羽化に唇 ▽▽▽ ( UNION / GARDEN )

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 十二月、忘年会を目前に控えて営業成績が公開された。とは言っても期間が短かったから今月は始業前に軽く、雑談程度のものだ。順位も同じ、マンネリだと営業部長が笑うのも同じ、俺の虚しい謙遜も同じ。
 でも、なんとなくみんなが解散した後で数人の先輩に声を掛けられたのが、いつもと違った。
「下半期に入ってから特に絶好調だなー兎束は。おめでとさん」
「あはは、そんな……ありがとうございます」
「あやかりたいねぇ」
 会話をさばくうちに、ああ、なんか嫌な感じするなあ……とぼんやり思う。先輩たちは俺をネタに会話で盛り上がっていて、なんだか居心地が悪かった。やっぱりイケメンは強いよなあとか、お前はまず痩せろデブとか、内輪ノリの言葉の強さに肌がひりつく。こういうときって碌なことにならないのだ。発した当人にとっては取るに足らないような言葉が心を抉ってくることなんていくらでもあって、だから、これは予想通りだった。
「なあ、やっぱりクライアントが女だと適当に気のあるふりすれば楽勝だったりするんだろ?」
 ――馬っ鹿じゃねえの、そんなんで契約取れたら苦労しねえだろ!
 あまりにも短慮な言葉にそう怒鳴ってやりたかったけど、こらえた。こらえてしまった。だってここで怒るのは俺のキャラじゃないから。でも、じゃあ、こういうこと言われて笑って流すの、一生続けなきゃいけないのかな――とか。
 頭の中はぐちゃぐちゃだけど、今更この程度のことじゃ笑顔は崩れないし崩さない。適当に相槌打ってやり過ごそう、と口を開きかけた瞬間、今度は予想外のことが起こる。
「せんぱーい、駄目じゃないすかそんな言い方。冗談でも傷付きますよ」
 突然割り込んできたその声に、飛び上がるほど驚いた。慌てて振り返った先には――案の定、三浦さんがいる。会社では滅多に他人と交流しない、ましてや他部署の人間と会話なんて以ての外な三浦さんが、今、確かに喋っている。
 先輩たちは明らかに三浦さんの登場にひるんでいる様子だ。当たり前すぎる。だってほぼ確実に初対面なのだから。おまけに、三浦さんは社内でもちょっとした有名人だ。噂を一度でも耳にしているなら、目の前の光景は信じられないものだろう。
 けれどそんな気まずい空気なんて素知らぬ顔で、三浦さんは言葉を重ねる。独り言みたいに。
「先輩だって兎束さんが努力してるの気付いてないはずないのに。営業さん同士だからこそ分かりますよねーそういうのって」
 あ、空気が変わった、と思った。気のせいなんかではない。先輩が、「そうだよなぁ、悪い。言葉が過ぎた」と謝ってきたからだ。俺は慌てて、「や、そんな全然……いかにも顔頼みって感じじゃないですか、俺。あ、もちろん契約取るのは正攻法で頑張ってますけど!」と冗談っぽく笑顔で返す。
 予鈴のチャイムが鳴ったことを口実に、「じゃあそろそろメールチェックしなきゃなんで……」と会話の続行の意思がないことを示してみると、先輩たちはまだ少し気まずそうにしながらも自席へと戻っていった。安心したのも束の間、ぐいっと腕を引かれてつんのめりそうになる。
「え、ちょ、三浦さん? というかなんでこっちの島に……」
 小声で尋ねても黙殺だ。……え、なんか怒ってる?
