羽化に唇 ▽▽▽ ( UNION / GARDEN )

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 年明けのなんとなく怠い空気もすっかり入れ替わり、平常運転に戻ってきた。来月末くらいにかけては閑散期なのと、そろそろ年度の切り替わりの時期も近いので有休を消化していかなきゃならない。
「三浦さん、ちゃんと有休とれてる?」
 俺は、帰り道、隣を歩く三浦さんにふと問いかけてみる。産業医面談は本部長の心配しすぎだったにしても、彼の残業が普段から多いのは事実。どうやら三浦さんは面談を経て、『しばらくは最低でも週に一回は定時退社するように』と言い含められたらしく、今日はかなり早い時間の帰宅である。
 彼の返事は、想像通りあまり芳しくないものだ。
「とれてなくて人事からメールきました。ほら、有休取得義務? ノルマクリアできてなかったせいで有休取得予定日を即刻返信しろって言われた……」
「最低五日だっけ。ちゃんと休まないとだめだよ」
「有休って申請するの面倒でつい放置しちゃうんですよね……閑散期に自動的に一週間くらい休み設定してほしいんですけど」
 確かにそれはちょっと思うかも。でも、小さい子供がいる家とかは病気で突発的に病院行かなきゃだったりとか、学校行事とかPTAとか、色々あるみたいだから自分の裁量で取得できる方が助かるって言ってた気がする。難しい問題だ。
「せっかくだからチョコレートでも買いに行こうかな」
 ぽつりと呟かれた独り言のようなそれ。チョコレート……って、ああ、そっか。
「もうすぐバレンタインシーズンか」
「そうそう。催事も色んなとこでやりますし」
「ということは今年もお返し考えなきゃいけない時期が近い……」
「既に予定入ってるんですか?」
「営業部はねー、女性陣が有志で部署全員にくれたりするから。あと、取引先の社員さんに意外と貰う」
 ああ、と納得した様子の三浦さん。三浦さんがもし営業だったらきっと大量にチョコ貰ってたんだろうな。甘い物好きだし、お返しもそんなに悩まなそう。
「兎束さんって昔からチョコたくさん貰ってそう」
「否定はしないけど、三浦さんだってそうじゃない?」
「あー……まあ、そうなんですけど。どうしても過激な感じになるっていうか、おれバレンタイン自体にいい思い出はあんまりないんですよね。チョコは好きだしバレンタインシーズンも好きだけど」
 うわ、そうだ。キイチさんが言ってたっけ、『昔からヤバめの手作り貰ってくることが多かった』みたいなこと。
「ご、ごめん。嫌なこと思い出した?」
「ううん、大丈夫です。そっか、兎束さんになら話せるかも。笑い話として聞いてくれません?」
 バレンタインにチョコ貰いすぎて困るとか嫌味すぎて大っぴらに言えないですよね、と苦笑いする三浦さんに、なるべく柔らかい表情を心掛けて頷く。少しずつこうやって、彼の過去を教えてもらえるのが嬉しい。信頼の証みたいに思える。
「今思えば初動で完全に失敗しちゃってるんですけど、チョコレートとかの甘いものが好きなこと、昔は普通に公言してたんですよ。貰えるの嬉しかったし」
 昔は普通に公言して、チョコレートを貰えることを普通に喜んでいたらしい三浦さん。徐々に何かがおかしくなっていってるのに気付いたのは、やはりというかなんというか、キイチさんが最初だった。
「おれ全然気付いてなかったんだけど、キイチの言った通りだったんですよね。なんか……なんだろ、みんなが“競う”ようになったっていうか」
 ぴんときた。「三浦さんにチョコあげる子たち同士で勝手に張り合うようになった?」俺の予想はどうやら当たったらしく、「兎束さんおれが全部話さなくても分かってくれる」ときらきらした瞳で見つめられて恥ずかしくなる。
 要するに、誰が一番三浦さんに“いいもの”をあげられるか――三浦さんを喜ばせることができるか、感情を揺らすことができるか、競争みたいになってしまった、ということなのだろう。たぶん三浦さんって、チョコ貰ったら相手がどんな人でも『え、嬉しい! ありがとう!』って笑顔で言ってくれるタイプなんだと思う。絶対そう。平等で残酷だ。
 例えばクラスで一番可愛い女子からだろうと、地味で目立たない女子からだろうと、同じような態度で同じように喜ぶ。誰から貰っても嬉しいよ、を素でできる。みんな、それで“おかしくなる”。
「学年に一人や二人はいるでしょ、料理が得意な子。そういう子が手作りのクッキーくれたことがあって。模様とかも凝ってて子供心に感動したんで、そういう風な感想を言ったんだと思うんですよきっと。そしたら次の年には別の子からチョコレートケーキがホールできたっていう。まあその子だけじゃなくて、やけに手作りの比率が高かったんですよね、そのとき」
「あー……手作りの方が喜んでもらえるみたいな判定が入ったのかもね」
「たぶんそう。別に、全然気にしてなかったんですよそういうの。手作りに比べて市販は気持ちで劣るなんて思ってないし。でもおれ、周りからはそんな風に見えてたんでしょうね」
 あはは、と苦笑いする三浦さん。そういえば、笑い話として聞いてくれって言ってたっけ。笑い飛ばしてみるべきなんだろうか。
 ……それは無理、というか嫌だな。
 だって三浦さんは、俺がコンビニで買った数百円程度のチョコレートでも喜んでくれる人なのに。
 一事が万事、こういう感じだったんだろう。別に全然三浦さんのせいじゃないのに周りが勝手に追い詰められていく。それで最終的に、三浦さんの傷になる。きっと彼は他にも、こういう傷をこっそりと持っている。
