羽化に唇 ▽▽▽ ( UNION / GARDEN )

INFO / MAIN / MEMO / CLAP


 三浦さんと待ち合わせした日の朝のこと。楽しみすぎたのか無駄に早起きしてしまった俺は、スマホでリンゴを使ったレシピを延々検索することで時間を潰していた。アップルパイは作るモチベーションが続かなそうだし、ジャムかコンポートか……フライパンでバターソテーにするのもいいな。バターで炒めりゃ大体美味くなるもんな。バターは偉大だ。
 そんなことを考えつつ、俺はふと、そういえばそろそろ三浦さんが新曲投稿してる頃かもしれない、と思い至る。ブックマークしていたページに飛ぶと、一週間ほど前の日付で動画がアップされていた。
 すぐに再生してみて、ん? と思う。これまでの曲調と比べてなんとなく柔らかめというか、優しかったから。好きな感じのメロディだ。音のつくりもポップで、よくよく聴いてみるといつもと使ってるソフトの声が違う? 幼い気がする。
 キャプションには、『好きなひとが自分の好きなもの覚えててくれて嬉しいねみたいな感じのやつです』と書いてあった。……あれっ、曲と関係あるキャプション珍しくない? というかこんな恋愛色強めの曲初めてじゃない……!?
 あくまで創作物でフィクションだというのは理解してるけど、それでもちょっとそわそわするというか……だって、ほら、本人の価値観みたいなの出てるかもしれないじゃん。ちょっとだけでも。
 三浦さんは、自分の好きなものを覚えていてもらえたら、そのことにどきっとしたりするのかな。
 ――いや、そうじゃなくて……どきっとしたことが、あるのかな。それが気になる。
「……っあー! やめやめ! 不毛! 考えるのやめ!」
 何にせよ俺には関係ない話なのだ。考えたって仕方ない。それに、せっかくの新曲を不純な気持ちで聴くなんて嫌。もっと純粋に音とか曲調とか、そういうのを楽しんで……楽しん…………うん、まあ、……それができたら苦労しないんだよな、ほんと……。
 体温の上昇をどうにか落ち着かせつつリピート再生を続けていたらいつの間にかかなりの時間が過ぎていて、俺は慌ててスマホに充電器を挿す。……どうしよう。これから三浦さんと会うのに変に色々想像しちゃった。若干気まずい。
 どうかどうか変なこと口走ったりしませんように……! と、今は祈ることしかできない。

