羽化に唇 ▽▽▽ ( UNION / GARDEN )

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 飲み会も終盤、最初の席順なんて関係なくなって、みんな好き勝手適当に飲み始めている。周囲も比較的気心の知れた人ばかりで少し気が楽だ。
 そんなことを思っていると、通路が狭いからか誰かと体がぶつかってしまった。慌てて謝ると、「いやぶつかったのこっちだろ。すまん、痛くなかったか?」と相手――俺たちより一回りくらい上の年代の先輩だった――がこちらに向き直る。
「お、兎束……と、三浦か」
 ん? と内心首を傾げる。接点なんてなさそうなのに、三浦さんのことを知っている様子だったからだ。先輩は営業部。さばけた性格で、上の年代の中の出世頭。思わず三浦さんと知り合いなのか尋ねてみると、「こいつ歳の割に優秀な資格持ってるっつーので入社前に開発部の方で話題になっててな。それを盗み聞きした。サーバー管理関係で名前見ることも多いしな!」とのこと。からっと笑う先輩は盗み聞きと言いつつ一切悪びれない。顔の広い人だから、横の繋がりが強いのだろう。
「ここ二人って同期なのか?」
 先輩が俺たちを指さして言うので、「そうですね」と頷いておく。「そうかそうか。三浦は結局四月入社に合わせたんだっけな」と何やら納得している様子だ。あーそっか、三浦さん中途だから別に四月入社って決まってたわけじゃなかったんだ。じゃあ、もしかしたら同期じゃなかった可能性もあるのか。
 その偶然に今となっては感謝したい……なんて思っていると、それなりにアルコールが入っているらしい先輩が、三浦さんの背中を軽く叩く。
「いやーそれにしても、新卒で入った会社一年足らずで辞めるような奴がこの会社で続くのかって思ってたけど杞憂だったな!」
 うわ、嫌な言い方。そう思った。この先輩は面倒見いいし後輩のことこまめに可愛がってくれるし、普段はかなり頼りになる人なんだけど、たまーにこうやってデリカシーのないことを言うのだ。
 しかし三浦さんは、涼しい顔で「はは、ご心配おかけしてたみたいでスミマセン。この会社での業務はおれに合ってたみたいなんで無事続いてます」と返している。内心どうやって先輩を止めようかはらはらしている俺とは正反対だ。先輩は続けて、「なんだ、前職はそんなに合わなかったのか? 何やってたんだ?」と、おそらく悪気も何もなく三浦さんに尋ねていた。そ、そんな……実は俺も気になってたけど絶対聞けないと思ってたことをさらっと……!
 さっきまでどうやって止めようかと思ってたのに、打算込みで言葉が詰まってしまう。最悪だ、こんな横からついでに聞くみたいな。それでも耳は塞げないし三浦さんの返答も遮れない。
「前の会社だと技術営業やってました。自社製品導入後の保守系全般――トラブル起こったときに原因調べたりとか、顧客訪問したりとか、そういう感じです」
「お前営業だったのか!? 意外だな」
「SE希望で入社試験受けたはずなんですけど面接終わったらなぜか営業側に回されてたんですよね……それでちょっと色々あって辞めちゃいました」
「そりゃ災難だったなあ。合わない仕事じゃしんどかったろ。今はもうそんなことないか? 何かあったら早めに相談するんだぞ。お前、部署一人きりだろ。あんなフロアの隅っこで……」
「ありがとうございます。今のところは問題ないです。あーでも社内アプリとかリリースしたときはもうちょい反応欲しいですね」
「おお。そういえばちょっと前に勤怠アプリと日報が連動するようになったよな? あれすごく便利だぞ! 他の奴らにももっと積極的にレビューするよう言っておくから」
 話が穏やかに着地しそうでほっとする。そう、いい先輩なのだ。本当に。ほんの少しの押しつけがましさは面倒見のよさの裏返し。こうして他部署の人間の仕事にも目配りが利いているし、人と人を繋ぐのが上手い。現に、先輩は「こっちでも飲みましょうよ〜!」という別の集団の声に呼ばれて嬉しそうにテーブルを離れていった。
「……三浦さん、大丈夫だった?」
「大丈夫ですよ? どうかしました?」
「や、言いたくないこと言わされてないかなって思って……上手く止められなくてごめん」
