羽化に唇 ▽▽▽ ( UNION / GARDEN )

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「湊くん、最近連絡くれなかったね。ちょっと寂しかったなぁ」
「仕事忙しかったんだって。ごめんね」
「ふふ、いいよぉ。その代わり……」
 するりと首筋に伸びてきた手を受け入れる。微かに香水の匂いが鼻腔を擽った。
 自分でも上手く説明できない感情が積もり積もって怖くて、色々考えるのが億劫になったから久々に女友達に連絡を取った。そういえば最近遊んでなかったし、欲求不満なんじゃない? とか。溜まってんだよきっと。
 割り切って付き合ってくれる女の子は意外に貴重だ。しかも、ある程度気心が知れている相手となったら尚更。
 彼女は大学時代の一コ先輩で、同い年。面倒な束縛してこないし距離感も適切でかなり気は楽。唇を軽く食んで、目が合って相手が微笑んだのを合図に体を離す。
 優しくして、優しくされると安心する。何も間違えていないんだと思える。今日も誰かにとっての価値を生み出せていると信じさせてほしい。この違和感を消してほしい。

「てゆーか、何があったの?」
「え?」
 全てのことが一段落してベッドの中で他愛のないお喋りをしていたときのこと。何の前触れもなく聞かれて、俺は返す言葉を咄嗟に見つけられなかった。数秒経ってようやく、「なんのこと?」と尋ねる。
「いや、何かあったんでしょ。湊くんが自分から連絡してくるときって心が弱ってるときだもんねぇ」
「…………マジ?」
「ふふ。もしかして気付いてなかった?」
 人のことメンタルヘルスに使うのやめてよねぇ、と冗談めかした口調で言う彼女。こういうとき、変に労わるような言葉を選ばないのが有難い。きっと俺のこの反応も込みでこういう言葉選びをしてくれているんだということが分かるから、余計にそう思う。
 気付いてなかったというか、俺的には欲求不満説が濃厚だったんだけど……いや、そっちはそっちで最低ではあるけど! そういうわけじゃなかったってこと?
 何か。何かかあ……残る心当たりひとつだけなんだけど、これ改めて口に出したらおしまいな気がするんだよね……同期の男に感情乱されててよく分かんないとかさあ……。
 俺はどうやら随分と難しい顔をしてしまっていたらしく、華奢な指先が俺の頬をつまんで優しい力加減で抓ってくる。
「最初に誘ったときはまさか湊くんがこんな感じだとは思わなかったなー」
「それ褒めてないよね絶対……!?」
「うん。褒め言葉に聞こえる?」
「聞こえない……」
「んふふ……遊んでそうだなーって思ってたしセックスが上手かったのは予想通りだったけど」
 どんなところが予想外だったの、と聞いてみると、「予想よりずっと真面目で優しかった」とさらりと言われた。いや、真面目で優しい奴はこんな風に遊んだりしないで本命一本に絞ると思うよ……。
「テキトー男だと思ってテキトーに声かけちゃってごめんねぇ」
「や、そんな、別に……」
 俺も都合よく連絡したりしなかったりするし、お互い様だ。
 でも、連絡するしないにそんな規則性があるだなんて気付いてなかった。それは、だめ……だと、思う。自分で理解した上でやってるならいいけど、知らないうちに他人を利用するみたいになってるのは責任感がない。
「あー……と、無自覚にメンタルヘルス対策に使っちゃってごめんね……?」
「いいよぉ。私も最後の最後でごちそうさまって感じだったし」
「最後の最後って」
「まあ私はそこまで親切じゃないから、湊くんが自覚してないなら今日まではギリ食べちゃうよね。ふふふ」
「えっやばい……ここまで人の言ってること理解できないの大学の講義ぶりなんだけど……」
 本人だと逆に分からないみたいなことあるよねぇ、と彼女は言った。ひどく達観したような口ぶりだった。
「湊くんのそういうとこが好きだなぁ」
「そういうとこ?」
「メンタルヘルスに使うなって言われて謝っちゃうところ。私の言ってること意味不明って思っててもちゃんと考えてるところ。でも、それを自分のいいところだって分かってないところが一番好きかも?」
 どうしよう、禅問答してる気分になってきた。褒められているのか何なのか分からないけれど『好き』という言葉を向けられて、普段なら安心できるはずなのに。
 彼女はまた笑って、「セックスするのは今日が最後かもだけど、話し相手が欲しいときはたまには連絡してもいいよ?」と言った。
 え、なんかよく分からないまま関係解消を仄めかされてるんだけど。いや、仄めかしっていうか直球だわこれ。っつーかセックスしなかったら俺に何を求めて会うの? ……流石にそんな赤裸々なことは言えなかったので、「……なんでそんな優しいこと言ってくれるの?」と曖昧に笑っておいた。
 彼女の返答は、思っていたよりもずっと短い。
「湊くんはセフレだけど、セフレじゃなくなっても私の可愛い後輩だし」
 さらりと告げられたその理由をゆっくり咀嚼して、俺はしみじみと言う。
「なんだそれ……めちゃくちゃいい女じゃん……」
「でっしょ? ふふ」
 言ってることの半分も理解できている気がしないし、欲求不満だと思っていたもやもやはいまいち解消されてないっぽいし、セフレを一人失いつつある。というかこれたぶん失ってるな。うん。
 不思議と惜しいとは思わなくて、それが申し訳ないような気持ちになる。傲慢だ。
「たぶんね、私に連絡したくなると思うよ。数ヶ月後に」
「なにそれ予言?」
「そう。予言。当たったら教えてね」
「んー……うん。分かった」
 よく分からないなりに、彼女が俺のことを少なからず心配? 気にかけて? くれていることは感じられたので素直に頷いておいた。普段だったらこんな謎かけみたいな言葉、めんどくさいって思っちゃいそうなのに。
 いよいよ自分のことも分からなくなりそうでうんうん唸っている俺に、彼女は「湊くん可愛くなったねぇ」とからから笑った。それはとても、ひょっとすると今まで見た中で一番先輩っぽい仕草だった。