「兎束さん! こんにちは。スミマセン、わざわざ出てきてもらっちゃって」
「や、気にしないで。俺の方こそ急についていきたいって言ったのにOKしてくれてありがとう」
 三浦さんがよく来るらしいCDショップの最寄り駅で待ち合わせ。約束の時間の五分前に姿を現した彼は特にそれらしき荷物を持っていなくて、どうしたのか尋ねてみるとここに来る前に駅のコインロッカーに預けたとのこと。確かに今の時期は気温も低いし、数時間程度ならまったく問題ないだろう。それなりの時間を俺と過ごすつもりでいてくれているということが分かって嬉しくなってしまう。
「兎束さんが林檎食べる人でよかったです。もー最近朝昼生の林檎で若干飽きてきちゃってて」
「へー、朝昼リンゴ……待って、食生活大丈夫!?」
 さらっと言ってるけどなんでそんなあからさまに体に悪そうなことしてるんだこの人!? 明らか栄養足りてないじゃん!
「おれ元から食べたり食べなかったりするんで平気ですよ」
「いやそれ平気って言わない……もしかして三浦さんってあんまり食事気にしないタイプ? 自炊しない?」
「自炊ほぼしないですね。基本コンビニか外食で……あ、鍋だけは作るかも? スープだけ日替わりで延々同じ具材食ってる感じ」
「……日替わりってことはつまり、毎日鍋の時期があったりして」
「よく分かりましたね。白菜と豆腐とネギとえのきが共通でー、豚バラとかつみれとか鶏モモとかその日冷蔵庫にあったやつ適当に入れてます。たまーに鰤とかも入れる。とりあえず余り物全部ぶち込む感じ」
 鍋のスープって種類多くて選ぶの楽しいですよね、と、三浦さんは言葉通り楽しそうに話す。でもやっぱり鍋は一人よりたくさんで囲む方がいいなあ、とも。彼は基本的に、人の集まる場が好きなのだ。飲み会が好きというのも納得。
「そういや三浦さんって家でも酒飲む人? 宅飲みする?」
「宅飲み? しますします。誰かと一緒ならどこででも。逆に一人だと飲まないですね」
「飲まないんだ……」
「うん。なんかね、おれやっぱり酒が好きっていうの以上に誰かと一緒に飲むのが好きなんです。それで気持ちよく酔えたら最高って感じで」
 なるほど。つまり、誰と飲むかが重要ってこと?
 三浦さんらしい考え方だなーと思わず呟く。どうやらそれはちゃんと聞こえていたらしく、「だからまあ、極論言っちゃうと一緒にいて楽しい人が相手なら別に酒飲まなくてもいいんですよねきっと」と返ってきた。
「……あ。どうしよ、この流れのまま宅飲み誘おうと思ってたのに余計なこと言っちゃったかも」
「え?」
「んーと、おれ、さっき言った感じで別に酒飲まなくても好きな人と一緒ならそれで楽しいんですけど。だから、兎束さんのことまた誘ってもいいですか? 別に、勉強会とかがない日だって一緒にいたい」
 宅飲みは口実です、といい笑顔で言われてくらくらする。それを一から十まで本人の前で言っちゃうのはずるくない? これに抗える奴いるのかな。というか……というかこの人、めちゃくちゃ気軽に『好き』って言ってくる……!
「……それ、俺からも誘っていいやつ?」
「誘ってくれるんですか? 嬉しいです。すごく楽しみ」
 笑顔が眩しすぎて目が潰れるかもしれない、と思いながら、「俺も楽しみ」とだけようやく言えた。知れば知るほど、彼が他者との関わりを避けているのが不思議で仕方ない。三浦さんの人となり、そして、今こうやって俺と楽しそうに喋ってくれるところを見る限りでは、殊更交流を避ける理由なんて見当たらないのに。
 ねえ三浦さん。きっとさ、三浦さんと一緒に酒飲みたい人いくらでもいるよ。誘ってくれる人だっていくらでも。なんで俺だけにしてるの? もっと人数多い方が三浦さんも楽しいんじゃないの? これを言わない俺はずるいかな。
 前に『距離感おかしくなるからブレーキかけてる』みたいなこと言ってたけど、たぶん、嘘はついてないけど本当のことを言ってるわけでもない……くらいのラインだっていうのはなんとなく分かる。俺が首を突っ込むことじゃないのもちゃんと分かってる。
 でも、会社にいるときの三浦さんは無理してるよな。
 どうすんの。こんなことまで分かるようになっちゃってるよ。
 駅から線路沿いに三分。CDショップに到着した後、俺は三浦さんのことを半歩後ろから眺めていて、そういえば俺たち本来は歩調が合わないんだよなとまたひとつ三浦さんの優しいところを再確認する羽目になる。彼は何も言わなくても歩調を緩めてくれる人で、けれどきっと無意識にほんの少し俺の先を行っているときがあるのだ。優しくて詰めが甘い。そういうところも可愛くて好きだった。俺だったらたぶん、相手に合わせていることも悟らせずにいられると思うけど……そういう巧拙とは関係ないところに三浦さんはいた。
 彼はお目当てのCDを確保した後は意外なほど静かに棚を見ている。時折こちらを振り返っては、「聴きますか?」と試聴機を示す。「おすすめある?」と尋ねれば、すぐにその長い指を折って、いくつかの曲名を数えてくれる。誰でも名前を知ってるような店だけど実は初めて入ったから、全部が新鮮で楽しい。こんなに広かったんだなー……。
「この店よく来るの? 三浦さんの家からそんな近くないよな」
「よっぽど時間ないとき以外はこの店使ってます。一番品数揃ってるからっつーのもあるんですけど、……昔バンドやってたって言ったでしょ。バンド仲間と一緒によく来てたんです、ここ」
 楽しかったの覚えてて、だから今でもついここに来ちゃうんですよ。三浦さんはそう言った。未練がましいんですよねと笑いながら。
 詳しく聞いてもいいのか、黙るのが正解か、もう俺には分からなくなっている。適切な距離が測れなくなっている。そのバンド仲間の人たちとはもう連絡とってないの? 未練がましいだなんて、笑顔で口にできるような単語じゃないはずなのに……三浦さんは“これ”に至るまで、何を考えてきたんだろう。
