羽化に唇 ▽▽▽ ( UNION / GARDEN )

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 後から考えてみると、思い切りがよすぎる……というか厚かましすぎるお願いだったな、と若干焦ってきた。
 当たり前だけど就業時間中に勉強会なんて無理だし、となると必然的に定時後にずれ込むことになる。三浦さんは快諾してくれたからこうやってうだうだ悩んでるのも逆に失礼な気がしてまた悩む。
 今日は記念すべき第一回目。何をするのか全然想像つかないけど、想像つかないまま当日になってしまった。せめて賄賂を用意しよう……と思って定時後にコンビニへと向かうべく席を立つ。
 エレベーターに乗った俺は、途中で総務課の女子社員たちと出くわした。
「兎束さぁん、お疲れ様ですー。今帰りですか?」
「お疲れ様です。今日はもうちょい残るんで間食でも調達しようかなと」
 大変ですね、頑張ってくださいね、と口々に言われてそのひとつひとつに相槌を打つ。適度な距離を保ちつつ親しげに。バランスが大事なのだ。
「なんだか今日楽しそうじゃないですか? 兎束さん」
「え、そう? そう見えます?」
「見えます見えます! 何かいいことありました? いつもよりふわっとしてる感じ。かわいい〜」
「あはは、なんだろ。応援してもらったから元気出たのかも?」
「もー、調子いいことばっかり言う」
 ころころと楽しそうな笑い声に安心する。今日も俺は正しく受け答えできている。嫌な思いをさせてないし、気を配れているし、好感を持ってもらえている。
 自分に八方美人なきらいがあるのはちゃんと自覚してる。でもさ、嫌われるよりは好かれる方がいいじゃん。俺はそう思うよ。
 また飲み会呼んでくださいねぇ、という甘さのある『お願い』を柔らかくいなしつつ、コンビニの前で彼女たちと別れる。そして、ついさっき向けられた言葉を頭の中で反芻する。
『何かいいことありました?』
 何かいいこと、か。心当たりはひとつしかないんだよな……。でも、同僚との勉強会を、あからさまに態度に出てしまうほど楽しみにしていたという事実はちょっと気まずいというか、恥ずかしい。
 明るいコンビニの中を練り歩き、ホットココアと新製品らしきチョコレートを手に取る。甘い物と甘い物って大丈夫かなと一瞬思ったけれど、三浦さんは甘党みたいだし問題ないだろう。
 冷えた指先にココアの温かさが痺れるほどだった。もしかしたら俺の体温でココアが冷えちゃうかも、と慌ててオフィスに戻る。
 定時後、人の少なくなったオフィスは、タイピングとマウスのカチカチという音だけが密やかに発生する空間だ。俺はフロアの隅の隅、サーバールームのすぐ横にぽつんと配置された三浦さんの席へと向かった。
「三浦さん、お邪魔します」
 適当に椅子をコロコロと引っ張ってきて、三浦さんの横にポジション取りする。三浦さんはふっと顔を上げて、「……甘い匂い」と呟いた。
「じゃーん。賄賂です。ホットココア」
「わ。ありがとうございます。なんかスミマセン、逆に気を遣わせたみたいで」
「いやこちらこそ時給も出ないのにごめんねって感じで……! あ、もしかしてまだ作業中でした?」
 三浦さんはこくりと頷いて、「すぐ終わらせるので」と申し訳なさそうな表情になる。俺は慌てて、「ゆっくりでいいから! そうだ、チョコレートも買ってきたからどーぞ」と箱をデスクの上に置く。
「兎束さん、いっつもそうやって気ぃ遣ってんですか? 疲れない?」
「んー、気を遣ってるというか俺が勝手に気になるだけ……どうしてもさ、ほら、負担だろうし」
 俺の言葉に、三浦さんは首を傾げた。「なんで? おれは兎束さんだからオッケーしたんですけど。負担なら最初から断ってますよ」真っ向から否定されて少しひるんでしまう。俺にとってこういうのは、もう長らく身に染みついたもので特に意識するまでもなくやってしまうことだったから。
「すみません、癖なんだよね。嫌な思いはなるべくしてほしくないって思っちゃうから……や、別に三浦さんが嫌な思いしてるって疑ってるわけじゃないんだけど」
「そこで謝るのも謎なんですけど。別に責めてないです」
 ごめん、とまた謝りそうになって、三浦さんがすかさず「あ。待って、今のはおれの言い方が悪かったです。言い直すから待っててください」と先回りしてきたので口をつぐむ。
「…………おれは、嫌だなと思ったら断れるタイプなんで、兎束さんが心配しなくても大丈夫……ってことが、言いたかった」
