羽化に唇 ▽▽▽ ( UNION / GARDEN )

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 おそらく会社では俺以外誰も知らないような三浦さんの秘密を打ち明けられて、けれどそれで仲が深まったかと言われるとそんなことはない。寧ろ、年明け仕事が始まってからというもの、俺と三浦さんとの間にはどこかぎこちない空気が流れている。
 正直なところ、俺にはまだ彼の話に実感が持てていない。話に聞いて想像はすれど、具体的に自分の身に置き換える段階には至っていなかった。それはきっと、三浦さんが入社してからこれまで自分の行動にかなりの制限をかけてきたからで、だから、まあ、俺に危機感が生まれないのは彼の努力の成果と言えるだろう。彼の傍にいて危険を感じたことなんて一度もないし、あの話を聞いたからといって彼を避けようとも思わない。
 けれど三浦さんには思うところがあるらしく、会話の最中、何かに悩むように返答までの間が空くことが増えた。ほんの一瞬のタイムラグだけれどどうしても違和感に気付いてしまう。俺も、未だにあのとき三浦さんがどうして悲しんだのか分からなくて、聞けなくて、もやもやが募るばかりだ。
 昼ご飯を一緒に食べる頻度も落ちている――ということに、きっとお互い気付いてる。そもそも、会話する機会からして減っている。でも、何も言えない。
 ねえ三浦さん。リンゴ美味しかったよ。まだまだたくさん残ってるけど、少しずつ食べてるよ。三浦さんは生でしか食べてないんだったっけ? もしよかったら俺が調理するよ――とか、家に誘ったら困らせるかな。
 ……年明けたらまた飲みに行こうって言ってたのにな。なんとなく言い出せない空気があるのを痛いほど感じる。俺が言い忘れてたら三浦さんから聞いてくれるって話だったけど、そういうそぶりもない。
 約束忘れちゃったのかな。いや、忘れてるわけじゃないんだろうな。言い出せないだけ? 俺から話題にしても大丈夫? 迷惑じゃない?
 もし今飲みに行こうと誘って、返答に間が空いたらきっとショックを受ける。実際は自分から踏み出す勇気もないくせにそんなシミュレーションばかりしてしまう。
 悶々と考えていたところに昼休みのチャイムが鳴って、はっと我に返った。……今日はお昼誘ってみようかな。で、タイミングが合えば飲みに行く話もしたい。
 椅子のキャスターを動かして通路の方を振り向くと、今まさに三浦さんが自席からオフィスの出口へと歩いていくところだった。慌てて追いかけようと腰を浮かせて、数歩踏み出したところで――足が止まる。
 ちょうど入口のところにいた同僚――佐藤が三浦さんに声を掛けていたのだ。そういえばあいつは随分と三浦さんに対する苦手意識が薄れていた様子だったし、忘年会でも随分とフランクに喋っていた。なんとなく、怪しまれない程度にゆっくりとした歩調で進みながら二人の会話に耳を澄ましてしまう。
「三浦サン今から昼飯? 今日は一人なんだ?」
「……そうですけど。どうかしました?」
「え、一人なら一緒食わない? 兎束とはよく食いに行ってるじゃーん。オレとも親睦深めよ! 今更だけど!」
 俺はそのとき、何の根拠もなく、三浦さんが誘いを断るだろうなと思ってた。なんでそんなことを思ったかなんて考えたくもない。だから、彼が逡巡の後、「……いいですよ」と小さく口を動かしたことに凄まじい衝撃を受けた。声が小さすぎてこの距離じゃはっきりとは聞き取れなかったけど、様子を見る限り断ったって感じじゃない。その証拠に三浦さんは、佐藤の方をちらっと見て微かに笑った。
 文字通り、血の気が引いた。
 そうだ、三浦さんは別に俺じゃなくてもいいんだ。たまたま俺が、彼に声を掛けるのが一番早かったというだけ。ただの偶然。俺に固執する理由がない。彼にとっては俺が相手である必要が、ないのだ。
 ……なんだそれ。やっぱりそうなんだ。俺の代わりに佐藤だったって――。
「あれ、兎束! 兎束も昼飯一緒に食わねえ? 三浦サンもいるよ〜」
 思考の隙間に差し込むように名前を呼ばれて、肩が跳ねると同時に体温が一気に下がった気がした。
 ――あれ? なんだこれ。今何考えた?
