「……相手がチョコレート好きだから」
『んふ。かわい。そっかそっかぁ、健闘を祈る!』
 そんな言葉を最後に通話の終了したスマホを未練がましく見つめて、ふう、とため息をひとつ。腹を括ろう。チョコレートをあげた後の三浦さんの笑顔を想像して……うわ、うわうわうわ、しっかり想像できる自分が気持ち悪い。妄想の中で勝手に喜ばせちゃってごめん、三浦さん……!
 一人暮らしなのをいいことにベッドの上でじたばた身悶えてしまう。いやでも、喜んでもらえるのを期待しちゃうのは不可抗力だろ! 別にいいだろ、それくらいは!
 そわそわと落ち着かなくて、無意味にベッドから起き上がったりまた寝転がったりしてみる。善は急げと自宅に一番近い場所のバレンタイン催事を検索してみたら、出店店舗が軽く百を超えていて早くも気が遠くなった。……この中から選ぶの? ほんとに?
 だめだ、うかれてる。絶対うかれてる。この状態で重大な決断はしちゃいけない。とりあえず今日はもう寝よう。おやすみ。

 俺は気付いていなかった。今年のバレンタインが休日だってことに。
 それに気付いたのは次の日、会社で二月分のスケジュールを確認していたときのこと。俺は思わず三浦さんにメッセージを送ってしまった。『今年のバレンタインって会社休みだったね』と。どうしよう、ちょっと早いけど金曜にするか? たぶん他のみんなもその日にくれるだろうしな……。
 そんなことを考えている間に、ぽこん、と返信があったことが通知される。しかしその内容はというと、俺が想像もしていないものだった。
『そうですね。待ち合わせ決めときます?』
 ……待ち合わせ? あれっ? どこかで会うってこと?
 あ、そっか、三浦さんはバレンタインが休日って分かってた上で俺の提案を受け入れてくれたのか。じゃあ当日に会うのもおかしくない……よな? ん? おかしくないよな?
 つまりこれってバレンタインを共に過ごすプランを考えなくちゃいけないのでは、ということに思い至ったのは数秒後のことだ。いや、だって、俺から誘ったし。たくさんバレンタイン楽しんでほしいし。……なんか急にハードル上がったんだけど!?
 ともあれ三浦さんをあまり待たせるのも悪いので、ひとまず無難に返信をしていく。
『どこか行きたいとこある? 昼か夜一緒に食べるって考えてて平気?』
『そうですね、ご飯一緒に食べたいです。行きたいとこってどこでもいい?』
『いいよー。日帰りできるとこなら。つっても海外は除く!』
 軽口を叩きつつ返事を待つ。三浦さんにしては少し間が空いて、やがて送られてきたメッセージの内容に時が止まった。
『じゃあ、兎束さんの家行ってみたいです。駄目ですか?』
 おれの家には何度も来てくれてるから、おれも行きたい。そう追撃されてようやく時が動きだした俺は、確かになと唸る。設備が揃ってるっていうのもあって、勉強会は基本的に三浦さんの家でやっていた。毎回お招きされて歓待してもらって、確かに負担が偏っていると思うし実際気になってはいた。三浦さんは『家から動かなくていいなんて楽』とかなんとか言ってくれてたけど、やっぱり人を自分の家に招くのにはそれなりに準備も要るし気も遣うだろう。
『いいよ。じゃあ俺の家の最寄り駅で待ち合わせしよっか』
『ほんと? ありがとうございます。嬉しい』
『これまでたくさんお招きしてもらってるからねー。三浦さんのとこみたいに広くないし面白いものもないけど許してね』
『別にいいですよそんなの。兎束さんがいるってことが重要だから』
 とくん、と鼓動がひとつ体の中で響いた。それと同時に、少し勿体ないことしたかもな、と惜しい気持ちになる。
 だって、もし直接会話してたら、三浦さんはきっととてもいい笑顔でこれを言ってくれていただろうと想像できたから。メッセージでのやりとりよりは電話がいい。電話より会って話したい。少しでも彼の存在を感じていたい。他の人が相手のときは煩わしく思ってしまうような何もかもが、彼だけは例外なのだ。
 俺には、彼だけ例外なことがたくさんある。特別扱いしたいと感じて、それを実行することがたくさんある。そのたびに実感する。三浦さんのことがこんなにも好きだってこと。
 詳しい待ち合わせ時間を決めながら、ぼんやりと物思いに耽る。俺は、自分がこういう人間だってことを全然知らなかった。元からそういう性質があったのかそれとも三浦さんを好きになって変わったのかは判断できないけれど、それすら悪くないと考えそうになる自分がいて驚く。
 俺の中には三浦さんへと向かう大きな気持ちの矢印みたいなものがあって、その矢印の先端が彼を傷付けてしまわないようにいつも願ってる。それと同時に、ほんの少し、どんなに小さな矢印でもいいから、三浦さんから俺に向くものも欲しいと祈っている。
 ……現実を全て無視していいなら、本当は、俺の抱えたこの大きな気持ちと同じくらいの矢印が欲しい。
 気持ちが釣り合っていてほしいと思ってしまう。我儘だけど。
『じゃあそんな感じで。当日楽しみです』
 ぽこんと表示されたメッセージに我に返った。
『うん。俺も楽しみ』
 社交辞令ではない、本気の『楽しみ』だ。思ってることをこんなにはっきり表現できるようになったのは、三浦さんのお陰。素直になることや内心をぶちまけることに対して、まるで弱味でも握られてしまうかのような恐怖心を抱いていた俺にとっての大きな変化。
 今までぼんやりと遊んできた女の子たちにほんの少しだけ申し訳ない気持ちが湧いた。俺がこの感情をもっと早く知っていれば、彼女たちからの連絡に面倒だと思いながら返事をすることも少なかっただろうし、そもそも適当な気持ちで体の関係を持ったりしなかったかもしれない。遊びから始まったのに途中で本気になられて、しんどいなあと思ってしまったこと。そういうつもりじゃないのになあ、なんて思ってしまったこと。今となっては全部、自分に返ってきたらと思うと怖い。怖いと思えるようになった。
 こんなに変わった。いや、変えられてしまった。
 でも、俺を変えてくれたのが三浦さんでよかった。本当に、そう思う。
 だって、ほら、この変化ってたぶん一生俺の中に残るものだから。この先俺が失恋を楽しめるようになったり、俺か三浦さんのどっちかが転職して連絡が途切れたり、もっと言っちゃうと定年退職すれば縁がなくなったり、するかもしれない。でも、“三浦さんを好きになったことによる変化”は消えてなくなったりはしない。
 初めて心底好きになった人が一生消えないものを俺の中に残してくれるって、それだけでなんか、胸がいっぱいになる。たとえ俺が勝手に大事にしてるだけだったとしても。
 俺って、自分で思ってたよりロマンチストだったみたいだ。
 こっそり笑う。仕事中にふと好きな人のことを考えるなんて、ちょっと前の俺じゃ想像もつかなかった。
 そろそろ集中しないと、なんて半ば無理やり頭の中をリセットしようと試みる。意識を切り替える直前、三浦さんも俺の十分の一くらいの頻度だって構わないから、俺のことをふと考えたりとかしてくれないかなあ、まあ無理だよなあ――なんてことを考えて。
 その甘酸っぱさと虚しさを、同じ頭の引き出しの中にできるだけ優しくしまっておいた。

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