「時間の足りなさがキツくなってきました」
 それは何度目かの勉強会でのこと。三浦さんがぽつりとこぼした言葉に、俺は咀嚼していたチョコレートを慌てて飲み込んだ。
「そもそもさぁ、終業後の数十分じゃ物足りなくないですか?」
「そ、そう? 俺教わってる側だしあんまり三浦さんの時間圧迫すんのもなーって思ってた」
「おれの残業が多めだから余計に時間少ないんですよね、スミマセン。兎束さんのこと毎回待たせるのも申し訳ないですし」
「いやそこは全然気にしないで! ほんとに!」
 元々、時間を無理に合わせてもらっているのだ。待つくらいはしないと逆にこっちが居心地悪い。けれど三浦さんは三浦さんなりに勉強会のことを気にしてくれているらしく、しばらく無言になっていたかと思えば――ふと動きを止めた。
「兎束さんって土日を勉強に充てられる人?」
「え……まあ、場合によっては。待って、休日出社は流石に申し訳なさすぎる! 三浦さんそんな家近いわけじゃないですよね?」
「四十分くらいですよ。普通だと思いますけど」
「俺ドアドア二十分」
「うわ近。でも、そっか、それじゃあ……」
 おれの家来る? と小首を傾げる三浦さんを見て、何を言われているのか理解するのに少し時間がかかった。
「い……家」
「家。在宅用のノートPC借りればソースコードも見られますし。兎束さんの家からだとたぶんおれの家二十分ちょいだと思うから、会社来るのと時間的には変わんないでしょ?」
 まあ会社のソースコード使うまでもないかもですけど〜、となんでもない風に言っている三浦さん。プライベート空間に他人を入れることにあまり抵抗がない人なのだろうか。会社の人を自宅に呼ぶことってそうそうないよね?
 ……三浦さんの家、ちょっと気になるな……三浦さんが家ではどんな恰好してるのかとかも気になる……。
「…………、三浦さんさえよければ、お邪魔します」
「なんですかその間。いいから提案してるんでしょ。いつなら予定空いてます?」
「あー、最近は割といつでも……? 今週でも別に」
「じゃあ明日は?」
「明日!? いいけど……」
「いいんだ。よし、そんなわけで今日はもう帰ろ、寒いし」
 三浦さんは言うが早いか立ち上がって、俺たち以外誰もいなくなったオフィス内の締め作業を慣れた手つきで行う。空調を切って、電気を消して、ポットの電源を落として、カードキーで施錠する。
 もう二人で歩くのも慣れた道のりを、ゆっくり駅まで。改札のところで別れて数歩進んだところで、「兎束さん」と背後から声がかかった。
「また明日ね」
 振り返った先にはゆるゆるとこちらに手を振る三浦さんがいる。なんだかものすごく恥ずかしいことをしている気がするんだけど、俺もつられて「あ、うん……また明日!」と手を振った。
 なんだか落ち着かない気分で改札をくぐる。そういえばスーツじゃない恰好で会うの初めてかも、ということに思い至る。
「……うわ。緊張する……」
 思わずこぼれた本音は、電車がホームに入ってきた音ですっかり掻き消えた。
 どの服着て行こう、なんて、ここ数年は浮かびもしなかったような悩みが、頭の大部分を占めていた。

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