 小声でひそひそと喋る俺に、三浦さんは「あは。心配してくれたの? ありがとうございます」と目を細める。
「だ、だって……三浦さんは俺のこと助けてくれたから。俺も同じようにしたかった」
「あー、でもおれ別に傷付いてないですよ今。ちょっと嫌なこと思い出したけどそれだけです。兎束さんが心配してくれて嬉しかったので嫌なことももう忘れました」
 不思議とこの人の言葉は素直に心に染みこんでくる。感情をきちんと口に出して表現してくれる人だからか、変に裏を読まなくていい。喋っていて疲れないのは気を張る必要がないからかな。いや、どきどきしすぎてそういう意味では気疲れするんだけど……これは俺の問題だ。
 なんだろ、言葉のチョイスが俺に合ってるのかもしれない。めちゃくちゃ心に刺さる。なんなら仕草とかもやけに可愛く見えるし……年上なのに……。同性というのはこの際置いておく。
 三浦さんって外見はかっこいいに分類されるけど、言動は可愛いよね。そんな風に脳内で同意を求めてしまった。こんなの誰にも言えるわけないから自問自答だけど。まあ、自問自答なら確実に同意してもらえるから割とアリかも。
「それに、兎束さんさっき助けてくれたじゃないですか」
「え?」
「煙草吸う人から遠ざけてくれたでしょ。ありがとうございます」
 バレてたの!? 恥ずかしいな! だって喉に悪いことしたくないんじゃない? 三浦さんの喉は大切にしたいし、だったらこのくらい当たり前のことだ。
 打算もあったから、そんな純粋に感謝されるのは騙してるみたいで気まずいけど……でも、今だけはこの人の言葉を独り占めしていたい。
「というか、おれ煙草吸わないって言いましたっけ?」
「や、別に聞いたわけじゃないけど」
 バンドでボーカルやるくらいの人なら喉には気を遣っているんじゃないかと思ったし、何より、三浦さんとこれまで接してきた中で、そういうのに気を遣う人なんじゃないかなと思った。俺の勝手な予想だけど、こうしてお礼を言われたということはそこまで的外れではなかったはずだ。
「ほら、三浦さんって炭酸系の飲み物飲まないじゃん。辛い物も食べないし、もしかしたら喉に刺激が強いやつ避けてるのかなって。だったら煙草もNG? って思ったから……単純に味の好みだったら深読みしちゃってごめん」
 小声で予想を披露してから、ちょっと気持ち悪かったかな……と不安に駆られる。観察されてるみたいでいい気はしない、かもしれない。どうしよう。なんとなくだよ、とか誤魔化しておくべきだった?
 俺の小心な悩みをよそに、三浦さんは「え、兎束さんすご。やっぱ名探偵?」と目をきらきらさせている。いや、これ、気持ち悪いって思われるかなとか一瞬でも考えちゃったのかなり失礼じゃん! うう、申し訳ない。なんか自分がめちゃくちゃ汚れた心の持ち主みたいに思えてきた……。
「待って、おれも兎束さんについて気付いたこと発表します」
「えっ」
「おれだってこの数ヶ月で兎束さんに詳しくなったんですよ。知ってました?」
「し、知らない……」
「えーじゃあ今知って今。えっとね」
 三浦さんは楽しそうに指折り数える。俺について、気付いたことを。
 親指が折り畳まれる。
「まず、兎束さんって字が綺麗。メモとるときの字が読みやすくていいなーって思います。しかも人に読ませるやつはもっと丁寧に書いてるのも知ってる」
 続いて、人差し指。
「あとね、食事の仕方も綺麗でしょ。これは初めて一緒に飯食いに行ったときから気付いてました。だから兎束さんと飯食うのいいなって思ったんですよね」
 中指。
「で、仕事が内勤のときだけカフスボタンつけてる。オシャレなの。内勤のときだけっていうのがぽいなーって思います。控えめでおれは好き」
 三浦さんは指三本を折り、にこっと笑って「どうですか?」と俺の瞳を覗き込んでくる。俺はというとあまりの恥ずかしさにどこかに隠れたい気分だった。そろそろ顔から湯気が出るんじゃないだろうか。
 なんだこれ。全部褒め言葉だ。全部。え、もしかして俺が言った『炭酸飲まない』『辛い物食べない』『煙草吸わない』と交換するのがこれなの!? 釣り合ってないと思うんだけど!