 三浦さんは俺の腕を掴んだままオフィスを突っ切り給湯室へと続く扉を出て、裏口側のエレベーターホールへと進む。こっちは、滅多なこと――それこそ年末の大掃除で粗大ごみを処理するとか――がないと人が入ってこない場所だ。そんな空間に二人飛び込んで、かと思えば三浦さんは、ふう、と軽くため息をついて俺を見た。
「兎束さん、あんなの真に受けて傷付かなくてもいいですよ」
 それはあまりにも真っ直ぐで、眩しいくらいの言葉だった。堂々としていて、優しくて。俺には真似できそうもない。
 そして、重ねて思う。三浦さん、さっきは俺の代わりに怒ってくれたんだなって。前、真面目な顔で『人間関係失敗したくないから会社では極力喋らない』みたいなこと言ってたけど、そういうのぶん投げてでも反論したいと思ってくれたんだなって。
 有難く感じるのと同時にどうしようもなくみじめになる。俺だっていちいち傷付きたくて傷付いてるわけじゃないし、気にせず毅然としていられるならそれが一番いいのも分かってる。でもどうしても気にしてしまうし、傷付かずにはいられない。だって薄々、自分でも思っているのだ。自分の評価が分不相応なんじゃないかってこと。今の立場を不当に手に入れてしまったんじゃないかってこと。
 庇ってもらって、助けてもらって嬉しいはずなのに、それでも「そんなことができるならとっくにそうしてる」なんて思ってしまう。
「…………うん。ありがとう」
 ようやく絞り出した声は、たぶん、震えずに済んだと思う。視界も滲んでない。ちゃんと耐えた。耐え切った。
 なのに三浦さんは許してくれなかった。変わらず優しい声音で、「お礼言いたくないときは言わなくてもいいんですよ」なんて柔らかい笑顔を向けてくる。
「疲れちゃうでしょ、そんなんじゃ」
「……、疲れ……てんのかな。自分じゃ分かんないかも」
「おれだったら疲れますね。優しくする相手は選んだ方が精神的に楽です、きっと」
「そう? そっか……俺は、疲れるよりも嫌われる方がしんどいよ」
 ぽろりと、つい弱音のようなものがこぼれ落ちた。どうやって誤魔化すか考えようとして、間髪入れずに「なんで? 兎束さん嫌われてなんかいないでしょ」と返ってきたので俺は言い訳を諦める。三浦さんは会話に対する反射神経が鋭い。ほぼノータイムで返事してくるし、明快なのだ。
「そう……なんだよね。実際、そんな嫌われてるなんてことないんだろうな……」
「妬まれはしても嫌われはしないタイプじゃないですか? 人間関係、上手いですよね」
「はは、ありがと……一応、たくさん考えてるからね。どうやったら好かれるかとか、自分の言動がどういう風に見えてるかとか」
 先輩たちだって、きっと俺のことが嫌いなわけじゃない。ただ、言葉の端々にちょっとしたやっかみが混ざっているだけ。正面きって指摘すればそれを恥じて謝罪してくれる程度には分別も良識もある人たちだ。俺だって頭がよくて仕事のできる奴を妬んでみたりもする。それと同じなのだろう。
「結局、嫌われるのが嫌っつーか嫌われるかもしれないのが怖いだけなんだろうな……」
「そういうもんですか。どんな人でも二割から好かれて二割から嫌われてあとの六割はどうでもいいみたいな法則なかったですっけ」
「あー聞いたことあるかも……? なんだろ、その例で言うとさ、俺は八割からの好意を確保しておきたいわけ。何やったって嫌われる二割はもうしょうがないよ、でも努力でどうにかなる六割からは嫌われないように上手くやりたい。友好的な関係でいたいんだよね。……嫌われてる人にだって、それを表に出さないようにしようって思ってもらえるくらいの関係は築きたい」
 ほんの少しだけ、三浦さんの相槌に間が空いた。八方美人とか言われるかな、なんて俺がまた後ろ向き思考を発揮させていると、「……ほんと努力家ですよね、兎束さんって」とまるで噛みしめるみたいなゆっくりとした口調で言われた。
 三浦さんは、俺が努力していることを認めてくれる。そのことに安堵した。
 これは俺の処世術であり生き方であって、今日明日でやすやすと変えられるようなものでもないのだ。癖みたいなもの。こびりついて取れないもの。鬱陶しくても綺麗に洗い流してしまいたくても、しつこく目の前に現れる。
