羽化に唇 ▽▽▽ ( UNION / GARDEN )

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 運動は得意だ。体力にもそこそこ自信がある。なんてったって、サッカーのフィールド上を何十分も走り続けることを繰り返してきた青春時代だったのだから。スマホで三浦さんにコールしつつ走り回る覚悟くらいとっくに決めていて、だから駅前にぽつんと立っている三浦さんを見つけたとき、ほっとしたのと同時にいくらか拍子抜けしたのも事実だ。
「三浦さん……よかった、まだいた……」
 どうやら、俺の手にあるスマホを見て初めて、自分のスマホが震えていることに気付いたらしい。彼は、「あ……ごめん、なさい。気付かなくて……」と言ったきり沈黙する。俺もそれ以上何か言う気になれず、黙って呼び出しを切った。
 三浦さんは長い間無言だった。ふとした拍子に触れた指先がびっくりするくらい冷たくて、俺は、「み――三浦さん、とりあえず寒くないとこ行こう!」とその手を引く。抵抗はない。適当に入ったチェーンのカフェの一番奥の席に座って、無言を貫いたままの三浦さんを気にしつつココアを二人分注文して……声を聞くことができたのは、そのココアが運ばれてきてからのことだ。
「……スミマセン。ちょっと……考え整理、してました」
「や、大丈夫だから。……落ち着いた?」
 こくり、と微かに頷く彼は、ココアの入ったカップの表面を手のひらで包むように持っている。指先が真っ赤になっていた。
「結局……兎束さんにも迷惑かけちゃった。今度こそ大丈夫だと思ってたんだけど」
「今度こそ、って」
「兎束さんなら薄々察しがついてるでしょ。おれ昔人間関係で大失敗してるんです、めちゃくちゃ周りに迷惑かけたの。しかも何度も。……アンタには知られたくなかったな……」
 ぽつりと独り言みたいに呟いた三浦さんは、「でも、こうなっちゃったら言わなきゃ不誠実だと思うんで全部白状しますね」と力なく笑う。
 まるで泣き出す寸前みたいな笑い方だった。
「おれさあ、人間関係を上手く管理できないんですよ」
「管理?」
 三浦さんは一瞬言葉に詰まったようだった。けれどやがて、ため息に溶かすように静かな声を吐き出す。
「――自分がどれだけ相手に好かれてるか制御できない……ってこと」
 一度言葉を選べれば後はスムーズだったようで、次々に言葉を紡ぐその声は何かを怖がっているみたいな色を含んでいる。
 彼は何に、そこまで怯えているのだろうか。
「なんかこう、おれのせいだっていうのは分かるんだけど、おれの何が駄目だったのか分かんないの。相手がおれのことどういう風に見てるかは分かるんだけど、それがなんでなのか分からない」
 三浦さんは、「ほんとに……分からないんだよね」と言った。声が僅かに震えている。泣くのを我慢しているのかな、なんて想像してみた。どんな顔して泣くんだろう、なんて想像してみた。……ぞくりと背筋が震えた気がした。
「たぶん喋ると駄目なんです。何かよくないこと……誤解とか勘違いとか、そういうの……されるようなこと言ってる。自覚はない、んだけど。で、後から『私のこと好きなんじゃなかったの』みたいなこと言われて……」
 告白は止まらない。まるでずっと前からどう言おうか考えていたみたいに、言葉が溢れてくる。
「でも人と喋るの好きなんだよねどうしても。ずっと一人でいるの無理なんです、寂しくて。……兎束さんも知ってるでしょ、おれが『どんな風』になるか」
「それは……」
「相手の反応見て初めて気づくの。ああ今何か間違えた、って。喋る前に分かればいいのにね……」
 沈黙が流れる。間がもたなくてココアに口をつけた。甘さと温かさが胃に落ちていく。そんな俺の様子を見た三浦さんも、慌てたようにココアを一口飲んだ。
「相手がおれの言動のせいで“そう”なってるのは分かる。でも具体的にどれのせいか分からないから……そういうの考えながら喋ろうとしたこともあったんだけどぎこちなくなっちゃって。それに、おれが何も考えずに喋ってるときの方が相手は楽しそうなんだよね……」
「意識するとぎこちなくなるっていうのは……分かるよ、俺も」
「……ふ。ありがと。でもさ、ずるずるやってるうちにこう、悪化? 修羅場んの。もうね、完全にサークラだよ。笑えねえ」
「そんな、サークラとか」
「自覚なくてもやってることは害悪じゃん」
 その声は酷く投げやりで、こっちが泣きそうになってしまう。聞いていると不安になる。俺の知っている三浦さんには到底似合わない声音だった。
「おれさあ、それでも社会人になったらどうにかなるって思ってたんですよ。だって仕事の人間関係って深くなりようがないでしょ。SE希望だったっていうのもあって、人と関わる機会自体そんなにないと思ってた」
 俺は忘年会のとき三浦さんが言っていたことを思い出す。確か、SE希望だったのに後出しで営業側に回されて、それで――。
