羽化に唇 ▽▽▽ ( UNION / GARDEN )

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 案の定飲食代は一銭も払わせてもらえなくて、俺は何度もお礼を言いながらキイチさんたちを見送ることになった。
「たぶんミナトが忘れた頃に連絡するわ! ちゃーんと練習しとくから!」
 や、たぶん忘れないと思うけどね。楽しみすぎて。
 こうしてなぜか連絡先を交換し、店を出て解散……かと思いきや、「兎束さんはこっち」と三浦さんにやんわり手を引かれる。今日は案外気温が低くない夜だ。酔った体にひんやりとした空気が心地いい。道を一本横に逸れると、辺りはひと気もなくとても静かだ。ビルとビルの間、通り抜けできるように作ってある隙間に収まって、俺たちは別れを惜しむ。
「あの……なんかほんと、今日スミマセン……あいつらうるさかったでしょ。あいつらっつーか、主に一人だけど」
「え、大丈夫だって! 俺こそ今日一日で込み入った事情聞きまくっちゃってごめん。あの、たぶん、三浦さんが本当に嫌がるようなことはキイチさんも言ってない……と思う」
「あー、その辺りはあんなんでも一応幼馴染なんで、信頼してます。うん。……ちなみにどういうこと言ってました?」
「…………三浦さんは誰のことでも好き、みたいな」
「ハ? おれそんな博愛キャラで生きてきた記憶ないですけど……」
「まあ確かに博愛とはちょっと言葉の印象違うかもね」
「誰のことでも好きかはよく分かんないですけど、兎束さんのことはかなり好きですよ」
「そ、…………そっかー」
 なんかまたさらっと爆弾落としたなこの人! 急すぎてびっくりしたんだけど!
 三浦さんは穏やかに笑って、「まあ、兎束さん的にはだから何って感じかもだけど」と囁く。なんでそんなこと言うの、めちゃくちゃ嬉しいよ。でもそれをどうやって伝えたらいいか分からない。どこまでなら踏み込んでいい? 素直に嬉しいって言って、俺の気持ちバレたりしないかな。
 ぐるぐる考えていると、伏し目がちだった三浦さんの視線がこちらを向いた。その瞳がほんの少し、何かの感情に揺れた気がした。どういうものに起因するのかは分からなかったけど、でも、何かを訴えかけるようだった。
「――っ、嬉しい! めちゃくちゃ嬉しいから!」
 気付いたら勝手に口が動いてた。当たり障りなくとか、そんなの意識する暇もない。思ったままが止める間もなく出た。不思議と恥ずかしさも気まずさもなくて、この人に好かれて俺は嬉しいのだ、ということを、素直に口にできたことが誇らしかった。
 充足感。達成感。何も取り繕わずに喋るってこんな気持ちいいんだ。レベルの低いことで感動してる自覚はあるんだけど、それでも嬉しい。
「……おれ、まだ好きでいていいの?」
「寧ろこっちがいいの? って感じなんだけど。嬉しいよ。っつーかまだってどういうこと? 期限付きみたいな?」
「んー……兎束さんが嫌になるまで?」
「はは、何それ。なら無期限じゃん」
 思わず笑ってしまったのだが、三浦さんはなぜか驚いた顔になって、次いで迷子みたいに視線を彷徨わせた。あれ、嫌だった? そういう流れじゃないと思いたいんだけど。
「……兎束さんを好きになる人は幸せですね」
 ぽつりと、砂がこぼれ落ちるみたいな呟きを鼓膜がキャッチした。
「急にどうしたの……? ありがとう……?」
「兎束さんは優しいし、人に好かれるのも上手だし、ちゃんと正解が分かってそう――」三浦さんは語尾が消えるよりも早く頭をがしがしと掻いて、「っあー……スミマセン、めちゃくちゃ反応しづらい話題出しちゃった。こんなこと言われたって困りますよね。ごめん、ほんと。無視して。昔のこと思い出して勝手にオチてるだけなんで……」と続ける。なんだかよく分からないが、三浦さんは何か落ち込むようなことを思い出してしまったらしい。