 今からでも三浦さんのいいところ挙げようかな、と思ったけれど、正直言って今の俺には下心一切抜きにして彼への褒め言葉を考えられる気がしない。絶対よこしまな気持ちが入ってしまう。いいところっていうか、ただの好きなところになってしまいそうだ。
 内心焦りつつ、俺のリアクションを今か今かと待ってくれている三浦さんにどうにか言葉を返した。平凡な言葉を。
「よく、見てるね……」
「でしょ。おれ視力は悪いけど意外とこういうの分かるんですよね」
 三浦さんって猫被ってるときは割と毒舌タイプの認識をされてる人だと思うんだけど、プラスもマイナスも全部直球ってだけなんだろうな。文句も称賛も直接言う、ばっさりさっぱりした物言いをする人。
「初めて言われることばっかりで嬉しかった」
「そうなんですか? みんなから言われてると思ってましたよ」
 どうか顔の熱がさっさと引きますようにと祈りながら会話を続ける。アルコールのせいにできる範疇なんてとっくに超えてる。
 俺の祈りが通じたのか、本部長による締めの挨拶が始まって自然と会話が途切れた。体の向きを変えて話を聞いているふりをする。
 内容は全然頭に入ってこなくて、視界の隅に映る三浦さんの横顔をこっそりと見つめてばかりだった。

 飲食店のフロアを貸し切りにするほどの人数ともなると店の外に出るだけでも一苦労で、二次会に行く人間は現地集合、という話になった。三浦さんは行くのかと思いきや、「たくさん喋ったから今日はこのくらいにしときます」とのことだった。確かに、既に結構いい時間だ。俺も今日はここまでかな。
 人が散り散りになった路上は、騒がしいのにその騒がしさが遠い気もして不思議な感じ。三浦さんはぼんやりと空を見上げている。少し眠そうかも。
「三浦さん、割と酔ってる?」
「あー分かります? すげー気持ちいい……」
 一瞬だけ完全に素に戻ったような声音にどきっとする。誰に聞かせる風でもなくこぼれ落ちた声。その内容に別の何かを想像しそうになって慌てて雑念を頭から追い出した。それは、だめだろ。越えちゃだめな一線だろ。
 一緒にいられなくなるぞ。弁えろ、本当に。
「――……三浦さんっていい酔い方するね。変に絡んだりしないし、純粋に楽しそう」
「え、そんなとこ褒められたの初めてなんですけど。ありがとうございます?」
「本当にお酒好きなんだなって見てて思うよ」
「たぶん、酒自体もだけど酔うのが好きなんだと思うんだよね。頭がふわーってして体温上がって、周りの人も楽しそうにしてるから、好きなんです」
 おれ普段体温低いから、と密やかに笑う三浦さん。夜風が彼の髪をなぶっていく。露わになった耳たぶがやけに白く見える。
 彼に触れたいと思った。今は普段より温かいの、と聞いてその手を取ってみたかったし、耳が見えちゃってるよ、と親切を装ってその髪を梳いてみたかった。
 行動に移すことは絶対にない。大丈夫、俺はちゃんと我慢できている。だから苦しい。欲が尽きないことが苦しい。自分が、好きな人を遠くから眺めていられるだけでいいなんて殊勝な人間ではないことは自分が一番よく分かっていて。同じ会社にいる限りこの我慢はずっと続くんだろうかなんて気が遠くなってしまう。
 見ないふりしててもだめだった。女を抱いても誤魔化せなかった。三浦さんがいい。三浦さんだけがいい。三浦さんじゃないと嫌だ。
 こんなに苦しいのに、好きでいることをやめられない。
「――兎束さん? どうしたの? 気持ち悪くなっちゃった?」
 ふと傍に体温を感じたかと思えば、三浦さんの手がそっと俺の前髪をよけた。強張りそうになった体をどうにか落ち着けると同時に、喉に何かが詰まったみたいな苦しさが強くなる。この人は深い意味もなく気軽に俺に触れることができるのだ。ただの同僚なんだから当然。変な欲が滲んでいないか怯えることもないし、触れる言い訳を頭の中でいくつもいくつもシミュレーションしなくていい。俺みたいに。
「や……大丈夫。俺もいつもより酔ってるかも」
「歩ける? タクシー呼びましょうか」
「へーきへーき。三浦さんこそ歩ける?」
「このくらいならまだ余裕です」
 風がひときわ強く吹いて、思わず首を竦めた。アルコールで体温が上がっているとはいえこの寒空の下に長時間はよくない。三浦さんも同じことを考えていたようなので、足早に駅へと急いだ。白い息が横に流れていく。体の芯で燻っていた熱もどこかへ逃げていくようで少しだけ安心した。
「兎束さん」
「ん? なに?」
「今度は二人で飲みません? 来年辺り」
 あ。この人は来年もこの関係を続けてくれる気でいるんだ。
 二人で飲みに行ける仲が来年も続いてるって思ってくれてるんだ。
 そのことが嬉しくて、でも無性に泣きそうになる。俺と三浦さんとじゃ、気持ちに差があるのが分かってるから。
「いいね。日本酒美味しいとっておきの店あるよ」
「うわ、二次会行きたくなるからその話は来年になってから聞かせてください」
「じゃあ俺が忘れてたら催促してね」
 そんなこと言ったらマジでしちゃいますよ、と笑われたので、「いいよ」とこっそり口の中だけで呟いた。だって、少しでも会話が増えるなら嬉しい。本当は、用事がなくても喋ってみたい。声が聞きたい。
 言えるわけない、言ったらだめなことばかり。
 好きになった分だけ言えないことが増えていく。
 なんだか騙してるみたいだな。そう思ったら逆に笑えてきて、泣きたい気持ちも引っ込んだ。だって、泣く資格もないよなって。三浦さんはこんな純粋に仲良くしてくれてるのに。
「あれ、何か言いました? 兎束さん」
 まさか聞こえるわけがないと思っていたのにそう声を掛けられて驚いた。もしかしたら三浦さん、目は悪いけど耳はいいのかも。新たな発見だ。俺はそんな風に思いながら、軽い調子で答える。
「や、なんでもない! 寒すぎて思わず『さむ……』って口から出た」
 三浦さんが、「分かるー。なんでこういうの口に出しちゃうんですかね。寒いって言ったら寒くなくなるわけでもないのに」と首を傾げているのを横目で見ながら、俺はまたひとつ気持ちを押し殺した。
 嘘つき。嘘ばっかりだ。
 なんでもないなんてことないくせにな。卑怯者。

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