 でも、ああして庇ってもらえたのは純粋に嬉しかった。
 本当に……救われたような気さえした。
 今なら泣きたいのを我慢するわけでもなく自然に「ありがとう」と言える気がして、三浦さんの様子を窺う。そしたら三浦さんも俺のことを見ていたみたいで、目が合った。
「――ああいう人たちに好かれるより、おれに好かれる方がよくないですか?」
 一瞬、何を言われたか分からなくて「えっ?」と聞き返してしまう。すると三浦さんは、より簡潔に、分かりやすく、とんでもない発言を聞かせてくれた。
「おれが兎束さんを好きなだけじゃ駄目なの? ってこと」
「………………えっ!?」
 思わず叫んで、そして絶句してしまった。この人の発言に勝手に振り回されてきた俺だけど、今度ばかりは俺が動揺するのも仕方ないよって擁護してもらえる気がする。誰になのかは分からないけど。
 俺が固まってる間にも、三浦さんは喋り続ける。「ほぼ他人みたいな百人に好かれる努力するより、おれ一人と楽しむ努力する方が絶対コスパいいでしょ。っつーか後者って努力なの? よく分かんないですけど。別におれじゃなくてもいいんですよ、兎束さんが仲良くしてる人だったら……あ、ほら、こないだの飲み会の幹事の人とか? 佐藤さん」その屈託のない語り口に思わずくらくらしてきた。こ、この人、底なしに明るいこと言ってくるじゃん……。
 要するに、親しい人とちゃんと関係が築けていれば、その他の有象無象の嫌味なんて気にならないだろ、みたいな話をしてくれているんだと思う。確かに、友達ならさっきみたいな場面では庇ってくれるかもしれないし、俺が怒れない代わりに怒ってくれるのかもしれない。そして、その後慰めてくれたりするのかも。現に三浦さんはそうしてくれた。彼はそういうことができる人なのだ。だからこそ自分も助けてもらえると疑ってないし、さっきみたいなことを自信満々に言える。
「言い返しづらいダッセェ嫌味言ってくる奴らに好かれる努力するよりさぁ、おれと一緒に楽しいことしよーよ」
 三浦さんは、それができりゃ苦労しないんだよ、ってことを畳みかけてくる。これが適当な自己啓発セミナー講師とかだったら一瞬で心のシャッターが下りるけど、三浦さんが相手だと不思議と頬が熱を持つ。さっきは我慢できたのに今更泣きそうだった。
 そんな、『おれだけいればいいじゃん』……みたいな。
 そう受け取られても仕方ない発言だ。告白でもされてんのかと思った。前から薄々思ってたけど改めて、この人は危うい発言が多すぎる。
 自分の心臓がばくばくととんでもない速さで動いている理由をどうにか誤魔化したくて深呼吸する。一秒、二秒、三秒。
「……三浦さんはさ、俺が頑張れないときも仲良くしてくれる?」
 精一杯明るく、茶化した声を装って言った。頑張れないときも、なんて言いつつやっぱり頑張ってしまった。取り繕えた、と思った。それなのに、目の前の彼は俺のささやかな抵抗なんてどこ吹く風で直球の言葉を紡ぐ。
「うん。だっておれ兎束さんのこと既に好きだし。二割側だから、兎束さん的にお得じゃないですか?」
 堂々とした口調とは裏腹にちょっと恥ずかしそうな表情を見せられて、もう、どうにもならなかった。
 あ。だめだ。
 好きだ、この人のことが。
 考えないようにしてたのに。
 遠くで始業を告げるチャイムの音がしている。三浦さんにお礼言わなきゃ、それで早くデスクに戻らなきゃ、なんて頭ではぐるぐる考えているのに、足は一歩も動かないし声帯もぴくりとも震えない。
「……っ、……ありが、と」
 数秒経ってようやく出てきたお礼の言葉は拙くお粗末なもので。なのに三浦さんは「うわ、恥ずかしいこと言っちゃった」と笑ってくれた。
 今度こそ込み上げてきた涙を必死で呑み込む。ついでにこの気持ちも飲み下してしまえたらよかったのになんて内心で自嘲する。
 深入りしちゃまずいって、これ以上はやばいってちゃんと分かってた。
 分かってたのにどうしても離れられなかった、その時点で俺の負けだった。

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