「――聞きたいんだけど。なんで途中でやめるの」
「ハ……?」
「やめないでよ。続き聞かせて」
「聞きたいの? つまんない話ですよ。キイチが話してるの聞いたでしょ、ロクでもない話ばっかだよおれの過去とか」
「それは聞く俺が決めることじゃん。キイチさんじゃなくて、三浦さんが話してくれる三浦さんの話が聞きたい。それに、三浦さんの話だったらつまんなくっても聞きたいよ」
 三浦さんが話してくれることだったらダンゴムシの話でも真面目に聞くよ、と伝えてみると、「なんでダンゴムシ……?」なんて本気で戸惑っている声が返ってきた。なんだろうね、分かんないわ。そのくらい意味不明な話でも三浦さんから聞けたら嬉しいってことじゃん? やばい、俺結構酔ってるかも。
「俺には聞かせたくない?」
 追撃してみると、三浦さんはほんの少しだけ息を詰めた。その視線はぼんやりと、どこか遠くを見ている。何を見ているのだろう。俺には分からない。
 ややあって、微かに、掻き消えてしまいそうなくらい微かに、助けを求めるような声が聞こえてくる。
「――おれのこと好きって言ってくれる人は、割といるんですけど。でも、みんなあんまり幸せそうじゃないから……なんか申し訳なくなっちゃうんですよね」
 瞬間、キイチさんの言葉を思い出した。『アキラを好きでいるのしんどいだろうなーって』と彼は言っていた。三浦さん自身も、それを自覚しているということなのだろうか。
 虚空を見て喋り続ける三浦さんの声は、必死で冷静さを装っているみたいに平坦だ。
 このまま好きでい続けるのは苦しいとかそういう系のことをよく言われるんです。告白されるときもフラれるときも似たようなこと言われるのちょっと面白いですよね。みんなおれを好きでい続けるのが苦しくて告白してくるし、同じ理由で離れてく。みんないつも不安そうにしてる。態度でも言葉でも好きって伝えてるつもりなんだけど全然足りないみたい。おれだってちゃんと好きなはずなのに気持ちに差があるんだって言われる。同じ気持ちじゃないって言われる。そういうこと言われるとおれも疲れてきちゃって、それで余計に相手が不安になる。もうずっと同じようなこと繰り返してる。
 俺は、相槌も打たずに黙ってそれを聞いていた。不安に思う人たちの気持ちがぼんやり分かるから。きっとみんな、三浦さんの心の一部分でもいいから独占したくて告白するのだ。恋人というポジションを確保して、それと同じように彼の心の中に居場所が欲しいと願っている。
 でもきっと三浦さんは、親しい友人と恋人との境がそこまで明確ではなかった――んだと、思う。
 元々、彼は俺みたいなただの同僚に対してだって好意ははっきり口にするタイプだし、態度も分かりやすい。だから、彼のこれまでの恋人たちは、自分がいつでも代替可能なものに感じて不安だったんじゃないだろうか。
 割といい線いってると思うよ。だって三浦さん、誰かを本気で好きになったことないらしいじゃん。たぶん、告白されて断る理由がないから付き合う感じ。だったら彼と付き合う人の不安はもう、必然としか言えない。俺も相手から言われて付き合うパターンばっかりだったけど……でも、俺は、意図的にちょっとの“差”をつけることができる。相手の自尊心を満たすような特別扱いができる。三浦さんにはきっと、それができない。
 いつ自分の立場が奪われるか警戒しながら生きるのは疲れる。
 ものすごく、疲れることだ。
「――おれが好きになった人に、おれのことを好きになってほしいって望むのは……もしかしたらすごく、酷いことなんじゃないかって……最近思うんです。もし好きになってもらえたとして、じゃあこの人もいつかおれのことを好きなせいで苦しい思いするのかなとか……」
 ――でも、この人にこういう顔させちゃうのは何もかも違うだろ!