 俺は曖昧に一線を引いて、薄い膜の上から喋るような心地で三浦さんとの時間を過ごした。もっと知りたい。傷付けたくない。迷って選べないことばかり。
 でも今この瞬間が楽しいのは確かだ。
 俺はこれで満足するべきだった。
「――スミマセン、結局おれの買い物に付き合ってもらっただけになっちゃいましたね」
「え、全然! 楽しかったよ。俺実はここ初めて入ったんだよね」
「それならよかったです。やっぱ兎束さん的にはCDよりもサブスクのがいい感じですか? 欲しいCDない?」
 会計を済ませた直後にそう問いかけられて、俺はふと思ったことを口にしてしまった。
「欲しいCD――は、三浦さんの……」
「えっ?」
 あ、やば。口滑った。
「あー……っと、あ、三浦さん新曲投稿してたよな。ちょうど今朝聴いたんだけど、俺今回のやつ好き」
「う、わ。チェックしてくれてるんですか……なんか恥ずかしいですねこれ。ありがとうございます」
「そんな、俺だけじゃなくてたくさんの人が聴いてるじゃん」
「おれのこと知ってる人に聴かれるのはやっぱ感覚違いますって。あーでも、今回ちょっと冒険したんで……兎束さんに好きって言ってもらえて嬉しい、です」
 どうにか話題を逸らすことができて安心すると同時に、どきどきと心臓が高鳴ってくる。好きって言ってもらえて嬉しい、か。俺もそう言ってもらえて嬉しいよ。
 俺が欲しいCDは、三浦さんが歌ってるやつ。誤魔化さずにそう伝えられていたら、何か変わっただろうか。
 そう思いながら、出口に向かおうとした瞬間だった。
「――――アキラ?」
 その声が三浦さんを呼ぶものだと気付いたのは、隣にいた彼がその瞬間色を失ったのが分かったから。数秒固まって、無理やり体を動かすみたいにして声の方を振り向いた彼に合わせて、俺も視線を動かす。
 そこにいたのは、二人の男性。
 片方はおそらく先程の声の主。立たせた短髪と切れ長の瞳が印象的で、驚きに満ちた表情は真っ直ぐ三浦さんに向いている。
 もう片方は、随分と背の高い、どこか冷めた雰囲気の男性。けれどこちらも、その視線は三浦さんを確実に捉えている。
「アキラだよな!? お前、何して……っ電話出ろって何度も送ったろ! 全然連絡寄越さねえし……っ」
 短髪の男性が大股で近付いてきて、その勢いのままに三浦さんの胸倉を掴む。「ちょっ……何するんですかいきなり!」思わず男性の腕を押さえて、僅かに違和感。掴んだその腕は――手の甲から袖口まで、きっと服に隠れた部分も――うっすらと、肌の色が斑になっていた。力を込めているせいか手が全体的に白く、それもあって色の違いが余計に目につく、ように見えた。
「う――兎束さん、スミマセン、大丈夫だから。大丈夫だから……」
「いや全然そんな風に見えな――」
「ッ大丈夫、だから。お願い、ちょっと離れててくれませんか」
 アンタにだけは聞かれたくない、と。真っ青な顔で三浦さんは言う。俺にだけは? それってどういうこと? この人たち誰? 三浦さんのことを傷付ける人?
 そんなことを考えていると、俺が腕を掴んでいた男性が三浦さんから俺に視線を移して、そしてまた三浦さんを見て――笑った。
「……何。アキラ、また?」
「違う、この人はおれが――」
 腕を掴んだままだった俺の手は乱暴に振り払われた。そして、その場から離れる暇もなく、刺すような言葉が耳に飛び込んでくる。
「――そっか。だからオレらはもう用済みってこと」
 びくっ、と三浦さんの肩が小さく跳ねた。俺はというと、息をするのも忘れて硬直してしまう。三浦さんの唇が微かに震えたのが見えたから。
 彼は今にも泣きそうな顔をしていた。傷付いたみたいな、傷付いたことを申し訳なく思っているかのような、見ていて胸が締め付けられる表情だった。
「お前そんなんじゃダメんなるよ。巻き込む覚悟もないくせに」
 いくらか落ち着いた声に戻った男性は、それでも厳しい雰囲気を崩さない。三浦さんは無言のままで、そのことに男性はひとつ、ため息をついた。
「オレらはいいよ、知ってたし覚悟してた。その上でお前の傍にいること選んでたよ。でも、たぶん……そいつは違うだろ」
 急に水を向けられて、俺はようやく息をすることを思い出す。覚悟? 俺が違うって、何が? 一体何の話をしているんだ。何も分からない。
 三浦さんがここでようやく、「そ、れは……」と力なく呟く。しかし続かない。短髪の男性は呆れたような顔になって、これまでで一番露悪的に吐き捨てた。
「――アキラはさぁ、そいつのこともめちゃくちゃにしたいわけ?」
「っ! ……んなわけ、ないだろ……! 分かってるよ、でも、だったら、おれは誰かの傍にいたいときどうすりゃいいの……っ」
 あ、と思った瞬間には三浦さんはもう駆け出していた。「は!? うわっバカ……! まだ話終わってないっつの!」すかさず後を追おうとした男性の行く手を阻もうか迷った。けれどそれをせずに済んだのは、彼の隣にいた長身の方の男性が、その肩を掴んだから。
「――言い過ぎだ。これ以上追い打ちかけるな」
「う。でもさぁ、アキラがさぁ……」
「憎まれ役引き受けるのも結構だけど、いい加減仲直りしとけ。ああ、あと、」
 巻き込んでしまって申し訳ない、と。長身の彼は俺に向けて頭を下げた。強い視線に射抜かれる。まるで、お前が追いかけろと言われているみたいだと思った。
「……っつーかあいつ、最後のあれ、あの感じもしかしなくても……」
「そうなんじゃないか?」
「うわやっぱり!? そっかぁ、マジで……? それならもうちょい優しくしてやればよかったな……」
 すっかり俺は蚊帳の外で喋り始めてしまった二人を後目に慌てて駆け出す。
 もちろん、三浦さんを追いかけるために。

prev / back / next


- ナノ -