 その女の子たちだって三浦さんを傷付けたかったわけじゃないっていうのは痛いほど分かる。ただ、好きな人に喜んでほしかっただけ。他の人よりも特別喜んでほしかった、それだけなのだ。
「……上書きしよっか」
 ぽろりとこぼれた言葉は、自分が想定していたよりも随分と力強いものになってしまった。不思議そうにしている三浦さんに、思考がまとまらないまま喋る。
「今年のバレンタインデーは楽しいことだけにしよう。それで、バレンタインって聞いたときには真っ先にそれ思い出してよ」
 きっと彼も、昔は純粋にバレンタインデーのことが好きだったはず。傷を消し去ることはできなくても、楽しい思い出で痛みを和らげることはできるって信じたい。
 三浦さんは俺の言葉に何事か物思いに耽っている様子だったけれど、やがて囁くように、「また兎束さんが優しいこと言ってる」と吐息のような声を漏らした。
 だめだ、薄々分かってたけどこれは明らかに嫉妬。認めるしかない。これまで三浦さんにチョコを渡してきた顔も名前も知らない彼女たちに嫉妬してる。彼女たちは三浦さんの記憶に残ってる。たとえ傷も一緒に残しているとしても、いや、だからこそ、こうして何年経っても思い出してもらえる。
 三浦さんを傷付けたいなんて思わない。でも、だからこそ上書きできればいいのにと思った。
 まあ実際のところ、俺とバレンタインに何をして過ごしたところで彼の思い出を上書きするなんて無理で――せいぜい、そういえばそんなこともあったなって物珍しく思ってもらえることもあるかもしれない、程度なんだろうけど。
「まあ、男二人でバレンタインに何すんだって話だけど……はは。別に俺がチョコ用意してもいいけどね」
「えっ?」
 三浦さんなら何の含みもなく普通に喜んでくれそうだし、と思ってついそんなことを言ってしまったのだが、予想外に驚かれて途端に気まずくなる。そりゃそうだ、男が男に贈ってどうする。「ごめんごめん、冗談――」と誤魔化しかけたところに、また予想外に弾んだ声で「くれるの?」と被せられて今度はこっちが驚いた。
「あれ、冗談でした……? からかってる?」
「や……えっと、……欲しいの?」
 三浦さんはこくりと頷く。「うん。好きなので」一瞬どきっとしたがなんてことはない、チョコレートが好きという意味だろう。期待に満ちた目で見つめられて今度は別の意味で気まずくなった。だってなんか……俺が渡すとガチっぽくなっちゃうじゃん……! まあ正真正銘本気なわけだし当たり前なんだけど……!
「……俺そんなブランドとか詳しくないよ?」
「いいですよそんなの。おれは、兎束さんが選んでくれるならなんでもいい」
 保身で念を押してみたのだが、真正面から好意が返ってきて完敗だ。もうどうにでもしてほしい。これに抗える奴がいるならその方法を教えてくれ。分かってるよこの人の意味深な台詞は実際のところそこまで深い意味はないって。俺が勝手にぐちゃぐちゃ悩んでるだけだって。
 脳みそが限界だったので、俺の言葉を待っているらしい三浦さんにやっとの思いで「じゃあ、頑張って選んでみるよ。気に入ってもらえるか分かんないけど……」と伝える。
 たぶん俺がこう言ったら彼はまたぱっと笑って、気軽な調子でお礼でも返してくれるんだろう――なんて、思っていたのに。
 聞こえてきたのは、意外なくらい幼い声音だった。
「うれしい」
 お礼よりも何よりも先に、そのたった一言。へにゃりと眉を下げて俯きがちに笑った彼の、耳が寒さに赤くなっていることすらやけに鮮やかに見えた。
 あ、やばい、この感覚。
 さっきから俺の心臓は物凄いスピードで血液を全身に送っていて、鼓動が全身に響いているかのような感覚すらする。ドーパミン? アドレナリン? その辺りがどばどば出まくってるに違いない。恋でおかしくなる人がいるのも分かるよ、こんなん自分じゃ制御できない。視界が狭くなってその人しか見えなくなって焦ってばかり。
 成人男性、しかも自分より年上なのに、こんなにも可愛く見えるってどうすりゃいいの。誰でもいいから俺の目がおかしいって言ってくれ。俺のことぶん殴ってでもいいから目を覚まさせてほしい。
 俺にだけこんな風に見えてるのかな。
 それはそれで嬉しい気もしちゃうから、なんかもう救えない。こんなに可愛いの、俺だけが知ってればいいよ。そうであってくれ。
「兎束さんはやっぱり優しいですよね。ありがとうございます、いつも」
「そ、そう? はは、俺こそいつもありがとう」
 三浦さんは小さな声で、「……優しさに理由が欲しいと思ったの初めてかも」と言った。よく分からなくて首を傾げてしまったのだが、どうやら詳しく説明するようなことでもないと彼は判断したらしい。
「兎束さんが優しい理由が、兎束さんじゃなくておれにあればいいのにね」
「ん? え、どういう意味?」
「もうちょっと仲良くなったら教えます」
「あれ!? 俺今でも割と仲良くなれた気がしてたんだけど……!?」
 まさかこれすら自惚れか!? と慌てていると、三浦さんはきゅっと目を細めて笑った。あ、ごめん、自惚れじゃなかったね、また無意味に不安になっちゃった。三浦さんはこんなに真っ直ぐ感情表現してくれてるのに。
「からかわないでくんない……」
「……ふ。兎束さんって素直でかわいい」
 それをあんたが言うのかよ、と顔が熱くなってきた。きっと今俺の顔は真っ赤になっているんだろう。寒さのせいだと言い訳をできるのが、唯一の救いだった。

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