 俺は、三浦さんの腕を掴んでその体を引き寄せる。なんだかまずいことをしているような気もしたけど、これ以上、自分を傷付けるみたいにして喋ってほしくなかった。
 ゆっくり抱き締めた体はやっぱり上半身がもこもこしていて、一体何枚重ね着してるんだろう、と場違いに愉快な気持ちになる。「兎束さん……?」と、遠慮がちな声が耳元で聞こえる。
「……そんなことない。大丈夫、不安になったら何度でも俺に確かめていいから……そのたびに大丈夫って言うから、そんな悲しいこと言わないでよ……」
 自分のことコントロールできなくて戸惑いの連続だけど、それでも、好きにならなきゃよかったとは思わないよ。好きな人から笑いかけてもらえるだけでこんなに嬉しいんだって驚いた。そりゃ苦しいことはあるけど、別に三浦さんのせいじゃない。俺が、俺の感情に振り回されてる。苦しいけど新鮮にも思うんだよ。
「たとえ苦しくっても、その何倍も楽しいって思ってる。三浦さんは……一緒にいると、楽しい気持ちになれる人だから。大丈夫」
 三浦さんのことが好き。かなり好きだよ。そんな俺が断言する。三浦さんが悲しい顔する必要なんかないってこと。
「な――なんで兎束さんが、そこまで言ってくれるの……」
「俺の言葉じゃ信用ならない?」
「そういうわけじゃない、です。嬉しい。でも、なんでこんなに優しくしてくれるのかなって」
 そんなの、三浦さんのことが好きだからだよ。俺は自分で言っちゃうけど八方美人で、でも、だからって誰にでもこんな捨て身で優しくはしない。できない。三浦さんが相手だから、ここまでしたいと思える。
「……俺だってさ、三浦さんが俺のこと好きって言ってくれるのと同じくらいには三浦さんのこと好きだから、そういう人には優しくしたいよ。それじゃ理由にならないかな」
 ずるい言い方をしてしまった。本当は、俺の“好き”と三浦さんの“好き”は意味が違うって分かってる。でもこうやって言うくらいは許してほしい。
 心臓が嫌ってくらいばくばく高鳴っていた。冬でよかった。これが薄着だったら一瞬で不審者がバレている。今更だけど、酔いに任せてとんでもないことしてるな、俺。それでも離れる気になれないのは、二度とこんな状況はこないって思ってるから? 酒で頭馬鹿になってるのかもしれない。
 彼の、静かな呼吸音だけを息を殺して聞いていた。
 やがて、ほんの少しの身じろぎと共にぽつりと、小さな小さな囁き。
「……こんなの、おれが勘違いしちゃいそうなんだけど」
 勘違い? 勘違いって、何が? 
 俺がそれを問うよりも早く、「兎束さんに好きになってもらえる人も、きっと最高に幸せだよね」という優しい声が鼓膜を撫でる。
 そう思うなら幸せになってよ。俺が好きなのは三浦さんだよ。笑っててほしい。誰よりも幸せになってほしい。三浦さんが寂しいときは一緒にいたいし、三浦さんが悲しいときはこうして傍で話を聞きたいよ。
 腕に一層力をこめる。きっと思い上がりでしかないんだけど、三浦さんの体温がさっきまでよりも少し上がっている気がして涙腺が緩みそうになった。
「……おれ、頑張ってみようかな」
「頑張る……? 何が?」
「んー……これまで、トラブル起こさないようにとか、勘違いされないようにとか、そういう後ろ向きなことばっかり頑張ってきたんです、おれ。だからこれからはもっと前向きなことで頑張りたいなと」
 例えば、好きな人に好きになってもらうとか。
 三浦さんはそう言って、「ありがとうございます、慰めてくれて」と、俺の背中をぽふぽふ叩いた。急に明るくなった雰囲気に戸惑いつつも安心する。頃合いかな、と思ったので、腕の力を抜いてそっと三浦さんから離れた。
「今日、兎束さんに会えてよかったです。せっかくの週末に遅くまでスミマセン。ありがとうございました」
「や、こちらこそ。どうせ連休予定なかったし……三浦さんこそ急に呼び出して大丈夫だった? 土日やることとか……」
「たった今予定ができました」
「たった今……!? そ、そっか。じゃあ急いで帰ろう。買い物か何か?」
 何の気なしの質問に三浦さんはにこっと笑って、軽やかな声で告げた。
「――とりあえず、手始めに美容院!」

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