「……前職辞めたの、別に仕事が嫌だったからじゃないんです。取引先の社員さんに変な感じで気に入られちゃってどうにもならなくなったっていうのが理由」
「え……それ、上司に相談とか」
「相談はした、んですけど。その社員さん取引先の社長の娘だったらしくてなんかすげー話が大きくなっちゃって。もう辞めるしかなかったよね、最終的に……」
 バンドもすごく楽しかったんだけどおれがこの性質をコントロールできなくて大揉めして解散しちゃった、と三浦さんはぽつりと呟いた。続いて、ふー……と長いため息。
 三浦さんは少しだけ視線を上げて、俺と目を合わせてきた。意を決したような表情だった。
「――兎束さんのこと羨ましかったんだよね。ごめんね。最初に喋ったときのあれ、改めて謝るんだけど八つ当たりです」
 言われた意味が分からずに、「羨ましかった、って」と言われた言葉をオウム返しにする。俺がこの人に羨ましがられる要素なんて何も思いつかないのだが、三浦さんは殊更穏やかな声で答えてくれた。
「兎束さんはさ、自分でコントロールできてるでしょ。他人からの好意」
 それはとても切実な響きで、俺は思わずぎくりと体が強張った。目を背けたくなるような、いたたまれないような――まるで、道を一本挟んだ向こう側で泣きじゃくっている子供に何もしてあげられないときのような気分になる。
「自分が他人にどう思われてるか把握できてるし、管理できてる……でしょ。たくさん好かれてるけどそれでトラブルは起こさない。人間関係が上手ですよね。おれもそれがしたい。……したかったんだよずっと」
 どうしても仲良くなりすぎる、と三浦さんは言った。
 三浦さんは――彼は、ちょうどいいところで止まれないのだという。最初は普通に仲良くしていたはずなのに、いつの間にか執着されていて自分の手に負えなくなって破綻する。ただ親しくしたいだけなのにもっと深い関係を求められる。
 “普通の仲のいい関係”を求めている三浦さんと、“特別な何か”を求めてくる相手とで歪みが出てしまって、最終的には愛憎入り混じった感情を向けられてどうにもならなくなる。
「もう、最初から近寄りがたい風に装って黙ってる方が安全だって気付いちゃって。最初の会社では失敗したけど、次は間違えないようにしようって思って……」
「――それで、見た目変えて極力喋らないようにしてたの?」
「うん……でもずっとしんどかった。ねえ兎束さん、おれ、あのとき兎束さんに飲みに誘ってもらえたの、本当に嬉しかったんだよ……」
 三浦さんは自嘲するような笑みで、「……しんどいなぁ」とこぼした。「でも今までたくさん周りを傷付けてきたから、しんどいのくらい我慢しなきゃって思う」とも言った。心からの本音だろう。彼はずっとこの気持ちを抱えてきたのだ。
「さっきの奴らはバンド仲間。おれのせいでたくさん迷惑かけて、何回謝ったって足りなくて……でも、『お前のせいじゃない』って言われるのもつらくて連絡絶っちゃったんです。あいつが怒るのも当たり前。謝らなきゃいけないこと増えちゃった……」
 俺はなんとも言えない気分でその告白について考える。まあ、あのCDジャケットに写っていたような造作のよさで、これまで見聞きしてきたような三浦さんのあの対応をしていたら、勘違いされるのもやむなしかな……と正直思った。だからと言って、今この人がこんな風に苦しんでいい理由にはならないだろうけど。
 そもそも論。俺はあんまり根が明るくないから言っちゃうけど、こういうのって別に片方の個人にだけ責任を負わせられるものじゃないと思う。あくまで相性であって、たまたま三浦さんの言動に過剰に引っかかるタイプの人間が周囲に集まってきてたってだけなんじゃない? 誰か一人のせいにしちゃだめだろ。
 勘違いする側も悪いとこあるよ。明るくて誰にでも親しく喋ってくれる人の言動を都合よく解釈しちゃうタイプ、いるでしょ。心当たりある。まあ俺のことなんだけどさ。
 やっぱこの人無差別に無意識に、ああいう言動してたんだなあ。
 ほんの少しだけ肺の奥の辺りが痛んだ気がした。息がしづらい。恋愛的に望みはなくとも同僚としての特別枠に入ることくらいはできるんじゃないかと思っていたけれど、たくさんの時間を共有してきたと思っていたけれど、実際のところ、三浦さんにとってはそれすらきっと大したことではなくて。俺じゃなくてもよかった。あの日飲みに誘ったのが俺以外の人間だったとしても、三浦さんは同じように仲良くなっていたんだろう。
 俺も勘違いしちゃった。恥ずかしいな。
 でも俺は、三浦さんを責めるなんてことはしたくない。これまで三浦さんのことを責めてきたかもしれない奴らと同じになりたくない。三浦さんは悪くない。そしてきっと、俺が特別悪いってわけでもない。強いて言うなら間が悪かったのだ。相性が、悪かった。
「……兎束さんもさ、見たでしょ。さっき会った奴の手」
「手……?」