 どくどくと嫌な感じに鼓動が速くなる。俺が特別じゃなかったからってどうした? そんなのは三浦さんに話を聞いた時点で分かってたはずなのに。佐藤からの誘いを受けるか断るかなんてのは三浦さんの自由で、俺が口を挟む余地なんてないし、ましてやその光景を見て面白くない気分になるなんてどうかしてる。
 しかも“代わり”ってなんだよ。佐藤は俺の代替品じゃない。
 自分でもよく分からないくらい思い上がった思考だ。二人に対して失礼すぎるし、なんでこの言葉のチョイスになったのかが意味不明。
「ぁ――――っと、ごめん! 今日は先に客先行ってから昼飯にする予定なんだよね。また誘って!」
 咄嗟にそんなことを言って、「そっかぁ。また今度なー」という佐藤の声を背にトイレへと逃げ込む。……三浦さんの方は見られなかった。
 ああ、そっか。なんとなく理解した。
 こういうことか。完全に逆恨み。俺だけが特別だと思ってたのに――ってやつ。三浦さんが俺以外にも普通に笑顔を向けた事実がこんなにも重い。酒の席でもなんでもなく、会社にいるのに、彼が誰かに向けて笑顔を浮かべることをよしとした事実が。
 孤立しがちだった彼の交友関係が広がって、それはいいことなはずなのに……俺は今全然喜べてない。
 俺のこと、もう面倒になったのかな。事情を知りすぎたから? 俺があのとき、言うべきことの選択を間違えたから? でも聞く前になんて戻れない。どうすればいいのだろう。どうすればまた、三浦さんはあの屈託のない笑顔を俺に向けてくれる?
 これまで三浦さんを好きになってきた人たちも、こういう気持ちを抱えてきたんだろうか。葛藤してみたり、自分の気持ちを抑え付けようと必死になったり、ままならなくて嫉妬してしまったり。
「は……なんだこれ。めちゃくちゃじゃん……」
 自分がこんなに嫌な人間だなんて知りたくなかった。鏡に映った俺は随分と酷い顔色をしていて、そのことに笑えてくる。
 そろそろ三浦さんたちはエレベーターに乗っただろうか。今顔を合わせたら泣きそうだ。そういうのは自分の部屋の中でだけって誓ったのに。念のためそこから更に二分ほど待って、俺は自分の席へと戻った。つい口をついて出た言い訳だったけれど、この際本当にもう客先に向かってしまおう。どうせ今日は客先から直帰だ。明日は休みだし、早めに帰ってゆっくり風呂に入って、それで――気持ちを整理する。
 自分を取り繕えないなら傍にいる資格がない。隠し通せないならこのままの関係を続けちゃだめだ。
 ……だから頑張ってよ、俺。頼むよ。まだあの人と一緒にやりたいことなんてたくさんある。喋りたいことだって。全然足りないのにここで終わりなんて嫌だ。
 ――昔から、人に好かれるのが得意な自覚はあった。
 三人姉弟の末っ子というポジション、手前味噌ながらそこそこ整った甘めの顔立ち、人当たりのよさ、そつのなさ、器用さ。諸々ひっくるめて、俺は人に好かれるタイプだ。人を頼るのも人に甘えるのも上手いと思うし、踏み込んじゃいけない部分の線引きも分かってる。……分かってるはずだった。
 幅広く好かれることができるからその分一人ひとりに割く感情はそこまで重くならずに済んだし、無難に好かれていればそれでよかった。誰かに嫌われてしまったらそりゃ落ち込むしどうにか改善したいとは思うけど、かと言って誰かから特別に好かれようと努力したことがあるわけじゃない。例えば会社の同僚、例えば学生時代の友達、例えばサークルメンバー……そういう集団の中で、両手の指で数えられるくらいの中に俺の存在を含めてもらえていれば安心できた。それなのに。
 誰かの一番になりたいなんて、初めて思った。
 二番目三番目じゃ嫌だ、なんて、初めての感情だった。
 俺は彼に――三浦さんに、特別好かれていたかった。何かあったとき一番に俺のことを思い出してほしい。誰かと比べて俺のことを選んでほしい。俺が求めているのと同じくらいに、三浦さんにも俺のことを求めてほしい。
 こんなの全然そつなくこなせない。器用になんてやれない。どこまで踏み込んでいいかなんてもう何一つ分からなくなってしまった。
 でも、それでも、上手くやらなきゃならないのだ。そうじゃなきゃ一緒にいられないから。
 時計を見るともう昼休みが始まってから十分以上が経っている。急がないと昼飯抜きになってしまう。栄養が足りないと頭も体も動かなくなる。それはだめだ。
 荷物をまとめて立ち上がる。ちゃんと歩いているはずなのに地面を踏んでいる感じがしなくて、俺は殊更しっかりと足元を蹴って前へ進む。
 自分の限界が近付いてきているなんて考えたくなかった。
 認めたらきっと、何もかもおしまいになってしまうから。

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