「心配……」
「心配してくれたんでしょ。でもね、おれだって面倒なだけのことは引き受けません。仕事じゃあるまいし」
 と、ここで三浦さんは椅子をぐっと引いて、「っつーかさぁ」と俺のことを見た。
「おれは、兎束さんと一緒ならこういうのも楽しいかなって思ってここにいるのに、そんな下手に出られると逆に嫌ですよ」
「……えっ、楽しいかなって思ってくれてたの!?」
「ハ? 何? アンタは苦行だと思ってる感じですか?」
「いや違っ……今のは俺が悪いですね! すみません!」
 しどろもどろになりながら俺は観念する。俺だって、三浦さんにじゃなきゃこんなこと頼んでない。こんな七面倒くさいこと、頼む相手はちゃんと選ぶに決まっているのだ。少なからず三浦さんの負担になるだろうなんて当たり前に想像した。負担がられるかもしれないという心配を差し引いても、目の前の彼がやっていることが気になった。
「あのー……笑わないで聞いてほしいんだけど」
「はい」
「めちゃくちゃ安心したのでお礼言わせてください……ありがと……」
 椅子に沈み込んで、ため息と一緒にそんな思いを吐き出す。俺の態度のせいでわざわざ言わなくてもいいことを言わせてしまった……なんて気持ちはまだ若干あるんだけど、それでもほっとした。
 普段の俺はどうしても頼みを聞く側であることが多くて、というかそれが殆どで。俺がそうしているのは、周囲からの評価や好意というリターンがあるからだ。でもいざ俺が何か他人に頼るような事態になったとき、その相手は俺からの好意をリターンだと思ってくれるかどうか、俺は正直疑問に思っている。だからつい、物で返そうとしてしまう。三浦さんが嫌なら嫌と言えるタイプだなんてこれまでの交流から察せられていたのに、それでも大丈夫だという自信が持てなかった。
 ……あ、でも。
「三浦さん、ひとつだけ訂正させて。『賄賂』って言っちゃったけど、そういう気持ちがあったのは確かなんだけど、……一番は、これあげたら三浦さんが喜んでくれるかなって思ったからだから」
 好きなものあげたら喜ぶかなって、それだけ。取り繕わずに言っちゃうと、笑顔が見たかっただけなのだ。
 もう散々情けないとこ見せちゃったし全部言っちゃえ、と思って、変に気負わず伝えることができた。じわりと胃が温かくなったような満足感があって、俺は自分のココアを一口飲む。
 舌に濃厚な甘みが広がって嬉しくなる。火傷せずに飲めるけど一気に飲み干せるほどぬるくもない、ちょうどいい熱さだ。
 これは三浦さんにも勧めなければと思って視線を上げたら、ジト目の三浦さんと目が合ってぎくっとした。え、何。
「ど、どうかした?」
「いや、タチ悪〜……と思って……?」
「何が!?」
「そうやって女の子口説いてんでしょ。いつか刺されますよ」
「刺されませんよ! というかマジな話三浦さんにだけは言われたくない。ほんとに」
 思わず真顔になってしまった。三浦さんは納得いきませんみたいな表情をしてたけど、こればっかりは譲れない。
「……まあいいや。なんか前置き長くなっちゃいましたね。あと少し待っててください、作業きりのいいとこまで終わらせるので」
「はーい。それ、画面見ても大丈夫なやつですか?」
「大丈夫なやつです」
 そこで会話は途切れて、たちまち三浦さんの席の周りは軽快なタイピング音だけが気持ちよく聞こえる空間になる。何をやっているかほぼ分からないのに、それでも次々打ち込まれるコードが整然と並んでいるのは興味深い光景だった。三浦さん、バックスペース全然使わないな。タイプミスが極端に少ないし、一度書いたものを戻って書き直す……みたいなことも殆どしない。なるほど、これは作業が速いはずだ。
 まるで魔法みたいで、俺はその光景に見入ってしまう。
 ふと、三浦さんの手が止まった。左手がココアに伸びて、同時に視線が俺を捉える。
「危ない。兎束さんがせっかく買ってきてくれたやつ、熱いうちに飲まないと」
 カップに口をつけて、「……ん、おいし」と独り言みたいにして呟く三浦さん。口元に微かに笑みが浮かんでいるのも、この距離ならよく分かる。
 なんだろう。こっちもまるで魔法みたいに目が離せない。
 俺のささやかすぎる好意も、大切にしてくれてるって分かるからかな。だからこんなに嬉しくなっちゃうし、妙に体も熱いのかな。
 俺はまたココアを一口含む。舌に残る甘さと熱で、なんだか思考まで溶けていきそうだった。

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