 急に話が変わったように思ったのだが、三浦さんの中では全て繋がっている話らしい。俺は記憶の糸を手繰り寄せる。
 ……ああ、そういえばうっすらと斑模様になっていた。生まれつきの痣か、もしくは古い傷痕のように見えた。そんな風に伝えると、三浦さんは小さな声で言う。
「……あれね、化学熱傷」
「かがくねっしょう?」
「薬品火傷……ってこと」
 三浦さんの手が、その重たげな前髪を掻き上げる。こめかみの近く、よく見ると髪の生え際の辺りにうっすらと火傷のような痕が残っている。……これって。
 こんな予想当たらなくていい、と思うのに、三浦さんが語ったのは予想と違わない過去だ。
「これがバンド解散した直接の理由。大学のとき、ちょっとストーカーっぽくなってた子に硫酸ぶっかけられて。……おれが標的だったのに庇われて、あいつの怪我の方が酷かった」
 唐突に理解する。伸ばされた前髪はこれのためなのだと。
 彼は顔を隠したかったのではなくて――いや、それもあるのかもしれないけど――本当は、傷痕を隠したかったのだ。
「それって、警察……」
「うん。警察沙汰にもなった。おれ、どうしても周りの奴らまで巻き込んじゃうんです。なんでか分かんないんだけど、これまで直接おれに何か言うんじゃなくて周りに危害加えてくる奴ばっかりだった」
 だから硫酸の子は気合い入ってて珍しいタイプなんですよね、と三浦さんは苦笑いする。
 全然笑えなかった。どれだけ恐ろしい思いをしてきたか、想像もつかない。
「……おれがちゃんと兎束さんに説明してないの分かったから、あいつあんなに怒ってたんだと思います。おれが一人で解決できるんだったらよかったんですけど、全然手に負えなくて毎回周りに迷惑かけちゃうから……」
 言わなきゃいけないって思ってた、と三浦さんは言った。もし話して怖がられて、仲良くしてもらえなくなったらって考えると言えなかった、とも。
 なるほど、だから『そいつは違う』って言われたのか。これを知らなかったから。知らないままで三浦さんの傍にいたから。誰かの悪意が三浦さんではなく三浦さんの傍にいる人間に向いたとして――そうか、今それが起きたら被害を受けるのは俺なんだ。
 ん? でもこの状況、どっちかっつーと俺の方がその『三浦さんの周囲に危害を加える奴』のポジションじゃない? 三浦さんのことを好きになった奴が、周囲に迷惑かけるんだよな? いや、そんなこと絶対しないけどさ……。
「はー……スミマセン、辛気臭い話で」
「や、そんな……話しにくかっただろうなって思うんで、寧ろありがとう、俺に話してくれて」
「んーん……兎束さんとは、楽しいことだけがよかったな……」
 三浦さんが目に見えてしょんぼりしていたから、俺の落ち込みなんてどこかに行ってしまう。この場合何を言えば正解なんだ、と焦る頭で必死に考えて、勢いのままに言葉を吐き出した。
「――た、楽しいことだけじゃなくても! あの、別に、三浦さんの話だったら聞きたい……よ……。ほら、なんか超仲良しの友達っぽいし!」
 つらいことも悲しいことも共有するって、とても“近い”と思う。距離感というか、関係性が。そう思ったので焦りつつも必死に伝えると、三浦さんは一瞬とても形容しがたい表情をした。今にも泣きそうな、それなのに笑顔にも見えるような――不思議な表情だ。
「……ありがと。兎束さん、やっぱり優しいですね」
 ――あ。失敗した。
 そう、思った。確信に近い直感だった。俺は何か間違えた。具体的に何がどう間違っていたのかは分からないけれど、今三浦さんにかけるべき言葉はこれではなかった。
 何がいけなかったのだろう。
 人間関係で失敗することなんて殆どなかったのに。
 よりにもよって好きな人相手に失敗してるのが俺らしいというかなんというか……笑えないけど。この人にだけは間違えたくなかったな。きっと今、俺はこの人を悲しませてしまった。
 悲しいことがあったら一緒に悲しんで、その後気持ちが少し軽くなるような……そういう関係でありたかった。それなのにどうやら俺じゃだめらしい。これは、結構……かなり……ショック、かもしれない。
「――……、……日が落ちると今日かなり寒くなるらしいですし、これ飲み終わったら帰りましょうか。次は……もっと楽しい話、できるようにしますから」
 三浦さんがせっかく場を収めようと努めて明るく振る舞ってくれているのに、俺はというとその言葉の半分も頭に入ってこないような状態だ。
 ねえ次っていつ。俺失敗しちゃったのに次があるの?
 三浦さんは今、何をそんなに傷付いたの。
 俺まだ三浦さんの傍にいて平気?
 ココアの表面に薄い牛乳の膜が張っているのを見ながらぐるぐると考える。三浦さんがコインロッカーに預けたリンゴを貰って帰るのを忘れないようにしないとな、なんて、意味のない現実逃避をするばかりだった。

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